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「音楽する社会」:音楽の可能性 [雑記]

 この本は一応分類としては、社会学の専門書になるかと思います。具体的には音楽社会学の本です。つまりある程度の社会学知識、もしくは少なくとも興味がなければ難解かもしれません。しかし、全体としてはとても読みやすく、またわかりやすい本です。それは筆者自身があとがきに謙遜的に書いているように、「くどすぎる」ともいわれる要素、つまり同じことを複数の言葉もしくは視座から何度も記述するというによるのかもしれません。
 しかし私はこの「分かりやすさ」によってさらなる可能性を見出しました。それは一つには「筆者が社会に対して抱く希望」であり、もう一つは「音楽の持つ可能性」です。


 この本はまず音楽を社会学的に語っていく上で用いられる理論の紹介から始まります。マクルーハン、ケージ、シェーファーなどの先達の名前、およびその理論が挙げられていますが、この本を読むような人、つまり社会学を知らないもしくは社会学の初級者にとっては、ここが最初にして最大の壁でしょう。
 しかし私はあえて言います。これは乗り越える価値のある壁です。読みにくく、何度か行ったり来たりの読み返しが必要になるかもしれません。それでも筆者は実にわかりやすく実例をあげ、また「くどさ」という名の多角的視点によって、親切に道を示してくれています。ここが読みにくいとしたら、それはひとえに読む側の知識不足によるものです。けれどもこの壁を乗り越えることによって、読み手は価値ある知識を手に入れる。そのように、導かれるのです。

 いくつかのキーワードが出てきますし、それらは多少の記憶(頭へのインプット)を必要とするものの、大体はわかりやすい概念です。ただ一つわかりにくいのは、そしてこの章で最大のポイントだと思われるのは、マクルーハンの「ホットなメディアとクールなメディア」という区別概念かと思います。
 活字アルファベットはホットでテレビはクールなどといわれても、なんのことだか分からないし、そもそもマクルーハンの理論にしてからが、隙がありすぎの曖昧なものです。それでも筆者はここにこだわる。そして自らこの理論を補完し補強しようと試みます。それは要するに、この本において重要(ポイント)だということなのではないでしょうか。この場においては読み手はそれに従って乗っていけばいいのです。そうして最後には「音楽を聴くということは単に受容しているのではなく参加しているのだ」という地点に到達すればいいのだと・・・私は思いました。
 音楽を聴くということは、マクルーハンの言葉で言えばクールです。音楽は一つの感覚だけで受信されるものではなく、また一分の隙も無い完成されたメディアではない。受け手は音楽に参加する。さて、ではどのように参加しているのか、そして参加しようというのか、それを示すのがこの本だということです。・・・きっと。


 第二部からはうって変わって具体的な事象が次々と提示されます。壁を乗り越えた後のご褒美、退屈な主賓挨拶を聞いた後のメインディッシュがいよいよ供されるわけです。もっともこのメインディッシュをおいしく味わうためには、その主賓挨拶こそが必要にして重要だったのですけどね。
 提示される事例は今となってみれば少々古いです。この本が出版されたのは1988年ですから、無理もありません。しかしフォークの変遷、プロテスタントソングから私生活フォークへ、またニューミュージックへという流れ、さらに「はっぴいえんど」などの例示は、懐かしい人にとってはとても懐かしいでしょう。その時代を知らないというかそもそも生まれていない私にとっても、それは聞いたことのある歴史であり、一部では伝説です。

 つまりは古いですけど、とりあげられた事象は確かにその時代を代表したものであり、それは何年か先になっても価値を持ち続けますし、それどころか付加価値がついてくるのです。懐かしさや歴史といった、素敵な価値が。
 だからこれを例示が古いといって切り捨ててしまうのは、近視眼的で矮小なことです。むしろ年を経ることによって、この本はさらに価値を熟成させているのです。

 少しページは飛びますが、その先のアイドル現象についての考察にも同じことがいえます。アイドルの系譜、最初に生まれてきたアイドルたちの、根源的な存在原理。ピンクレディーやおニャン子クラブの特異性。でもこれは今にも通じるものです。
 ピンクレディーのように激しく体を動かしながら踊るというアイドルは、後に安室奈美恵などの小室系でリバイバルしましたし、おニャン子といえばモーニング娘。であり、視聴者参加型で売っていったといえばポケットビスケッツなどのバラエティ連動企画です。

