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「十二人の優しい日本人」:日本人と議論について [演劇]

 2005-2006年に上演された舞台版をDVDで観ました。この作品は三谷幸喜初期の代表作だそうで、映画にもなっていますがこれが初見です。日本にもしも陪審員制度があったらという設定で、一室に集められた12人の陪審員たちが2時間延々と、ある事件について有罪か無罪か議論し続けるというストーリー。
 いつか見ようと前からずっと思っていたのですが、結末(結論)を始めとする情報は一切入れないほうが楽しめるだろうと、必死で情報はシャットアウトしていたのがよかったです。私はわりと事前のネタバレを気にしない性格なのですが、この作品ばかりはまっさらな状態で、いきなり陪審員たちと同じく放り出され、手探り状態で周りの空気を必死に読みつつ、二転三転する議論に翻弄され、「結論出るのかこれはっ」と何度も頭をかきむしるのが正解かと思います。


 というわけで、ストーリーには(あまり)触れずに、ところで日本人と議論というもの はどうなのかという話を。
 一般に日本人は議論下手だと言われています。この劇に登場する人物たちも、「とりあえず」とか「なんとなく」とか「悪い人には見えない」とか、優柔不断で付和雷同なことこの上ない。議論になるかという以前に議論する気があるのかという状態。やっぱりそんな日本人に陪審員制度というものは無理なのではないか、というのが一見の印象かもしれません。しかし私はこれにあえて異議を唱えたい。
 私は現在大学院というものに通っています。専攻は社会学なのですが、いろいろな縁で哲学系の人も二人ほど知り合いがいます。この哲学系人間というものは、とにかく議論命。いかに相手を論破するかということに命をかけているといっても過言ではありません。・・・いやまあ、それはなんというか、専攻上の必要性というものなのですが。しかし私はどうも彼らのノリについていけないものも感じたりします。何ヶ月か前、講義の最中にちょっと脱線で、いかに日本人は議論しないかという話になりまして。

 哲学専攻の彼女は塾でアルバイトをしているのですが、そこで雇い主側がいきなり勤務中はアクセサリー等一切禁止の服装規定を作ると言い出した。彼女はそれにものすごく反発を覚え、同じくバイトの学生たちを集めて会議をした。ところがまったく議論にならない。「別にいいんじゃない」とかそんなことばっかり言う。しかし評決を取ってみたら、わずか一票差で服装規程賛成派が反対派をおさえ、結局アクセサリー類は禁止になった。「滅茶苦茶納得がいなかない!」、と彼女は怒っていました。
 いやまったく、このお話にあつらえたかのようなエピソードです。「どうしてちゃんと議論をしないのか」と思い出して怒る彼女に対し、私は「いやそういう議論のスキルがあるなら、あなたが率先してみんなから意見を引き出すように立ち回るところまで、面倒見てあげるべきなのじゃないか」と、「だって評決では一票差だったんでしょ?(みんな本当は言いたいことあったんじゃないの?)」などと反論していました。・・・ちょっとばかり、哲学vs社会学みたいなエピソードでもあります(たぶん)。


  もう一つ。大学院生として必要なスキルに、質問スキルというものがあります。学会などでも、発表をした後には必ず質疑応答の時間があるわけですが、そこでどんな質問をぶつけるか、あるいは自分が発表する側の場合ぶつけられた質問にどう答えを返すかというのは、生存のためにとても大切な技術なのです。
 私はこれを磨くにあたって、とりあえず場数を踏むことだと考え、学部の4回生のゼミに頼んで参加させてもらっています。そこでは順番に学部生が卒論の経過報告をしていって、それに対して他の参加者が質問を投げかけたり、こういうアプローチもあるんじゃないかとの提案を行ったりします。議論というところまで発展するわけではないのですが、この質疑応答がなかなかに面白い。学部生のみなさんが「えー」とか言いながらひねり出してくる質問に、「ああこんな切り口もあるんだ」「こんなアイデアもあるんだ」と、いつも勉強させてもらっています。
 議論というのはある種の技術であり、答えられない質問でも口先で切り返すという方法はあって、別にそれも結論に至るまでの過程としては悪いことではないのですが、根本的なアイデアのきらめきというのは何物にも代えがたいものがある、と思っています。ようするに、アイデアとは宝石の原石であり、それを研磨していく過程に議論があるようなものでしょうか。

