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記事 での「親鸞を読む」の検索結果 2,832
弥陀仏は自然のやうをしらせん料
コギト ] 05:35 05/29
(7)弥陀仏は自然のやうをしらせん料  親鸞はここで他のところでは言わないようなことをズバリと言っています、「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」と。  自然とは、こちらからはからうことなく、..
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第2段本文
コギト ] 05:34 05/28
(6)第2段本文  第2段に進みます。  ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたち..
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義なきを義とす
コギト ] 05:30 05/27
(5)義なきを義とす  それにしても、「およそ行者のはからひのなきをもつて」とか「すべて、ひとのはじめてはからはざるなり」とか「もとより行者のはからひにあらずして」とか、しつこいほど「行者のはか..
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自力の気づきと他力の気づきはひとつ
コギト ] 05:44 05/26
(4)自力の気づきと他力の気づきはひとつ  こんなふうにぼくらは隅から隅まで自力の世界に生きています。他に手を差しのべるのも、結局は己のためですし、また、手を差しのべられる側も、それをみずからつ..
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自力と他力
コギト ] 05:40 05/25
(3)自力と他力  まず自力と他力ということばには注意が必要です。日常語としての自力・他力と仏教語としての自力・他力とではかなりの差があるからです。それを一緒くたにしてしまうところからさまざまな..
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「如来のちかひ」と「行者のはからひ」
コギト ] 19:22 05/24
(2)「如来のちかひ」と「行者のはからひ」  これは手紙文ではなく、親鸞の法話の聞き書きのようです。といいますのは、『末燈鈔』とは別に、高田派専修寺に顕智上人書写本というのが伝えられており、その..
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第5通第1段本文
コギト ] 05:48 05/23
             第4回 自然法爾 (1)第5通第1段本文  第5通です。2段に分け、その第1段。  「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。「然..
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諸仏とわれら
コギト ] 05:28 05/22
(12)諸仏とわれら  称名の前に聞名があるということ、南無阿弥陀仏を称えるのは、それに先立って南無阿弥陀仏が聞こえるからであるということ、ここにポイントがあります。  南無阿弥陀仏は諸仏から..
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諸仏の称名
コギト ] 05:08 05/21
(11)諸仏の称名  「信心のひとは如来とひとし」を裏づける経文として、まず『華厳経』から「信心歓喜者与諸如来等(信心歓喜するものは、もろもろの如来とひとし)という文を引いていますが、これは正確..
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第4通本文
コギト ] 05:53 05/20
(10)第4通本文  『末燈鈔』の第4通です。  これは経の文なり。『華厳経』にのたまはく、「信心歓喜者 与諸如来等(しんじんかんぎしゃ よしょにょらいとう)」といふは、「信心よろこぶひと..
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娑婆は娑婆のままで浄土
コギト ] 05:45 05/19
(9)娑婆は娑婆のままで浄土  ここで愛について考えてみましょう。あるときふと誰かの「愛の中にいる」と気づくことがあります。  そのとき愛は「心の中」にあるのでしょうか。そうではなく、むしろ心..
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浄土はいづこに
コギト ] 05:40 05/18
(8)浄土はいづこに  しかし身はまだ娑婆にいても、その心はもうすでに浄土にいるというのはどういうことでしょう。  いちばん手っ取り早いのは「浄土は心の中」とすることです。現実には娑婆にいるの..
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