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「普通」ってなんだろう? [このブログについて]

「普通、○○だよね」とか、「普通学級」とか「普通科」とか、世の中には「普通」という言葉がたくさん出てくる。「普通」であることを強いるような風潮もある。

でも、「普通の人」ってどんな人なんだろう?
「普通」って何? 多数派ってこと? 少数派は普通じゃないの?
で、何においてその多数派、少数派を比較し、区別するのだろう。

ずっと、常日頃、「人はみんな違うし、普通の人なんかいないよなぁ」って想って暮らしているし、「十把ひとからげ」っていうのが好きじゃない私。
「普通じゃない」とよく言われたし、そんな自分でいいと想っているから気にならないけど、「普通」ってなんだろうなぁ・・・ってずっと想いながら生きてきた。

実は統計的にも、「普通」って見いだせない、ってことは体験的に知っている。

仕事で、統計を取って、それをまとめるとき、選択解答は数字で処理して平均値を出して、そこに意味を読み取る。すると、一応は、その調査対象は「こういう人たち」ということもできるし、そうやって、何らかの判断の根拠にしていくこともあるのだが、一方で、そういうやり方をもってしても、肌で感じている対象の姿と一致することはない。

だって、すべての対象を調査するわけでは決してない。
そもそも調査では、「調査」ということに賛同できる声しか集められないから。

記述解答など、もう、百人いたら百の意見があり、一つに集約することなど不可能。
同じポイントに対して、求める人もいれば、拒否する人もいるし、重視することもさまざまだもの。

そして、答え、真実は、統計では見えない部分、むしろ、声なき声のほうにあることも多く、どこまでいろいろと思いを広げられるかが大切なところなのだ。

でも、「パパと、育児と、ママの関係」(http://blog.so-net.ne.jp/mamaru/2007-02-06-1)で、私がWGママと専業ママでは専業ママの方がえらい!と想った、と書いたことに対し、保毛田ちゃんが「私はWGママの方がえらいと想う」ってコメントをくれて、さらに、その「基準」がまずは自分のお母様である、って示してくれて、そうだ、専業ママにもいろいろいるし、WGママにもいろいろいるんだから、どっちがえらい、なんて比較しきれないよなぁ、って気づかされた。

「普通」とか、何らかの人間をカテゴライズする言い方をした場合、その「基準」としてその人が持っているのは、あくまで身近な存在や自分として目の前に見えていることだけであることがほとんどだし、普遍的なものさしではまったくない。

私にとって、専業ママの基準は、ほんとうに家事に育児に家庭を大切にして生きてきた木の葉さんであり、今、専業主婦として奮闘する幾人かの友人であり、それ以外のタイプの専業ママというのは、その記事を書いたときには頭の中には浮かんでいなかった。今は、思い浮かぶけれどね。

そして、WGママのほうは、かなりいろいろな類型は頭に浮かんでいたけれども、でも、上記の専業ママと比較していたWGママの基準は私。

私とかつて子育てをしていた木の葉さんや今子育てを頑張る友人と比べた場合、家庭生活におけるがんばり度は、精神的に逃げ場が少ない分、専業ママのほうが大変だなぁと感じただけで、時間配分の難しさや、制約の多さ、また、時間が有限であるだけに「やりきれない」で妥協せざるを得ない場合、子どもに無理を強いるしかないことだってあるWGママのもどかしさ、悔しさなんかもふくめると、WGママの方が楽である、とはまったく言い切れないのだ。

たぶん、これが、「失敗したっていいじゃない!」の記事でmikaさんが感じた違和感の一つなのかもしれないね。WGママにもいろんな種類があるものね。がんばり方や気苦労だって人それぞれだもんね。甘えたくても甘えることもできず、悔しい思いやもどかしい思いをしながら頑張っている人たちが、いっぱいいる。

それは専業ママ、WGママという種類分けなんか関係なく、ママとママじゃない女性という区別も、ママとパパという区別も、まったく関係ない世界で、あるのは、それぞれの個人の生き方と、がんばり方と、想い。そこに、あるなんらかの類型、プロトタイプを持ち込んで、比較したり、わかったような感想を述べること自体、そもそも、おかしいんだぁ!と反省する次第。

mikaさん、保毛田ちゃん、違う見方を教えてくれて、気づかせてくれてほんとうにどうもありがとう。

そういう意味では、先日読んだ星野さんの著作(http://blog.so-net.ne.jp/mamaru/2007-02-05)も同じことを気づかせてくれる。

この世の中に普通、なんてものは存在しないんだ。
マイノリティとマジョリティという考え方の、恐ろしさ、不気味さ、不条理さ。
でも、この国に漂う、「普通」という概念と、「普通であれ」という無言の圧力。

