記事 での「杉 亨二」の検索結果 13件
太政官政表課(5)
計算機の製作は、まずカードパンチ装置から始まった。この装置は「亀の甲型手動穿孔機」と呼ばれ、第1回国勢調査の以前に戸籍調査で使用された形跡がある。独立行政法人統計センターの資料には写真まで残っている..
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太政官政表課(4)
明治十六年、55歳になった杉は統計院院長であった鳥尾小弥太と相談の上、人材育成機関設立の上申書を政府に提出した。そこに彼は、次のように書いた。
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太政官政表課(1)
大政奉還後、徳川慶喜はいったん水戸に退去したのち、1868年5月、家督を譲った家達とともに現在の静岡市に居を移した。杉は慶喜とともに江戸を去り、駿府で徳川家の教授方として仕えることになった。
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太政官政表課(2)
「駿河国人別調」の調査は静岡市と沼津、三島の一部でしか行われなかった。しかしその後、杉の功は認められ、現在では「近代的統計手法を用いた国内初の人口統計」として記録に刻まれている。
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太政官政表課(3)
その太政官正院に「政表課」が設けら、その長に杉亨二が任命されたのは1871年(明治四)の12月である。杉に与えられた肩書きは「大主記」という時代がかった名称であって、こんにちいうところの局長に相当す..
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開成所(3)
蘭方医は、同時に西洋の文字と事情に明るい蘭学者であることが少なくなかった。杉田成卿もその一人であって、ペリーが幕府に手渡したアメリカ大統領フィルモアの親書を翻訳した。
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開成所(2)
世の中は騒然としている。
そうした物音を聞きつつ、江戸城外一橋門の幕府開成所で独り黙々と洋書の翻訳に取り組んでいる男がいた。8月に数えで37歳となったこの者は、名を杉道純という。
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開成所(1)
ペリーの黒船が徳川将軍に献上した「伝話器」が江戸湾のお台場で実験に供されていたころ――すなわち元治元年である。この年の1月、将軍徳川家茂が上洛し、朝廷に横浜を鎖港することを奏上した。尊王を誓ったこと..
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開成所(4)
「亨二」と名を改めたのは、開成所教授となった翌年の慶応元年だった。
慶応二年4月、西洋に赴く機会があった。老中水野忠精がイギリス公使パークスと交渉し、5年間の留学生受け入れの承諾を得たのである。..
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発掘(3)
わたしの場合、それほどではなかったにしても、事実、当惑した。
「明治二十五年」にホレリス式PCSを日本に紹介した高橋二郎という人のことを、一度は調べてみなければならない。国勢院が現物を輸入した大..
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発掘(4)
以下、Webサイト「杉亨二の部屋」からの抜粋。
杉亨二は、明治維新後の我が国の近代化において人口調査の必要性を説き、明治十二年には国勢調査の試験調査とも言うべき「甲斐国現在人別調」を実施したこ..
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開成所(5)
元治元年8月の時点で、杉道純が世の中の騒擾にまったく無関心であったとは考えにくい。適々斎塾での知己や勝塾の塾生がさまざまな方面で活躍している。
適々斎塾での挫折から13年の間に、幕府は勅許を得ず..
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