大きな栗の木の下で ３
　将来の不安は、それは大いにあるのでありました。しかし御船さんは楽観主義者を決めこんで、いよいよ働かなければどうにも体裁が整わなくなくなったら、その時から働き始めればそれでよかろうと考えるのでありまし..
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「四月廿九日。祭日。陰。」補記
　荷風散人がこの世を去ったのは昭和三十四年四月三十日未明でありました。死因は胃潰瘍の出血性ショックによる急性心不全となるのでありましょう。二年前に新築した小さな自宅の、物が散乱して足の踏み場もない埃に..
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「四月廿九日。祭日。陰。」15
　しかし麻布の家から焼け出された後の出来ごとは、男の瞼の裏側に薄調子に流れるだけなのでありました。男の生の中で最も大変な時期であったはずなのに、もうその頃老境に達していた男には、殆どのことが億劫に遣り..
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「四月廿九日。祭日。陰。」14
　それから、体が弱くて学業も儘ならず、官吏か実業家に男を育てんとした父親の意に染むべくもなく、挫折感と放蕩趣味から小説家や役者や寄席芸人に憧れ、父親が外地勤務で中国は上海に在任しているのを良いことに、..
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「四月廿九日。祭日。陰。」13
　行った時と同じように、体を前屈みにして腹を抑えて足を引き摺りながら便所から戻ると、男は布団の上に座りこむのでありました。暗い中で座っていると、腹の痛みが心臓の鼓動にあわせて脈打つのでありました。男は..
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「四月廿九日。祭日。陰。」12
　小一時間程そうしていると、何時ものように睡魔が男を襲うのでありました。これも何時も通り、この儘寝てしまおうと男は思うのでありました。腹痛に疲れ果てたと云うこともありましょうが、腹の痛みが少しは減じた..
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「四月廿九日。祭日。陰。」11
　二口煙草をふかして男はもうそれ以上飲む気を失うのでありました。煙が腹に入ると、それは腹痛と息をあわせて体の中で暴れようとするのでありました。男は畳の上の吸い殻が山になった灰皿をちらと見てから、そこへ..
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「四月廿九日。祭日。陰。」10
　何時もなら本の文字を三十分も追っていると、男はそれだけで疲労困憊して睡魔に襲われるのでありました。昔は一日中本と向かいあっていても疲れを知らなかった男の気力と体力は、それで限界を迎える程に衰微して仕..
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「四月廿九日。祭日。陰。」９
　今日は随分早く日記を書いたものだと男は思うのでありました。何時もはもっと夜更けて、横臥して布団を被る直前に書くのが慣わしでありました。今日はなんでこんなに早く書いたのであろうかと、男は自分の行為であ..
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「四月廿九日。祭日。陰。」８
　男は頁の前の方の記述を見るのでありました。六日前の記述は二行に渡って書いてあるのでありました。「四月廿三日。風雨纔に歇む。小林来る。晴。夜月よし。」 　この日は久々に大黒家から帰った後の腹痛の四時..
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「四月廿九日。祭日。陰。」７
　上を向いて裸電球を捻って点けた後、男はよろけて布団に崩折れるように尻餅をつくのでありました。思わず唸り声を上げるのでありました。尾骨を打った痛みが先程苦痛の治まった腹の中に響くのでありました。男はそ..
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「四月廿九日。祭日。陰。」６
　などてそんな半世紀以上も前のことを今頃夢に見たのか、男は不思議な気分になるのでありました。アメリカ遊学のことも女のことも、もう五十年以上もの年月が過ぎて絶えて思い出すこともなくなっていたと云うのに。..
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