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家族は簡単に崩壊する:「疾走」上巻 [小説]

 重松清さんの「疾走」を読み始めました。まだ上巻の半分を過ぎたところですが、早くも物語に引きこまれています。
 これはとても暗くて重い話です。地域差別、兄弟間の格差、貧しいということ、教育がないということ、いじめ、学校内・学級内での不平等・不条理、様々な現代社会の暗部がこれでもかというほど凝縮され、しかもさらに物語は暗黒へと向かってひた走っていく。その「疾走」に、顔をしかめながらも付いていかずにはいられません。

 私は元々重松清さんという作家には、「ビタミンF」「日曜日の夕刊」のようなハートウォーミング系よりも、「見張り塔からずっと」のようなアンハッピーエンド、バッドエンディングの物語に対して魅力を感じてきました。ですからこの「疾走」はまさに私が求める重松清の真骨頂のはずなのですが・・・やっぱり重いです。その重さに打ちのめされながら、ただただ惹かれてページをめくっています。
 元々週刊誌などでライターをしていたという経歴からくるのでしょうか、重松さんのリアリズムには容赦がない、と常々感じてきました。それはリアルであるということとは、ちょっと違います。彼の小説にも誇張やカリカチュアは普通に存在する。だけども、彼が書くことによって暴き出そうとしている人の心の深淵、社会のいびつさは、あまりに圧倒的で暴力的なまでの破壊力をもって私に迫ります。なにもそこまで・・・と思ってしまうほど、それはただひたすらに真実なのです(ここでいう真実とは「本当のこと」というより、「えぐり出されること」という意味での真実です)。

 人の心の奥底を描き出せる小説家は多いです。むしろそれは小説家にとって必須の技能ともいえます。しかし「何のために」人の奥底を描くのか、その視点が入った時、そこには必ず揺らぎが生じます。・・・私が考えるに、重松清という人はこの「なんのために」という部分が欠落している作家であるように思われるのです。それは彼が元々ジャーナリストであったからかもしれませんし、またそれとはまったく関係ない部分での個人の素質であるのかもしれません。
 理由のない暴力こそが一番恐ろしいように、理由なく暴かれる真実ほど残酷なものはありません。真実はただ真実であるというだけで人を打ちのめします。「なんのために」という理由付けがあるからこそ、人はそれにオブラートをかぶせ、真実を受け入れることができるというのに。
 ・・・なんだか抽象的な話になってしまいましたけど。

 さらに話は飛びます。この物語の前半部分で描かれているのは一つの家族が崩壊していく様子です。それはささやかなことから始まり、皆がそれに気付きながら見て見ぬふりをするうちに大きく育ち、そして取り返しの付かない段階へと進んでいきます。
 家族というのは密室です。他者はその中をうかがい知ることは出来ず、問題は常に家族の内部で起こり家族の内部のみに影響を及ぼします。問題が家庭という密室から溢れ出した時、その問題は始めて「事件」として社会的認知を得る。この恐ろしさ。家庭内の問題というのは、(他者が)分かった時には常に手遅れなのです。
 そしてもう一つ恐ろしいことは、家族というのは実は本当に簡単に壊れるってことです。私は大学生時代、鬱病になりました。入院一歩手前までいくほどの、なかなかにひどい状況でした。それで精神科にかかっていたのですが、いつものようにまず幼少期、家庭内に抱えていた問題から話し始めようとした私に対し、先生は「家庭内の問題っていうのは誰にでもあることだからねえ」といとも簡単に言ったのです。・・・私はなぜかその言葉にとても救われたことを覚えています。それは多分、先生の言葉が真実だと分かったからでした。

 問題を抱えていない家庭なんてない。密室の中にすでに種子はまかれているのです。それがどこまで成長するのか、どんな形で芽を出すのか、ただそれだけのことなのです。
 それだけで、家族は簡単に崩壊してしまうのです。

疾走 上

疾走 上

  • 作者: 重松 清
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2005/05/25
  • メディア: 文庫

 

 

*後日、この続きとして「神様、助けてください:「疾走」上巻」(6/14)、そして「動機と結果、そしてパンドラの箱:「疾走」下巻」(6/16)を書きました。


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