お嬢様、お返事はひとつです。 [気になる下落合]
「ねえ、ばあや? ・・・ばあや、どこなの?」
「・・・・・・」
「もう、肝心なときに限っていないのだから。・・・ばあやは、どこ? お返事をおし!?」
「・・・はいはい、ただいま。・・・こちらでございますよ、お嬢様」
「まあ、どこにいたのです?」
「はいはい。いえ、ちょいとばっか野暮用で・・・」
「ねえ、ばあや、わたくし、もう30分近くは探してよ! それと、お返事はひとつです」
「あれま、お嬢様。それは失礼いたしましてす。・・・はい」
「いつも、わたくしの声がとどく、すぐ傍にいてくれなければ困るじゃないの」
「それはすいませんです、お嬢様。つい、ナニでお声が聞こえなかったものですから」
「・・・ナニって、なんなのです? ばあや」
「いえ、お嬢様、たいした用事ではありませんです」
「・・・その、手にしたタオルは、なあに?」
「あっ、いえ、ちょいとばっか梅雨どきで蒸しますもんで、汗をふいておりました」
「・・・ねえ、ばあやの身体から、湯上りみたいなシャボンの香りがするのはなぜかしら?」
「あれまあ、そんな・・・。お嬢様に、ご心配をおかけするようなことじゃありませんですよ」
「誰も心配などしてやしません、ばあや」
「おや、そうでございますか、お嬢様」
「お昼すぎに、わたくしのことなど放り出して、のうのうとお風呂に入っているばあやのことなど、どこの誰が心配するものですか」
「あれまあ、あたくし、風呂になんぞ入ってませんですよ、お嬢様」
「では、そのびっしょり濡れたお頭(つむ)は、いたいどうしたのです?」
「それが、お嬢様、お庭で草むしりをしてましたら、急ににわか雨に降られましてす」
「わたくし、先ほど、お庭もちゃんと探しました。それに、ばあや、きょうは朝からよく晴れています」
「それがでございます、お嬢様。下落合の天気は、まあ、佐伯祐三の絵とまるっきり同(おんな)し。いま晴れてたかと思うてえと、急にどんよりと、小雨模様に変わりやすいんでございますよ」
「佐伯様の絵のことなど、関係ありません! ねえ、ばあや、昼日中からお風呂などに浸かって、ちゃんとわたくしの面倒みてくれないで、どうして、わたくしのばあやが勤まるのです!?」
「佐伯様は、よくまあ、下落合のお天気の性(たち)まで、ちゃんとご覧になっておいでだこと」
「ひ、人の話をちゃんとお聞き、ばあや! うちのお庭が雨なら、たいがい東京中が雨なのです!」
「あれまあ、お嬢様の雲ゆきまで、怪しくなっちまいましてす」
「も、もう、ばあやときたら、ああいえばこう言うのだから・・・。まっ、まあ、いやだ! こんなことを言い合いしている場合ではないの、それどころではないのです、ばあや!」
「おや、そりゃたいへん! 旦那様のお手形が、とうとう不渡りでございますか?」
「思いっきり間違っています! ・・・実は夕方、殿方がおひとり、お客様におみえなのです」
「あれまあ、いつか言ってらした、目白の絵画サロンにおみえのお方でございましょう?」
「そう、そうなのです、ばあや!」
「ツネさんの歌Click!をお唄いになったら、ただおひとり、ご一緒に唄ってくれたとかいう・・・」
「そう、そうなのよ、ばあや。みなさまは妙な顔をされていたのだけれど、たったおひとりだけ、中村彝様の歌をちゃんとご存じの方がいらして、ご一緒に唱和してくださったのです」
「それはそれは、よござんした、お嬢様」
「みなさま、目白や下落合が地元のお方たちばかりなのに、中村彝様の作品にはお詳しくても、彝様の歌をまったくご存じないんですもの。でも、さすがに、早稲田のお方は違うわね、ばあや」
「・・・おんや? おんや、お嬢様? ついこないだまで、殿方は帝大か慶應か學習院のご出身に限るなんてえことをおっしゃってました」
「まあ、ばあや。わたくし、そんなこと申しません」
