記事 での「親鸞を読む」の検索結果 2,830件
田あれば田を憂へ、宅あれば宅を憂ふ
(4)田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ
ここで考えなければならないのは、それぞれの「欲望への意思」は互いに対立するということです。ある人の欲望は他の人の欲望とぶつかり、そのなかでしのぎを削るこ..
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欲望への意思
(3)欲望への意思
われらは「わたしのいのち」を「わたしの意思」で裁量していると思っています。卑近な例ですが、ぼくがパソコンの操作に苦労しているとき、横から妻が「そうじゃなくて、こうするのよ」と..
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わたしの意思
(2)わたしの意思
どのような行為であれ、それが意識的になされる以上、そこに「わたしの意思」があるとしますと、その意味では、あらゆる意識的行為は自由であるということになります。しかし、そこに強制..
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はじめに(10)
第10回 自由ということ
(1)はじめに
前回の最後のところで、われらは紛れもなく自力(「わたし」のはからい)で「生きている」が、それがそっくりそのまま他力(「如来」のはからい)に「生かされて..
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自力の世界と他力の世界
(11)自力の世界と他力の世界
ここから明らかになりますのは、何かが「たまたま」であるとは、そこにわれらのはからいがないことを意味するということです。ぼくと妻のつながりが「たまたま」であるとは、..
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「たまたま」再論
(10)「たまたま」再論
本願成就文における願生と得生は同時因果であることを見てきました。そしてそのときの願生は「われら」の願生である前に「如来」の願生であるということでした。「われら」の願生が..
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すでに如来から
(9)すでに如来から
願生と得生にもどりますと、「われら」が往生を願う以上、まず願生があり、しかるのちに得生があるのであり(異時因果であり)、願生があるところ、すでに得生がある(同時因果である)..
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原因概念のもとは「われら」が何かを「する」こと
(8)原因概念のもとは「われら」が何かを「する」こと
しかし願生があるところ、すでに得生があるというのは、どうにも不自然に感じられます。その不自然さのよってきたるもとは「願う」ということばにある..
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すなはち往生を得
(7)すなはち往生を得
そしてそのあとに「かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」ときます。不退転といいますのは、正定聚と同じく、かならず仏となるということで、往生することと..
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本願成就文
(6)本願成就文
同時因果の例として取り上げたいと思いますのが、親鸞が『無量寿経』のなかででもっとも重要と考える本願成就文です。「その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したま..
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涅槃のかどに入る
(5)涅槃のかどに入る
涅槃に入るとは言わず、「涅槃のかど(門)」に入ると言いましたが、これには少し説明が必要です。
われらの苦は煩悩からもたらされていること(これが集諦です)に気づくのが、善..
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煩悩と苦はひとつ
(4)煩悩と苦はひとつ
もう一度、先の煩悩と苦の関係に戻りますが、これを「原因・結果」の関係ととらえることから、結果としての苦をなくすためには原因である煩悩を断てばいい、という実践的指針が出てき..
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