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学校教育の話・続き [日本人論]

7月23日に書いた「理論のない教科書」という記事に対してたくさんのコメントが来まして、予想してなかった展開なので少々驚いています。

あの記事の中で歴史の参考書について取り上げて、批判したわけですが、議論の内容をもう少し一般化させてみようと思います。

いくつかのコメントへの返事にも書きましたが、僕が教育に関して最も重要だと思っているのは「知識の絶対量とその運用力のバランス」です。

従来の日本の教育は「知識の絶対量」に重点が置かれていた、とよく言われます。これはある意味において真実だと思います。例えば、いわゆる「一流」とされている私立大学の入試問題においてすら、選択枝問題と穴埋め問題が解ければ合格できていました。「杉田玄白」という言葉を見て「解体新書」という選択枝を瞬時に選ぶ能力、すなわち「知識の絶対量」こそが「学力」であるとされていたわけです。クイズ王みたいな人が秀才とされたのです(ただし数学は除きます)。

ただ、この傾向はあくまで欧米との比較においてそうだというだけで、非欧米社会、例えば中国や韓国やタイの教育と比べて日本の教育が取り立てて「知識量偏重」だとは思いません。しかしながら欧米主導のグローバル化の中で、欧米社会のエリート層において伝統的に重視されてきた「創造性」「主体性」「個性」「自分の意見を持つこと」「議論をする力」といった概念があたかも絶対的な「善」であるかのように日本の教育現場に入り込み、文部省の官僚までもが流行り言葉のようにそれらを振り回しています。まあこういった文化の相対論の話をしていると議論が前に進まないのでここらでやめておきます。

これらの流行り言葉は平たく言うと「知識の運用力」という一つの概念にまとめることができると思いますが、面白いことに、こういう価値観の変化を日本の親世代は概念として理解できるものの、いざ我が子の教育に適用するなると猛反対します。きっと自分たち自身が「知識の絶対量=学力」という価値観を子供の頃から刷り込まれているため、体に染み込んでしまっているのでしょう。

例えばゆとり教育批判においてよく耳にしたのが「小学校の算数で円周率を3と教えるのはけしからん」というものです。円周率は中学以降ではΠという記号を使うので実際問題として3.14で3でもあまり大きな違いはありません。ゆとり教育において円周率が3となったのは、僕が想像するに、無意味な単純計算を減らして、円周率という概念の理解やその運用力をもっと重視しようというという意図だったのでしょうが、そういった意図が現場の教師や親世代に理解されることはなく、ただ小数点以下2桁が省略されたことが「学力低下、国家の存亡に関わる大問題」と捉えられたわけです。社会科の教科書の厚さが半分に減ったなどという批判も同様です。

こうしてゆとり教育は戦後の教育行政が犯した最大の失策として歴史にその名を刻むことになりました。ゆとり教育の理念、すなわち知識の絶対量とその運用力のバランスを図るという考え方は決して間違ってはいなかったと思いますが、日本人のメンタリティーに強固に存在する「知識量=学力」という価値観の前になすすべも無く崩れ去ってしまったわけです。文部官僚も伝統的な価値観の持つ力これほど凄いとはきっと想像してなかったことでしょう。Don't underestimate local culturesですね。

何か新しい能力を開拓しようと思ったら別の能力を減らさなくてはなりません。知識の運用力を養おうと思えば知識の絶対量は減らさなくてなりません。そうしないと教育がパンクしてしまいます。やはり僕は両者のバランスを取るべきだと考えます。

関連記事: 日本の教育と英国の教育


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コメント 10

どらとら

日本の教育は「知識」偏重、これは事実。
欧米主導のグローバル化で「創造性」「自分の意見を持つこと」「議論をする力」が、日本でも重要視されて来たのも事実。
しょちょうさんがおっしゃる、「両者のバランスが重要」これには賛同。

しかし、生徒の大半が目標とする大学入試で、現行の知識重視をどう変革していくか。私が思うに、紙媒体で学力を測る限り、変革は難しい。二次試験で論述ばかりにする、という手もあるが、論述を採点するには、教官側の多大な時間と技量が必要。