 古きは新しきに通じるのです。歴史を学ぶことは未来を知ることであるという言葉が、どこかにあったと思いますが、そういうことです。

 さらに松田聖子がアイドルの総括的かつ突然変異的存在として描かれていますが、彼女は今も現役で特殊な輝きを放ち続ける特別な存在であることを考えると、やはり「昔のこと」として切って捨ててしまうのはあまりに勿体ないといわざるを得ません。
 むしろそれくらいなら、自分がこの先を付け加えればいいのです。このしっかりを築かれた土台の上に、さらなる歴史から導き出される答えを乗せて。それだけで簡単に一つのレポートが出来上がるでしょう。筆者の方は、多分それをずるいとはおっしゃらないと思います。


 私はその二つの例示の間に挟まれている、もっと音楽そのものについての根本的かつ普遍的な思索、「ノリの体験」と「時間の浪費」もとても面白いと思いました。
 ノリってなんなのか。音楽にノるってどういうことなのか。それは音楽が聴覚のみで受信されるものではなく、体全体で味わうものであることを示します。また一方で社会全体の流れとも無縁ではないという典型的な社会学的見方も提示します。

 時間の浪費に関しては・・・。「音楽を聴くというのは時間の浪費なのか?」。この一文からだけでもいくらでも論を発展させることができるでしょう。著者はそのための土台を、ここでもせっせと築いて提示してくれます。
 時間の浪費という概念が出てきた経緯、歴史。音楽は時間を消費し、また時間に拘束されるものであるということを、そうではないいくつもの事象と対峙させて分かりやすく示してくれます。
 じゃあ浪費なのかといえば、それを回避するためのいくつかの道筋も控えめに提示されています。「ながら聴き(何かをしながら聴く)」というあり方、また例えばコンサートに行って生の音楽に触れ日常を忘れて非日常の世界に身を浸すことは、浪費ではなく贅沢なのではないか、といったことです。

 「控えめに」と言ったのは、ここからいくらでも深く、また面白く話を膨らませていくことができるのに、筆者はあえてそれらの入り口を提示するだけで流していくからです。
 これは本当は控えめにというよりも、「優しく」というべきなんじゃないかと思います。・・・だから、与えてくれているのです。読む側に、可能性を。論を広めるための指標だけ提示してくれて、あとは自分たちで進めばいいのだとまかせてくれる。それはとても優しいことです。だっていくらでも自分の手柄に出来るはずなのに、こちらに渡してくれるのですから。優しいだけではありません。ここには読み手に対する信頼と希望もあります。


 ここで最初に書いたことに戻ります。この本全体を覆う「分かりやすさ」によって提示される二つのこと。
 「筆者が社会に対して抱く希望」。それは自ら考えることなのではないか、と思います。分かりやすく入り口まで導いてくれて、あとは自分が思うように、思う方向へ進みなさいと、読む人にそう言ってくれているような気がしました。だから私はこの本が、とても好きです。
 そしてもう一つ「音楽の持つ可能性」。これに関しては正直目を見開かされました。音楽とはこんなにも可能性を秘めた人間と社会を解明する指標であったのかと。読み終わってとにかく誰かと語り合いたくてたまらなくなったくらいです。私自身、このブログには音楽カテゴリを作って、自分なりに好きな音楽を語ろうと四苦八苦していますが、とても勇気をもらいました。音楽は素晴らしい、音楽について語れることはいくらでもある。音楽は無限の可能性を秘めている。
 近田春夫「考えるヒット」や宝島社の「音楽誌が書かないJポップ批評」のはるか以前に、学問はこの地平にまで到達していたのだと思うと、やはり学者という方の偉大性を思わずにはいられません。

 そうやって最後に心に残ったのは、筆者の方は本当に音楽が好きなんだなということでした。それは思わず微笑んでしまうような愛でした。なんて素敵な本なんだろうと思いました。優しい人が書いた、愛にあふれた本。私なりにまとめてみれば、それがこの「音楽する社会」という本です。
 そのような形容詞、専門書に対して用いるには不適切かもしれませんが・・・。この書物は決して感情ではなく、あくまで理性と理論と知識によって書かれた本です。それはしっかり述べておきたいと思います。けれど知識は決してそれを用いる人の人間性と無縁ではないのです。私は同様に、本からは知識を吸収するだけではなく、人間性をも学びたいと常に考えています。

 私はこの本が好きです。そして音楽が、ますます好きになりました。

音楽する社会

音楽する社会

  • 作者: 小川 博司
  • 出版社/メーカー: 勁草書房
  • 発売日: 1988/12
  • メディア: 単行本

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