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「流星ワゴン」:オデッセイの辿り着く場所 [小説]

 重松清さんの作品には、いつも「何か足りない」と感じてきました。それは決して作品として足りないという意味ではないのです。氏の筆致はいつも現実の社会問題を浮かび上がらせ、その中で精一杯もがいて生きる弱くて優しい人達に、優しい理解の眼差しを向けながら、でもどこか醒めている。現実に対して適切な問題意識を持ち、何故そういう問題が起こっているのかについても深く理解しているのに、解決という段階においては何故か力及ばないとあきらめているふしがある。そう感じてきました。一つ一つの作品で見ればそれは気になることではないのに、幸か不幸か重松さんは多作な作家であり、そして書き連ねれば連ねるほど見えてくるものもあるのです。
 しかしこの「流星ワゴン」という作品は、重松さんがご自身の限界を突破され、「解決」に向けて一歩を踏み出したという点で非常に貴重な傑作だと思います。

 どうしてそのブレイクスルーが起こったのか。それはまず、舞台設定の妙にあるでしょう。主人公は重松さんのいつものパターンである現実に敗れ力尽きつつある30代のサラリーマン。彼のささやかな幸せのかたちであった家庭は崩壊し、捨ててきた故郷で年老いた父とは理解し合えないまま死に別れようとしています。彼自身、もう人生に疲れ果てて「死んでもいいかな」とふと思います。そんな時、彼は不思議なワゴンに出会うのです。
 そうして主人公は時の狭間に彷徨い込み、自分と同じ年の父親と共に、自分の人生を振り返る旅に出ます。ほんの少し前の自分の人生、その時は幸せだと思っていたけれど、すでに崩壊は始まっていた、今ならそのことが分かる貴重な日々を再び体験するのです。さあ、人生は変えられるのか、やりなおせるのか・・・。


 先述したように、私は重松さんの魅力であり弱さでもある部分は、現実問題を浮かび上がらせることはできても、その解決となると途端に尻込みしてしまうこと。「現実はそんなに簡単なものじゃないんだ」という真理、真理ではあるけれども逃避でもある場所に逃げ込んでしまうことだと感じてきました。私はそれも決して嫌いではないのですが、ただあまりにも同じことが重なってくると、どうかな?と思うのです。それは手を変え品を変え角度を変えて、何度も何度も書き直すほどに重要で価値のある真実だろうかと。
 けれどもこの作品において、重松さんは意図してなのか結果的になのかは分かりませんが、ご自身のそういう部分と正面から向き合われました。「現実は変えられるのか?」。変えられないのです、やっぱりそんな簡単ではないのです。でも主人公は変えようとあがきます。それはそうでしょう、だって状況的にそう追い込まれているのですから。死ぬのではなく奇妙なワゴンに迷い込んでしまった彼は、いやおうなく現実と向き合わされ、戦わされます。
 巡り合わせの妙だなあと、私は思うのです。

 周りを彩るのはワゴンの主である橋本さん親子。彼らは免許を取っての初めてのドライブで、運転ミスにより親子共々死んでしまい、その無念からか未だに成仏できない奇妙な幽霊です。
 そして主人公と同じ年の、父親。親子にはよくありがちなことですが、主人公とは性格がまったく逆で彼にとっては反面教師的な存在であった父親。でも現実では今まさに死に行こうとしている、そしてだからこそ彼もまたワゴンに迷い込んできた父親。
 二人は朋輩(友人)となって、新しい奇妙な友情にも似た関係を築きつつ、一方で自分たちが過去に築いてきた関係をやりなおし、精算しようとします。・・・やりなおさずにはいられないのです。何故なら、主人公は父親がもうすぐ死ぬことを知っているので。まったく、絶妙の舞台設定だなと思いました。

 死という絶対的な存在の前では、人は誰しも神妙になります。逃れることの出来ない運命の前では、どういうわけか諦めにも似た開き直りが発生するのです。主人公が対面している死は、父親のものだけではありません。橋本さん親子の死もあります。そしてもう一つ、自分自身の死も。
 どうしてこのワゴンに迷い込んだのか。それは自分が死にかけているからではないのか、彼はその疑念を捨て去ることが出来ません。そして死ぬとしたらその前に、何かやっておくべきことがあるのではないかと・・・彼は手遅れになる一歩手前で、ようやく気付くのです。

 物語は静かに優しく進みながら、「解決」を求めます。解決できないという現実を何度もなぞりながら、本当に何も出来ないのかと模索を続けます。静かに穏やかに、夜を疾走するワゴンの中で。前に立ちふさがる信号機はすべて青にかわってしまう、不思議なワゴンの中で。
 さて主人公は、そして重松清という作家は「解決」できたのか。


 ところで、主人公達が乗り合わせるワゴンの車種はホンダのオデッセイなのですが、この本はさぞかし売上に貢献したのだろうなと、余計なことも考えてしまいました。私は一応車好きなのですが、走ることを楽しむ乗り物としての車が好きな者にとっては、ワゴン(ワンボックス)カーという車種は、図体ばかり大きくて重くて足は弱くてバランスは悪い。非常に「どこがいいのかわからない」車であるのです。まあオデッセイはその中では、比較的運転していて楽しい車らしいのですけど。
 けれども一方で、この本の中で語られたように、一家でワゴン車に乗って出掛ける幸せ。帰り道はきっと渋滞していて子供は遊び疲れて眠っていて、お母さんも疲れで不機嫌になりつつあり、それでもお父さんは一人孤独に運転席でハンドルを握るとしても、それでも確かにそこにある幸せ。その重さはずっしりと心に来るのです。
 BSアニメ夜話という番組の「クレヨンしんちゃん」の回で、コメンテイターがしんちゃんのお父さんについて、「上京した当時彼にはたくさんの夢があっただろうけど、それをたくさん捨てて、あきらめて、その結果としてしんちゃんのいる家庭がある」というようなことを言ったのです。あの言葉には、胸を射抜かれました。

 走る楽しさをあきらめた車。格好良さだとか、運転の楽しみだとか、機敏な挙動やレスポンスのよさを捨てた車。一番乗り心地がいいのは1列目(運転席)ではなく、2列目以降に設定された車。でも・・・それが悪いことだなんて、誰にも言えはしないのです。そんな車を、そしてその車を買う人間の気持ちを笑うことなんて、そういう車に夢を託す人達のことを笑う権利なんて、誰にもないのです。

 求めるのはほんのささやかな幸せだけなのですが、多くの夢を捨ててまでも求めるその幸せは、あまりにも儚い。人の親になるということは、家庭を持つということは、そんなにも大きなリスクの上に成り立っています。多くの人が尻込みする気持ちもよく分かります。
 だけどそれはまた、オデッセイの語源のように「偉大な冒険旅行」でもあるのです。

流星ワゴン

流星ワゴン

  • 作者: 重松 清
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2005/02
  • メディア: 文庫
 
 

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