極論かもしれないが、上記「両者のバランス」をとる為には、教育制度自体を根本から変えるしかないのではないか。「議論する力」など一夕一朝では絶対につかない。高校(出来れば早い時期から)で ディベート、ディスカッションを取り入れた授業を行い、成績を付ける際に「授業参加点」を加味する。大学入試では、現行の紙媒体の試験6割+高校の成績(全科目分ー受験に必要な科目だけやるのでは意味がない)4割、という風に、少々欧米流の大学入学法を取り入れる。
これくらいやらないと、恐らく、人々の頭(特に現在、子供を持つ人達)に新たな概念(=教育は両者のバランスが必要だ)は入り込まないと思う。
とにかく、大学入試がそのままな限り、親の頭は知識偏重から抜け出せない。
by どらとら (2005-07-26 19:52) 

しょちょう

どらとらさん
現実な改善案としては二次試験で論述の比重を増やすしかないでしょうね。内申書を取り入れると「高校教師の主観が入る」といって必ず批判されると思います。
面白いことに、日本では、大学入試は100%客観的な方法で審査され、100%公平に行われなければならないという信仰が存在しています。大学に入ってからの試験ではカンニングが(表向きではなくとも)許容されていたり、会社の入社試験や教員の採用試験ではコネや縁故や学閥があからさまにまかり通っていても、大学入試だけは絶対に客観的かつ公平でなければならないという文化的規範があるのです。
これは非常に強固な規範であるため、そう易々と崩れるものではないでしょう。上述の「知識量=学力」という信仰と同じです。
by しょちょう (2005-07-26 20:27) 

muathaisuki

またまたしゃしゃり出て参りました。
日本は人的資源をもって次代を切り開いていかなくてはならない宿命を持つ国なのに…票に即決しない教育問題は選挙公約ではでかでかと掲げられても立法の段階になるとお寒い状態ですよね。そのせいでどうしても旧態依然の教育が幅を利かせてしまいます。ましてその場限りのマスコミの論調がますます教育現場を混乱させています。
何よりも教育は人類発生の昔からよき教師との出会いによってこそ意義深くなされるものなのに…その教師に足る人材が少なすぎますね。
ゆとり教育へのヒハンも教師の授業力がないためです。
問題解決能力よりも問題発見能力へのシフトを国家的戦略の下で行わないと手遅れになりかねません。
by muathaisuki (2005-07-26 20:36) 

どらまきん

こんばんは。
数日前の記事(理論のない教科書)の欄では大いに盛り上がっていましたね。

しょちょうさんの記事や皆様のコメントを読み、なぜ歴史の教科書ってこんなんになったんやろうと考えたとき思ったのは、やっぱり戦争に負けたからなんだろうということです。
戦前の教科書は読んだことがありませんのでなんともいえませんが、元クイズ王の知識を発揮して言わせていただくと、戦前の歴史の教科書には「皇国史観」というのがあったのではないかと思います。
(すいません、私は歴史が専門ではなく、思ったさきから書いているだけなので間違いがあればどなたかご指摘下さい)
天皇の存在が絶対であり、今でいう国民は「臣民」であった時代、そのような思想を元に教科書が書かれていたのではないかと。
そして戦争に負け、一夜にして「鬼畜米英」が「ぎぶみーちょこ」になり、当座の手当として教科書の内容を墨で黒く塗りつぶし、そして新制の教育制度が作られ、教科書も新しく作られた。
戦後の日本を新しく作るためにはこれまでの教科書ではいけない、政治も政教分離だ(←してへんけどな)、どのような思想や宗教からも中立であらねばならない、そのためにはどうするべきか。
その結論が、「『歴史的事実』のみを並べた教科書」だったわけです。と、私は勝手に理解しています。
また、社会科学系の科目、まあ地理はともかく、私たちの時代でいう歴史や公民なんて科目は教える人の思想によって内容がいかようにでも左右されるものです。
例をあげますと、高3の時の政治経済の先生は教科書を使わず新聞に載ってる時事ネタを教材にして授業をしていて、それはとても面白い授業でした。
ゆえに生徒には人気がありました。
今思うとあの先生は思いっきり「左」の先生でしたし、授業で取り上げる内容もいわゆる「左」の人が思いっきり問題にする題材ばかりで、最終的にその先生は政府の対応を批判して授業を終えたわけです。(注:私は「左」の人が悪いといっているわけではありません)
という以上2点の理由により、文部省じゃなくて文科省は、全国に等しく均一な教育を行うためには教える人の思想を極力排除するような教科書を作らねばならんと考えてるのかもしれません。(最近はそのような傾向にも変化があるようですが。)
いかがでやんしょ。

