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チベット仏教・空と縁起の思想 [チベット]

 僕は大学生のころ、存在と無という西洋の二元論に対して、仏教哲学が、それら二元論を越えた第三の次元として「空性」というあり方を説いているように考え、その第三のあり方を探求したいと思って、仏教を研究しようと思うようになった。

 しかし、今、ある程度、「空性」の理解が進んでみると、その最初に抱いていた予想は全く間違えたものであった、あるいは少なくとも、レベルの高いものではないことが分かるようになった。世の中の仏教研究者がみな同意しているわけではないが、チベット仏教最大の哲学者ツォンカパが展開する空についての思想は、存在と無に対する第三の次元としての空、などという、訳の分からない、神秘的な主張ではなく、存在と無についての、極めて論理的で一貫した、いわば乾いた思想だった。

 今日は、そのことの一端について、簡単に紹介しようと思う。もちろん、これでツォンカパの考えを全部示せる訳ではないので、今後も折りに触れ、解説を加えていくことにしたい。

 大乗仏教の哲学的表現である中観思想は「一切の存在が無自性・空である。」という根本命題に帰着する。しかし、この命題は単純であるだけに様々な議論を呼ぶことになった。

 そもそも無自性とは一体どのようなことなのか。

 そこで否定される自性とは何か。

 「無自性である」という述語に対する主語「一切の存在」とは何を指すのか。

 またこの主張命題を論証するためにはどのような根拠が必要であるのか。

 これらを巡って、様々な議論が行われてきた。

 また、この根本命題は、もう一つの仏教の根本思想「縁起」とも密接な関係を持っている。チベット最大の宗教家にして哲学者ツォンカパによれば、空を論証する一番の根拠は、この「縁起」に他ならない。すなわち、「一切の存在は、縁起しているが故に空である」。しかし、それでは何故、縁起していると空であると言えるのだろうか。これについて、更に論証が必要となる。

 ダライラマは空について説明するとき「私という言葉の対象である私というものを探してもどこにも見つからない。しかし私は存在している」という例をしばしば用いる。この言葉だけを聞くと、何かごまかされたような、どこか釈然としてない思いに駆られるであろう。

 確かに少なくとも「私」という言葉が指しているものを探しても、私の様々な部分や断片、つまり「私に属するもの」を思い浮かべることはできるが、しかし、それでは、その中心にある「私」という言葉に対応するようなものを取り出さそうとしても、何を指して「私」と言っているのかを明確に答えることはできない。

 ここで、私とは、そのような部分や断片の総体に対して「私」という名前を付けたものであるから、確かに「私」に対応するものはなくても、総体としての私は存在する、と考え、それこそが「それにもかかわらず私は存在する」という言葉の意味である、と主張するかもしれない。

 しかし、ツォンカパによれば、それは中観派以外の実在論者の主張にすぎず、中観派独自の主張ではないと言う。

 それでは、ツォンカパは自性の否定と私の存在をどのように考えるのであろうか。

 ツォンカパによれば、私たちの思考は全て言葉に基づいている。ものを考えているときも、声に出して言わなくても言葉を使って考えている。さらに単に景色をみているときでも、匂いを嗅いでいるときでも、つまりものを考えずに知覚しているときでも、対象はばらばらのものとしてではなく、何らかの意味をもったものとして、すなわち言語的な構造のもとに認識されている。私たちの認識は言葉の意味に浸透されているのである。

 また何らかの行為を行うときも、その行為を行う前にはやはり言葉によってやろうとしていることを考え、行為をしている最中にも現にしていることを考え、終わってからも既になし終えたことを考えている。私たちの認識も行為も全て言語的な意識が基礎になっているのである。

 もちろん、言葉は声に出して他の人とコミュニケーションをとるために使うのが元々の役割である。他者との関係も言葉によって築かれるし、それを広げれば社会も言葉を媒介にして構成されていると言える。