そこにあるのは、ただ一人の人間とか、一つの家族とか、そんな一例でしかないというのに。
何をもって「普通」というのだろう。

子育てだってそうだ。
そこには、その子どもの、育ちがあるだけ。
何をもって「普通」とするのだろう。
私たちママは、そんな形なき「普通」を追いかけて、一喜一憂してるんじゃないだろうか。
ほんとうに大事なことは、そんなところにはなく、なんだか見当違いなところに頑張っている、ということはないだろうか。

そう想うと、ほんとうに普遍的な「意見」って、難しいことで、あくまでも、私はこうして、自分というフィルターを通して感じた「感想」を綴っていくだけなんだなぁ、と。日々、変わりゆく存在、まだ、成長の過程にいる、未熟な人間としての、自分のつぶやきを、記録しながら進んでいくこと。

そう想うと、「意見」なんておこがましくて、とても言うことなどできない。
考えることを書いていく作業って、ほんとうに難しいなって思う。

「どこにいったら良かった」「ある商品が良かったよ」っていうこともそうだと思うけどね。
新しいモノに対する感動も伝えたいけど、時間が経過してもまだ、それがいいか、って思えるか、って問われると、必ずしもそうでないこともあるもんね。

そういう意味では、いくら念入りに書こうと思っても、まったく主観の入らない言葉やほんとうに優れたと思うモノだけを残す、というのは、なかなかできないことだ。多種多様な意見のカオスであるブログというメディア、という考え方であれば、それはそれでいい、ということになるんだけどね。

しかも、私は日々動いていて、昨日書いた言葉が、今日になると、うーん・・・今日はまた違う方向に進んでいるなぁと思うこともよくあるし。
お釈迦様のような心境になれて、こどもといい時間を過ごせることもあれば、不本意ながらついいらだってしまうこともあり、一進一退、一喜一憂、日々同じ私はいないんだもの。

まぁ、それが当然なんだけど・・・
でも、なんとなく、それではいけないような気もして、つい考え深くなってしまう。

春になって仕事に復帰すると、私はいろいろな形で人に伝える、ということを日々、職業として、やらなくてはならない。

この世の中にはいろいろな「主張」や「メッセージ」が存在するけれども、ほんとうに伝えたい人に伝えるのはとても難しい。ある言葉を、それに共感しない人、気づかない人、気づけない人、そんなことなどどうでもいい人、のところに届ける有効な方法ってほんとうに数少ないし、難しいことだ。

それに、伝わった、と思っても、誤ったメッセージとして受け取られることもある。

気づいてほしい、そして、動いてほしい。
そう思っても、なかなか難しいのが現実だ。

いつもその時々で、ベストと思う方法を模索し、実行するのだが、どんなに念入りに考えても、答えは見えてこない。

人に伝えるって、難しい作業だね。

きっと私は一生、その方法を考えているような気がした。


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コメント 6

私の夫は常々、世の中に「普通」なんてないんだよね、と言っています。でも日本人は「普通」が大好き。協調性は大事にしつつ、流されないで生きていきたいなぁと思いつつ、時に流されている自分がいます(笑)
by (2007-02-09 17:21) 

過去記事で気付いたのですが、mamaruさんスペリオールも読んでいたのですね!今日最新刊を買ったのですが、前回1回買い忘れたようで今ヘコんでたとこです(笑)何があっても漫画だけは買い忘れたことがなかったのに・・・ って、記事と関係なくてごめんなさい^^;
by (2007-02-09 17:32) 

mamaru

素敵な旦那様ですね(^^)
お目にかかれるのが楽しみだわ☆

そうなんだよね。
「協調」することと、ただ「同じでいなくてはいけない」と拘束されることって違うんだと思いませんか?