ただ、「考える力」、せめて、「なぜ、なにがどうなって、このようなことになり、その結果こんなことになった」ということを考える作業だけは学生のうちからさせていた方がいいのではないかなあと私は思います。
これは歴史という科目だけに限らず、もちろん自然科学系科目にも大いにあてはまるところだと思うのですが。
考えることを放棄したら人間おしまいでしょう。
また、歴史から学ばなければいけないことって色々ありますしね。
どなたか提案されたディベート形式の授業とかいうのは大いに賛成です。
んが、悲しいかな、しかし、それを行うことになる先生方もまたそのような訓練を受けてない人達ですので、日本の教育現場においてそのような授業形式が浸透していくのは大分先の話ではないかと思います。

今の教育行政や親の態度には色々思うところがありますが、書き出したら止まらんくなるため(知らん間にドラマ始まってたわ・・・(泣))ここいらで失礼させて頂きます。
by どらまきん (2005-07-26 22:53) 

scot

おっしゃる通りですね。

お金と同様、「物量」も大事ですが、それの「使用方法」を
考えるほうが、より美意識と教養と訓練が必要だと思います。

客観的なペーパーテストでは、いかに皇族の師弟といえども
1点でも足りなければ、及第しない。そのシステムは公正で
あり大変すばらしい。
 しかし、この方法だと、おっしゃる通り、創造性や潜在能力を
引き出すことなどは、むしろ相殺されてしまいます。

 僭越ながら、自分の提案は、
 1)幾つかの、選択肢、評価基準を設けて、各個人が
   自分に適正なものを選べるようにする。
 
 2) 評価基準を明確、高精度にして、周囲への説得力を
   持たせる。

 3) 理念や美意識(ある方向性)を根本に持つようにする。
   これも個人が選べるようにする。

いままでの、日本の教育の一番の問題は、
 「理念のない実学思考」であると、自分は常に考えています。
 だから、知識の絶対量や、明確な実績(量子的な、客観的)
 だけが重要視されてしまい、それに伴う教養や、美意識、
 理念、哲学が軽視されてしまってきたのだと考えています。
以上です。 
by scot (2005-07-26 23:01) 

しょちょう

muathaisukiさん
教師の力量、これは大きな問題ですね。優秀な人材が教員を目指さなくなったのでしょうか?おっしゃるように日本が持つただ一つの資源が人材です。優れた人が教師になるべきですね。それにしても教師の性犯罪がやたらとよく報道されるのは何ででしょうね?報道ネタとして面白いからなのか、本当に多いからなのか・・・・

どらまきんさん
なるほど、戦争に負けたから当たり障りの無い教科書になったというのは一つの見方ですね。
その政治経済の先生についてですが、そういう授業はありだと思います。僕個人としては、自虐的日本人観を子供に刷り込もうとする左翼教師は反吐が出るほど嫌いなのですが(すいません、個人的に嫌な経験をしておりますもので)、その先生が学問的にしっかりしたperspectiveをもって政治経済を捉えており、また生徒に左翼思想を押し付けない限りにおいて、僕はその先生を尊敬するでしょう。左か右かというのは個人の価値観の問題であって、大事なのは学問的裏づけがしっかりした内容を自分自身の言葉で興味深く語ることができるかどうかでしょうね。

Scotさん
「理念のない実学志向」ですか、いい言葉ですね。
おっしゃるように、教育における理念や美意識というものが「とりあえず**大学合格者を**名以上出さなくては」というレベルに留まっているのが問題ですね。そもそも親がそのレベルのことを望んでいる以上、学校としてもそこに神経を集中させざるを得ないという現実があるのでしょう。
イギリスのエリート教育において一番感じるのはこの「美意識」の存在ですね。いかにエリートとして高潔に生きるか、社会に対して責任を持つか、教養ある紳士になるか、といった美意識です。
しかしながらイギリスの問題点は、こういうエリート養成校がある傍らで、新聞が読めない九九もできないという生徒もたくさんいることです。
上のレベルが高いぶん、底辺も底なしである点が日本と大きく異なるところです。
by しょちょう (2005-07-27 01:53) 