 これらの全ての場合に私たちは何の問題もなく言葉を使って考え、ものを見、人に自分の意志を伝え、また人の話を聞き、それに合わせて行動をしている。

 実は「私は存在している」とダライラマ(そしてツォンカパ)が言うとき、それは、私というものが存在してるということを言っているのではなく、「私は存在している」と声に出して言って、ちゃんと話は通じるし、誰もそれが何を言っているのかについて少しも疑いを抱かない、ということを意味しているのである。

 これに対して、私というものが存在している、と考えた瞬間に、それでは、その私というものはどのようなものかを示さなければならなくなるのである。

 「私は存在している」という表現は、「私は今日うどんを食べた」あるいは「私の今日の昼食はうどん定食だった」と人に話すのと何ら変わらない言語行為であることに気付けば、「私とは何か」と問うときに、それが単なる言語行為としてではなく、言語の外に出て、私というものがどんなものかを考えようとしているということが分かるであろう。

 本当はそのように考えているときでも言葉を使って考えているのであるが、そうとは思わず、何か言語外に、私という存在があるかのように考えているのである。そのとき、僕たちは「私」という言葉に対応する実体、すなわち「自性」を考えているのである。

 そのようなことを考えなくとも、あるいはそのような実体がなくても、「私は・・・」という私にまつわる言語表現は有効に機能し、人に自分の意図を伝えることができ、誰も疑いを抱くことがない。このように言葉が有効に機能しているのを停止させ、その言葉によって指されているものが何であるかを考えようとしたとき、我々は、それが何であるかについて一致した見解に至ることはないし、確定的にこれだ言えるようなものを示すこともできない。これまで、哲学の中で多くの人たちが「自己」について様々な見解を提起してきたが、それがどれかの結論に収束していく気配などないのである。

 それは、そのような実体(これが私だと示せるようなもの)が存在しないということを意味しているのだ。「私には実体がない」というのは、「私」という誰もが分かる言葉の外に、その根拠となるようななものは存在しない、ということなのである。

 それでは、そのような言語外の存在について問いただそうとせず、健全に言語活動をしている普通の人は物事が無自性であることを理解していることになるのだろうか。

 いや、決してそのようなことはない。言語表現は、それを人がどのように受け止めていようと、それ自体としては健全に機能している。しかし我々はそれが単に言語表現の枠組みの中で機能しているとは考えず、言葉を透過してその向こうにあるもののことを考え、しかもそれが言語表現とは独立に存在していると思っている。

 言語表現の働きは、名前によっていろいろなものを区別し、それらの間に様々な関連付けをすることにある。名付けられて始めて対象が現れ、存在し始める。そのような対象は言語的な意識によって作り出されたものであって、それ自体で存在しているものではない。しかし、無意識に言葉を使っている我々は、それが言語的意識によって作り出されたものであることを忘れ、始めからその対象がそのまま存在していると思っているのである。それこそが対象を自性のあるものと捉えている誤った思い込みに他ならない。

 以上の理解を、先程の中観思想の根本命題に当てはめていくならば、主語である「一切の存在」とは、言語的な意識によって名付けられただけの存在、言語行為の中で有意義に存在しているものである。

 「自性」とは、言語外に、その言葉に対応する実体があると考えている、その実体のことであり、そのような言語外の存在がないということが、自性が存在しないこと、すなわち「空である」ということである。

 そして、そのような「自性」が存在しないのは、その言語行為の中で有意義に存在している諸存在が、言語的意識によって作り出されたという意味で「縁起している」からである。これが中観派のもっとも深い意味での縁起と空の理解である。

 無自性を体得することによって、苦しみの輪廻の輪から解脱することはできるが、しかしそれだけで仏陀になれるわけではない。主語としての言語的な「諸存在」が残っている限り、それは言葉によって立ち現れただけの虚構であり、従って真実なものではない。世界は真実には存在しないのである。

 真実のみを見ている仏陀の完全な智慧においては、そのような虚構としての世界が立ち現れることはあり得ない。仏陀の智慧には存在は現れず、ただ空性だけが見えているだけなのである。仏陀になるためには、諸々の存在に実体がないと分かるだけではなく、そもそも虚構する働きを本質としている言語的意識も消し去らなければならないのである。


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