 学部生のゼミには議論はないかもしれないけど、このアイデアのきらめきは充分にある。議論のための議論が空虚であるように、アイデアなき議論もまた空虚だと思うのです。「議論が出来ない」とかいうと、「=自分の意見がない」ということのように思われがちですが、私は学部生のみなさんを見ていても、とてもそうは思えません。
 あれだけのアイデアを持っているということは、ちゃんと自分の意見だとか見識だとかはあるのです。ただ、それをうまく表現したり、他人を説得できる形に加工する技術はないかもしれない。でもそれは技術に過ぎません。他のもので充分に代替可能です。もちろん技術があるならそれに越したことはないですが。


 というわけで、私は日本人にだって充分に議論をする素地はあると思います。「日本人には議論が出来ない」というと、どうもなにからなにまで駄目みたいに捉えられがちなのですが、あくまで無いのは議論をするための技術であって、議論が拠って立つ素地(=意見)ではない。・・・だって評決とっても一票差だったりするし。もっと言えば、日本人は単に議論に慣れていないだけだと思うのです。

 だからこのお話の楽しみは、いかに議論慣れしていない日本人が、議論の場といういわば異国に放り出され、そこでどのようなカルチャーショックを受け、そしてそれを克服していくか。それも一人じゃなくて12人という集団で。そのようなシチュエーション・コメディではないかなと思います。
 ですから、ここで出てくるのはむき出しの個性です。彼らの人生そのものです。なぜなら、彼らはそれを取り繕うだけの議論という技術を持っていないから。だから生身でぶつかるしかない。そこにおかしみがあり、感動もあります。
 つまり、議論が出来ないということは、この戯曲を成立させるにあたっては少しもマイナスポイントではないのです。議論が出来てしまっては隠されてしまう、取り繕われてしまう、そんな口先を排除した核心に、いきなりお話として切り込むことができるのは、彼らが日本人だから。
 議論が出来ない日本人だからこそ、彼らは優しい十二人でいられたのです。
 ・・・うむ、我ながらなかなかの詭弁です。


 12人が入り乱れる会話劇でありながら、誰が誰だっけ状態にならずに自然にお話が進行していくのはさすがです。しかもちゃんとそれぞれに見せ場つき。どいつもこいつも一癖ある人たちばかりで、個人として見たら「こんなヤツいてたまるか」状態なのですが、部分部分はすごく「こんな人いるよね」要素に満ちている、そのような浮世離れした現実感も最高です。手に汗握る展開の連続でありながら、ごく普通に笑える箇所も多し。ものすごく話に入り込んで「有罪? 無罪? えーとえーと」と考えつつ、時々ふと冷静になって、ちょっと待てお前らそれは机上の空論にもほどがあるとセルフ突っ込みをいれてしまう具合もたまりません。とにかく濃いお芝居です。
 初見の印象では「たしかに面白いけど、これが最高傑作なのか?」と考えてしまいましたが、いろいろ思い出してみると重厚なテーマあり、絶え間ない笑いあり、俳優たちの個性と演技あり、とても過不足ない感じはします。賞取りレースに参加するなら、これだよなーと思ったりします。
 しかしこれが日のあたる場所におかれるのもなにか寂しい。通好みの隠れた名作であって欲しい。そんな気もします。
 とにかくいろいろ思わせるところのある、非常に贅沢な空間であることは間違いありません。

 私はとりあえず、このDVDをあと何度か見返しつつ、哲学系人間の議論攻撃に耐えうる論理構築を頑張ろうかと思います。しかしなんというか、戦う前から逃げる方策だけ三十七計くらい考えている状態の気もして、それはそれでどうかと思います。

公式サイト:http://www.parco-play.com/web/play/yasasii/

DVD販売:http://www.parco-play.com/web/page/shop/

映画版:

12人の優しい日本人

12人の優しい日本人

  • 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
  • 発売日: 2000/10/25
  • メディア: DVD


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