「早稲田は汚いし品が悪いし、早稲田通りは歩きたくないなんてえこともおっしゃってましてす。そいで、戦死なされた大磯の旦那様が早稲田に入られたのは、きっとなにかの間違いだとも・・・」
「そ、そんなこと、ほほほ、このわたくしが言うわけがないじゃないの、ばあや」
「・・・これだてんだから、もう、付き合いきりゃしない」
「なにかお言い、ばあや?」
「いえいえ、ばあやのいつもの独り言・・・でございますですよ、お嬢様」
「そう、それでね、ばあや。わたくしが、お夕食を作って差し上げるお約束をしたのです」
「あれまあ、本気でございますか、お嬢様?」
「まあ、ここがお台所なのね。わたくし、お台所なんて生まれて初めて入りました!」
「・・・お嬢様、お言葉ではございますが、毎度、同(おんな)しことを申されてますです」
「まあ、あれが流しというものなのね。あら、これがまな板かしら? まあ、ドスClick!がたくさん!」
「お嬢様は、つい昨晩も、ここへおみえでした」
「そんなことはありません。ここは、わたくしのいるところではありませんもの」
「お嬢様は、いつも台所へみえると、そう言いましてす」
「まあ、そうだったかしら」
「そんで、ゆんべはお夕食では足りないからと、お夜食をここで召し上がりましてす」
「そ、そのようなこと、ばあや。・・・ほほほ、また、わたくしを騙そうとするのね」
「いいえ、天安Click!の昆布とアサリの佃煮で、お茶漬けを2膳もおかわりを」
「・・・まあ。わたくし、夕べはスズキのフリカッセをいただいたきりだけれど」
「都合の悪いことは、み~んなお忘れになっちまうんでございますから・・・」
「ねえ、ばあや、そのお方は、どうやら下町のご出身らしいのです」
「おんや、お嬢様のお相手にしちゃ、なんてまあ、おめずらしいこと」
「お相手だなんて、まだそんな・・・ほほ。ねえ、ばあや、どのようなものがお口に合うのかしら?」
「そりゃもう、お嬢様、寿司に天ぷらに蕎麦に鴨すき、刺身にうなぎに牛すきに洋食でございましょう? スズキのフリカブッテーなんてえものは、まるっきし口に合いませんですよ」
「まあ、そのような、庶民的なものでよろしいのかしら・・・?」
「庶民的てえ申しましても、お嬢様。乃手で・・・いえ、こっちで手に入る魚とは、わけが違うんでございますよ。とれたてを食べ馴れてるでしょうから、たいがい口がおごってるに違いありません」
「まあ、どうしましょう、ばあや」
「江戸つづきの御城下の人間は、ビンボーなくせに口ばっかりはおごってましてす」
「では、ばあや、どのようなお料理をお出しすれば、お口に合うのかしら?」
「材料で勝負しても、下町にかなやしませんです」
「まあ、どうしましょう、あと3時間でおみえになってしまうわ」
「できるだけ、材料に差の出ないお料理を作れば、大丈夫でございますよ」
「では、お寿司にすき焼きか、それとも天ぷらかしら」
「まあ、なにをおっしゃいますやら、お嬢様!」
「あら、いけなくて?」
「あっちが本場のもんを、こっちで出してもかなうはずがありゃしません」
「では、どうすればいいの、ばあや? ねえ、助けて、なんとかしてちょうだい!」
「さぁ~てねえ。・・・ここは、・・・やっぱし、・・・蕎麦でいきましょうよ、お嬢様」
「そ、そばって、スパゲッティーじゃなくて、わたくしの好きではない、あのお蕎麦?」
「ええ、お嬢様のお嫌いな、あのお蕎麦です。材料に差が出にくい料理で、町場の男が喜ぶ食べもんてえと、蕎麦しかありゃしませんです」
「ま、まあ、そんなものでよろしいの?」
「あれ、お嬢様。蕎麦をバカにしちゃいけませんですよ。愛情こめて、粉から打たなきゃ!」
「な、なあに、このわたくしが、手ずから蕎麦を、わざわざ打つのですか?」
「当然でございましょう、お嬢様。蕎麦粉なら、台所のどっかにありましてす」
「では、天ぷら蕎麦とか、鴨南蛮とか・・・」
「おやまあ、お嬢様は、町場の男のことを、まるっきしわかっちゃいないんだから!」