今になって思うのは日本史教えてた人は史学科出身じゃなかったですからね~。教科書をそのまま教えるのも仕方ないのですかね。家の周りの史学生も学芸員になるか図書館勤め目指すかで教師行きたがらないですからね。
私が高校時代は勝手に読み進めて興味がわいた分野は図書館で文献あさっていました。
それで分からないところを先生に聞いても彼らは変体仮名や崩し字読めないから質問に答えれないと言う現象ですから、非常に辛かったです。しかも先生は戦後の分野ばかり強調するから左翼史観大学はいるまでぬぐえませんでしたし。彼らは教科書を疑わんのですから史学科目指さん人は教科書鵜呑みにしたまま。これが最悪ですね
by (2005-07-27 02:22) 

しょちょう

ナイトさん
以前、高校の英語教員の質を上げるために文部省かどこかが「現行教員の英検準一級取得を目標とする」と発表したことがあり、驚いた記憶があります。英検準一級というのは英語の割と得意な高校3年生のレベルです。
それに関連した話ですが、僕が知っているカナダ人は日本の複数の学校で英語を教えていたのですが、どの学校に行っても彼とのコミュニケーションを避ける英語教師がいるといって嘆いていました。英会話を恐れる先生が英語のしゃべれる生徒を作れるわけがないですよね。
by しょちょう (2005-07-27 04:08) 

tukushi

2回とも非常に興味深く読ませていただきました。
「歴史」については、私は自分が好きな教科、と言うか趣味でいろいろ本を読んでいたので成績は良かったのですが、友人達にはこんな暗記科目の点数が良くても・・・、とよく言われていました。しかし、自分としては好きでやっているので、暗記しようと思って勉強しているわけではありませんでした。教科書以外の本や資料を見たり、図書館で面白い歴史の本を見つけて読んだり、興味の湧くまま史実を吸収していました。要は歴史マニアですね。

いろいろなところで知識を吸収したせいか、自分なりの歴史観を持っているつもりですし、ただの「知識」だけに留まっていたとは思っていません。しかし、他の教科を考えると教科書レベルで終わってしまい身になっていないものも多いので、バランスって難しいなーと感じています。

一ついえることは、自分なりの考え方を持つためには、それ相応の知識量が必要だということ。先人の考え方を覆すことや新しい支店が必要な分野は異なりますが、特に社会学系の分野では先人の考えを知りつつ、その上に自分の経験・考えを乗せていかないとバブル崩壊のように「歴史は繰り返す(悪いほうに!!)」となりかねないですね。

「英語」のことが出ていましたが、高校時代の英語教師が典型的な「英語話せない病」でした。外国人が学校に来た時に、誰も対応しようとはせずに、なぜか体育教師で国際審判免許を持っている先生が応対したという事実にはびっくりしました。私自身、この高校にいたときは、暗記科目のようだった英語が嫌いでした。浪人時代の先生と大学以降の外国人との交流が今の自分を英語学習に駆り立てていると思います。

教科書は教科書で問題はあると思うのですが、自分のポリシーも無いまま(偏りすぎはまずいですが)教える先生が多いことのほうが問題だと思います。純粋培養の教師ばかりを採用するとこういう結果になるんでしょうね。

長くなってすみません。
by tukushi (2005-07-27 16:51) 

しょちょう

tukushiさん
コメントされていたことに気付かず、お返事が遅くなってしまいすみませんでした。

>自分なりの考え方を持つためには、それ相応の知識量が必要だということ。

おっしゃる通りです。知識の絶対量とその運用力のバランスが重要です。前者だけだとただの物知り、後者だけだと根拠のない自己主張人間になってしまいますよね。
教員の質についてですが、学校の先生の免許も更新制にしたほうがいいかもしれませね。それから教員について最も問題だと思うのは、各県で行われる教員の採用試験って、縁故がものすごく物を言う世界なんですよね。そして校長への昇進は学閥が物を言います。僕は親戚が教育委員会のお偉いさんだったのでこういう裏話をよく聞いていたのですが、言語道断ですね。子供に社会の公平さの重要性を説くべき教員の人事がこんなことでは、何を言っても説得力がないでしょう。
by しょちょう (2005-07-30 23:52) 

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