記事 での「羽柴秀吉」の検索結果 107件
中国大返しはなぜ可能だったか?⑦
6月6日の午後2時ごろ、秀吉は毛利方の備中高松城(岡山市)を包囲していた全軍に陣払いを命じ、味方になっている宇喜多方の備前沼城(同)へと入ります。
しかし、それは背後の毛利勢を窺いながらの撤退で..
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中国大返しはなぜ可能だったか?⑤
秀吉は6月4日の早朝、すでに本能寺の変の情報を掴んでいました。そこで秀吉は講和交渉中だった毛利に対して領土面で大幅な譲歩を示し、毛利方も渋っていた高松城主・清水宗治の切腹を承諾します。
宗治が切..
タグ: 講和 丹羽長秀 飛脚 羽柴秀吉
中国大返しはなぜ可能だったか?④
6月3日から4日の深夜にかけて正確な情報を掴んでいた秀吉に対して、毛利方は飛び交う雑言流言に惑わされていました。
『萩藩閥閲録』に所収される6月6日付小早川隆景(毛利元就3男)書状に、当時の混乱..
タグ: 羽柴秀吉 小早川隆景 明智光秀 織田信澄 柴田勝家 筒井順慶
中国大返しはなぜ可能だったか?③
本能寺の変は6月2日早朝に起きた事件。結果からいうと、通信手段を早飛脚などに頼るしかなかった時代に、秀吉は事件から48時間以内に詳細な情報を掴んでいました。
光秀は当然のことながら情報網を遮断す..
タグ: 羽柴秀吉 丹波 裏ルート 地侍 近江長浜 姫路
中国大返しはなぜ可能だったか?②
本能寺の変が勃発する前に毛利方と交渉がおこなわれていたからこそ、秀吉はすぐさま講和をまとめ、光秀との決戦に臨むことができました。
しかし、それも秀吉が毛利より早く正確な本能寺の変の情報を入手して..
タグ: 羽柴秀吉 太閤記 密使 奇跡
中国大返しはなぜ可能だったか?①
羽柴(のちの豊臣)秀吉が本能寺の凶報を知ったのは6月4日の未明ごろです。そのとき彼は備中高松城を包囲していました。20㌔西には毛利輝元率いる大軍が高松城の後詰めに現われ、秀吉は信長の加勢を待っていたの..
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小牧長久手の合戦の謎(最終回)
土佐の長宗我部元親は、小牧へ出陣して秀吉が不在の大坂を狙い、
「四国より(中略)二万(の軍勢を)さし渡さる」(『元親記』)
計画を企てたとされます。しかし、このときの長宗我部家の内情(別の..
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小牧長久手の合戦の謎③
家康を追って龍泉寺に入った秀吉は、徳川勢の攻撃に備え、一夜で堀を築かせます。
その”一夜堀”が完成する前に、小幡城の徳川勢に夜襲をかけられたら、羽柴勢は大きな損害を蒙ったことでしょう。秀吉は家康..
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小牧長久手の合戦の謎②
家康が要害の地(小牧山城)をおさえたことにより、上方軍(羽柴勢)はいかに大軍を擁しているとはいえ、無理に攻めかかれば、大敗を喫する危険がありました。一方の家康も相手が大軍である以上、なかなか仕掛けられ..
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小牧長久手の合戦の謎①
賤ヶ嶽の合戦に勝利した羽柴秀吉は毛利に続き、上杉を外交戦術によって懐柔しようとします。それでも四国の長宗我部や紀州の根来寺・雑賀一揆といった敵に背後から圧力を受けていた秀吉は、なるべくなら合戦を避けた..
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賤ヶ嶽の合戦の真相⑤
秀吉不在の羽柴勢陣地を急襲し、岩崎山・大岩山の両砦を落とした佐久間盛政が欲を出します。
前回述べたとおり、賤ヶ嶽砦は丹羽長秀の”名アシスト”により、羽柴勢が死守しています。盛政は敵陣で夜営し、翌..
タグ: 羽柴秀吉 柴田勝家 賤ヶ嶽 佐久間盛政 丹羽長秀
賤ヶ嶽の合戦の真相④
秀吉不在の情報を掴んだ佐久間盛政(柴田勝家の甥)は、秀吉方の岩崎山・大岩山の砦を急襲したのち、賤ヶ嶽砦に迫ろうとします。
このとき、意外なヒーローが羽柴軍の窮地を救います。そのヒーローが丹羽長秀..
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