なんか育児のいろんなシーンで、私はもともと一緒であることに価値を感じないからいいんだけど、公園デビューしなくちゃいけない、とか、母乳じゃなくちゃいけない、とか、3時間起きに授乳しなくちゃいけない、とか、この頃にはこれができなくちゃいけないんじゃないか、とか、いろいろと他と違ったらいけないような、そういう感情で悩んでいる姿ってよく見るんだよなぁって思ったんですよね~。

もう一つは、保育園で、子ども達を見ていてのこと。
保育園って「普通」って概念がないんですよね。

例えば今、長男は2歳児クラスにいるんだけど、そこには今、3歳から4歳直前の子ども達がいるわけ。
だから、かなり成長や能力に差がある。

だからなんだと思うけれど、目安はあるけど、普通、はないと思う。

そして、0歳児、1歳児のクラスと違うのは、家庭での子育ての違いによる、子ども達の性格や行動の差がはっきりしてきたことだと思います。
このことは去年までのクラスじゃあまり感じられなかった。

3歳から4歳の息子達のクラスを見てると、いろいろ気づくのです。
それでも、彼等の中にも「普通」であらねばっていう概念は見られない。

カルタをやってるところなんか見てても、先生が読み上げた札をとるのに賢明な子もいれば(だいたい年齢が上の子もしくはがんばりやさんの子)、うちの長男のように、なんだかみんなで一緒にやっていることがただ楽しくてよくわかんないできゃーきゃー楽しんでいる子、また、なんとなく「あ、札とれちゃった」みたいにナイスなボケかましてる子、それから、カルタにはまったく興味がなくていつも電車で遊んでいる子、いっつもブロックで遊んでいる子もいれば、いつもヒーローになっている子もいる。また、一人でいるのが好きな子もいれば、みんなでいるのを好む子もいる。

でも、どれが「普通」って先生も思ってないし、子ども達も思ってないの。

幼稚園とか、児童館とか、公園だと、どうなんだろうなーって思って。
なんとなく、わかんないんだけど、「普通」っていうのを求められるケースがあるんじゃないかなと推測してるんだけど・・・行ったことないからわかんないんだよね(笑)

あとは、もう少しおおきくなって学校になるとどうなのか、とかね。

「普通」って概念が子ども達に芽生えるのはいつなんだろうって思ってね。
後は、カルタなんか子どもはただやってるのが面白いのに、大人になるまでの間に「人をけ落として生きていく」っていう考えになる人がいるわけでしょう? そういうのもいつ芽生えるんだろ?と、ふっと思いまして。

これから、子どもが成長していくのを見てると、きっとどこかにターニングポイントがあるはずだって思うんだよね。
だから、それを逃さずに、そのほかの時はおおらかにいられたらな、って、思ってるんだけど・・・。

スペリオール、面白いよね~(笑)
そうそう、連載は逃すと、へこむ!
もしかしたら、前回の号、私はまだ読んでいないかも。
というのも実家にあるだろうから!
ナンバーいくつだろう? わかれば今度実家から到来したときにチェックして、読んでない号だったら保存しておくわよ~♪
by mamaru (2007-02-09 20:38) 

mamaru

しかし、なんで、この世の中はこんなに「普通」であることを強要するんだろうねぇ。ありえないことなのに。だからこそ、ひずみが生じて、そのひずみのところで、悲しい事件が起きている気がする。

「違い」があって当たり前で、だからこそ人間社会は面白いのにね。

誰かが何かを言ったら、それに対して「違う」ということも言いやすくならなくてはと思うし、また、言われたら、その「違う」という意見を受け止めて、対話して、「分かり合う」。

そう、違う存在は否定したり、拒絶したり、無視したりするんじゃなくて、対話して分かり合えばいいんですよね。

わが子が成長していった頃には、そういう社会が実現できていればいいのになぁ・・・。
by mamaru (2007-02-09 21:38) 

『あなたの知る世間なんて、山手線車両一台分程度なんだから、
そんな程度の事で、世間体が。。。とか、言うのをやめなさい』
みたいな事を、若いとき誰かの文章で読んだなあ。。。なにか、
生き方の本みたいなものだった気がします。
ものすごく、納得したんです。
人の基準は様々ですものね。
母親世代よりも、今は一層、価値観も広がり、
自由になれているように思います。
by (2007-02-18 00:45) 

mamaru

ほんとだよねぇ。山手線かぁ。なるほどね!

自由になった分、これでいいのかって不安で、普通であろうとするのもあるかもね。これしかない、という昔のモデルなら迷わないし、極度に不満を持つ前にこういうものだと諦めるとか、そういうこともあるけど、どうも、隣の芝生は青い、って感覚の人も結構いるように思います。

大変じゃない人も、あんまりいないしね。
どんなに気楽そうに見えても、その人なりに大変さを抱えてると思うし。
by mamaru (2007-02-18 22:13) 

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