記事 での「親鸞を読む」の検索結果 2,831件
勢至観
(10)勢至観
次は第十一の勢至観です。
次にまた大勢至菩薩を観ずべし。この菩薩の身量の大小は、また観世音のごとし。円光の面(おもて)は、おのおの百二十五由旬なり。二百五十由旬を照らす..
タグ: 親鸞を読む
不都合な事実
(9)不都合な事実
思い出されるのが『創世記』のなかのアダムとイブの話です。アダムとイブはエデンの園で蛇に誘われて禁断の木の実を取って食べてしまい、その結果、自分たちが裸であることに気づいてイ..
タグ: 親鸞を読む
逃ぐるを追はへとる
(8)逃ぐるを追はへとる
先の真身観においては「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」という一節にすべてが凝縮されていましたように、ここ観音観においては「そ..
タグ: 親鸞を読む
観音観
(7)観音観
次に第十観、観音観です。
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「無量寿仏を見たてまつること、了々分明なること已(おわ)りて、次にまたまさに観世音菩薩を観ずべし。この菩薩、..
タグ: 親鸞を読む
出離の縁あることなし
(6)出離の縁あることなし
曽我量深氏はどこかで、この無縁の大悲について、これは「機の深信」にある「出離の縁あることなし(無有出離之縁)」の「無縁」と深く対応していると述べています。仏の無縁の..
タグ: 親鸞を読む
無縁の大慈悲
(5)無縁の大慈悲
仏を観るとはいうものの、それは実のところ、仏の光明に照らされることであり、その光明に摂取されることであることを見てきました。さてさらに、「仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏..
タグ: 親鸞を読む
信心とは光明・名号の気づき
(4)信心とは光明・名号の気づき
としますと、経の「念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」というのは、「信心の衆生を摂取して捨てたまはず」という意味だということになります。弥陀の光明は「あまねく十..
タグ: 親鸞を読む
念仏の衆生を摂取して捨てたまはず
(3)念仏の衆生を摂取して捨てたまはず
善導は『往生礼讃』において「しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発(おこ)して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ」と述べています。すなわち弥陀仏は深重..
タグ: 親鸞を読む
一々の光明は、あまねく十方世界を照らし
(2)一々の光明は、あまねく十方世界を照らし
無量寿仏の「身相と光明」を観ずべしと述べられますが、その身相については、もうわれらの心にとっておよびもつかないものであることにため息をつくしかあり..
タグ: 親鸞を読む
真身観
第4回 摂取して捨てたまはず
(1)真身観
いよいよ第九観、真身観です。
仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この想成じをはらば、次にまさにさらに無量寿..
タグ: 親鸞を読む
心に仏を想うとは
(14)心に仏を想うとは
このように見てきますと、「心に仏を想ふ」というのは、こちらにある「心」があちらにおわす「仏」を「観る」のではないということがはっきりします。むしろ、ここで仏が多陀阿伽..
タグ: 親鸞を読む
心のほかに仏ましまさず
(13)心のほかに仏ましまさず
しかしこの「心のほかに仏ましまさず」という言い回しはよほど注意が必要です。親鸞は「信巻」の序でこう言っています、「しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈み..
タグ: 親鸞を読む