「な、なんなのです、ばあや?」
「蕎麦てえもんは、蕎麦だけでササッと食べるのが、通で粋なんでございますよ!」
「ば、ばあや、言ってる意味がよくわかりません。もっと、わたくしにもわかるように話しておくれ」
「ザルの上に、よく水切りした三口四口の蕎麦をサッと載せてサッと出す。もたもたしてちゃいけません。ほんの少しの刻みネギに、浅草海苔を少々、薬研かサビを添えればもっとよろし!」
「ばあや、そんな少しで、殿方のお腹が満足なさるかしら」
「蕎麦をてんこ盛りで出した日にゃ、それだけでお嬢様、田舎もんだと嫌われっちまいますよ!」
「まあ、そういうものなの、ばあや? 町場の殿方は、けっこうむずかしいのですね」
「ここはひとつ、ばあやに、いっさいがっさいお任せくださいまし。町出の学士様を、お嬢様のために、見事グランプリで射止めてみせましてす!」
「まあ、カンヌ※のように? ばあや、頼りにしています!」
「お嬢様、カンヌじゃなくて神田の“藪そば”よりも、うまい蕎麦を作りましょ! はい、じゃあボヤッとしてないで、そこの引き出しを開けて!」
「・・・こ、ここかしら?」
「ちがいますよ、お嬢様。その下の、そうそう、そこの引き出しん中に蕎麦粉がありましょう?」
「・・・あっ、これかしら、ばあや?」
「はい、それそれ。ちゃんと、手を洗わないと。・・・ほれ、急いで!」
「ま、待って、急かさないでおくれ、ばあや」
「ボヤボヤしてたら、蕎麦がのびっちまいますのさ。・・・ほれ、早く!」
「はいはい」
「お返事はひとつです、お嬢様」
「・・・はい」
「手を洗ったら、麺棒を出して!」
「ええと、わたくしのお化粧室に行かないと、ここにはないわ」
「・・・・・・綿棒じゃなくて麺棒です、お嬢様! またそんな、まだるっかしいことおっしゃって!」
「ばあや、メンボーって、なあに?」
「もう、じれったいったらありゃしない。なんにもご存じないんだから、お嬢様は!」
「そ、そんなに、叱らないでおくれ、ばあや」
「お嬢様、ほんとうに町場の殿方の心を、射止めるお気持ちがおあり?」
「そ、それは、ばあや、ほ、ほほほ、そんな、恥ずかしいこと・・・」
「もっと、シャン!・・・としなけりゃ、お嬢様。なよなよしてるブリッコ女が、町場の男は大の苦手! ここはお嬢様、勝負どこ。さあ、お嬢様、一世一代の勝負蕎麦さね!」
「ま、まあ、言葉の一部の時空がゆがんで、ちょっと頭痛がしそうです、ばあや。・・・で、でも、なにやら、ものすごいことになりそうね」
「なにをおっしゃいますやら、お嬢様! “藪そば”よりも美味しい蕎麦を出さなきゃ、ほんとに久しぶりでおめずらしい、せっかくの殿方との七夕ご縁が、こいでまたまた藪ん中!」
※前年に制作された黒沢明監督の『羅生門』(原作・芥川龍之介『藪の中』)が、1951年(昭和26)のカンヌ映画祭でグランプリを受賞。「グランプリ」は、この年の流行語になった。
こんばんは、Papaさん
子供の頃、祖母によく「返事は一回!!」と叱られたのを思い出しました。
返事にかけてはほんとにうるさくて、声が小さくても叱られ、何をしていても呼ばれたら、まず返事。ところが私は物事に夢中になると何も聞こえなくなるたちなので、叱られてキョトン!!祖母は「ブツブツ・・・・・・」なのでした。
by ponpocopon (2006-07-07 20:15)
わたしは、母親によく「二度返事」で叱られてました。祖母がいたら、もっとやかましかったでしょうね。
なにかに集中してるときは、わたしも周囲の音が耳に入らなくなる性で、まったくの上の空になりますから、よく叱られた憶えがあります。いえ、いまでも周囲の人たちとは、よく「言いました」「聞いてません」のやり取りがありますので、きっと上の空がつづいているのでしょう。(^^;
by ChinchikoPapa (2006-07-07 20:32)