SSブログ

動機と結果、そしてパンドラの箱:「疾走」下巻 [小説]

*この記事は、6/2に書いた「家族は簡単に崩壊する:「疾走」上巻」、そして6/14に書いた「神様、助けてください:「疾走」上巻」の続きです。

 「疾走」の下巻を読み終わりました。上下巻ものの常ですが、上巻には手こずりましたが下巻は(読むのが)早かった。あっという間に読み終わってしまいました。
 そうしていろんなことが分かりました。例えばシュウジは最終的にどうなったのか、その他の登場人物達のその後、地の文でシュウジに「おまえ」と呼びかけていたこの物語の語り手は誰だったのかということ。
 そして、重松清はどうしてこの物語を書いたのかということ。

 私はこの小説について書いた最初の記事で、重松清氏について「重松さんのリアリズムには容赦がない、と常々感じてきました。」と書きました。そしてその理由を「(前略)しかし「何のために」人の奥底を描くのか、その視点が入った時、そこには必ず揺らぎが生じます。・・・私が考えるに、重松清という人はこの「なんのために」という部分が欠落している作家であるように思われるのです。」と述べました。
 この小説を読み始めて間もなく、最初の記事にこれ(上記)を書こうと決めた。ほとんど直感でしたがそれは正しかったのだと、読み終えた今、私は思います。

 ところで。凄惨な事件が起こった時、メディアは執拗に「動機」の追求に血道をあげます。ただ殺したかったから、憎かったから、性的な欲求があったから、そんな「分かりやすい」ことだけでは彼らは満足しません。
その犯人の生い立ちや普段の生活態度、家族のこと、仕事先での様子、果ては社会全体が抱えている問題にまで範囲を広げ、繰り返し繰り返しそれを語ります。
 私は常々、その飽くなき動機の追及を虚しいものだと感じてきました。そんなことをしたって、どうして犯人が犯行に至ったかの「動機の全て」なんて分かるはずもない。一次的でない、つまりその相手の事が嫌いだったとか、自分の利害に反していたとか、あるいは何かを手に入れるためだったとかいう「分かりやすい」動機以上の動機なんて、犯人本人にだって分からないだろう。そう思っていました。
 現実では確かにそうだと今でも思っています。でも小説では違います。フィクションの世界では、作者という「神」の視点を持つものの存在によって、「動機の全ての解明」は可能になります。

 今なら分かります。この小説の上巻は、シュウジ(主人公)の「動機」の説明でした。そして下巻が「結果」の描写でした。だから上巻はあんなにも読みにくく、そして下巻はこんなにもあっさりと読むことが出来たのです。だって、いつだって抽象的で二次的な人の内面への切り込み(上巻で行われたこと)は難しいものであり、その人間が何をしたかという現実を読むのは簡単なことなのですから。

 今にして思えば、上巻では全てが述べられていました。シュウジの生い立ち、家庭環境、普段の生活態度から、交友関係。そしてまた彼を取り巻いていた社会環境やその変化に至るまで、すべてが。「全ての動機」が。・・・恐ろしいことです。
 そして下巻で語られた「結果」。結果は結果でしかありません。ですから私はここでそれについて述べることはひかえたいと思います。ただ、前の記事で「私はシュウジが救われることを願って、祈ります。神様、助けてください。と。」と結んだ以上、書くべきだと思うことだけは書いておきます。
 結末は、あれでよかったんだと思います。むしろあれ以上の結末などあり得なかったでしょう。彼は精一杯生き、そしてそれに見合う対価を手に入れた。そう思います。「動機」に相応しいだけの「結果」を、彼は出し、そして与えられた。・・・恐ろしいまでに、正確に。

 ちょっと考えました。何も知らない人がまずこの小説を下巻から読み、ついで上巻を読むという読み方をしたらどう思うだろうか。彼/彼女は、上巻で描かれるシュウジの「動機」に納得するだろうか。
 おそらく、納得すると思います。納得するしかないと思います。これはそういう構造を持った小説です。


 恐ろしいことです。私は重松清という作家が恐ろしい。
 この「疾走」を読み終えた人は感じると思うのですよ。「確かにすごい物語だった。でも、作者はこれを書くことで何を語りたかったんだ?」って。これはとても暗くて重苦しい物語であり、しかし純粋に作品としてものすごく密度が濃く、決して誰にでも書けるものではないという意味で傑作であり、素晴らしい作品なのですが、ただ読み終わった後に何も残らない。そういう小説でもあります。
 面白くなかったから時間の無駄だったのではなく、確かに濃密な読書時間を与えてもらったけれども、後に何も残るものがない。そういう小説なのです。一言で言えば「空虚」です。まさしくシュウジの目のように。

 でも分かったことがあります。どうして重松清氏は容赦なく人の奥底をえぐり出すのか、それも何の理由もなくえぐりだすのか。
 重松清氏もまた同じく、空虚を抱えている人なのです。それはきっと、「見張り塔からずっと」の「文庫版のための(少し長い)あとがき」で書かれていたことによるのでしょう。

>街に訪れる災厄を、彼は誰よりも早く見る。見てしまう。そして、現場から離れた見張り塔にいるかぎり、なにもできない。一心に「異常発見! 異常発見!」と叫ぶ以外には……。(以上、文庫版「見張り塔からずっと」255ページ6行目から8行目)。

 重松氏は後書きで、この哨兵と自分を重ねて描写しています。彼のジャーナリストという経歴、それも週刊誌の記事を書いていたという経歴を知っていれば、なおこの言葉は説得力を持ちます。

 そして私は「見てしまったんだな」と思うのです。重松氏は犯人達の「動機」を、そしてその結果抱く彼らの「空虚」を見てしまったのだなと。だからこんなにも空虚な作品を書くことが出来る、書いてしまうのだと。
 さらにまた、重松清氏自身も空虚を抱えているのだろうなと思うのです。彼は犯人達と共鳴し合う何かを持っていて、だからこそ彼らの動機が「分かってしまう」のだろうなと。
 重松氏はきっと優秀な記者だったのでしょう。

 私は……悲しいです。この作品に出てくる神父のように、私は悲しいです。現実とは、「犯行に至るまでの完全なる全ての動機」とは、またそれを暴き立てるということは、なんと虚しく悲しいものなのでしょうか。まさにこれは開けてはならないパンドラの箱です。それを開けてしまったのが、この「疾走」という作品です。最後に希望だけがぽつんと残っているところまでそっくりです。
 恐ろしい。本当に恐ろしい作品です。でも傑作です。本当に素晴らしい傑作です。私は人間の偉大さを思いました。重松清氏という作家が抱えている凄み、空虚を抱えながらなおこれだけの何かを世の中に向かって生み出すことが出来る、その生命力に感嘆しました。作家という人種の因果さと、それでも書くという行為の崇高さを思いました。この作品はまぎれもなく重松清の最高作であると思います。

 ・・・最後に一つ、どうして私はこれらのことに気付いたのか、思ったのかも告白しておきます。
 それは私もまた空虚を抱えているからです。理由も根拠もまあいろいろありますが、ここでは省略させて下さい。だけど生きています、普通に。空虚を抱える人すべてが犯行に走るわけではありません。誰の心にも空虚はあります。つまり誰しもが犯罪者予備軍なのです。いつだって真実はこんなにも簡単で、あっけなく、見過ごされがちですが、残酷なものです。

 今はただ、この小説の中で描かれたシュウジという少年の安らかなることを祈ります。
 誰に? ――もちろん、神様に。

疾走 下

疾走 下

  • 作者: 重松 清
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2005/05/25
  • メディア: 文庫

nice!(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 1

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。