「笑の大学」:異説・もしも天才は向坂のほうであったら? [映画]
「笑の大学」は最初三谷幸喜脚本のラジオドラマとして上演され、後に舞台となって大ヒットし、さらに去年星護監督によって映画化もされました。
内容は男二人だけの密室劇。戦争が激化へと向かう昭和15年、生涯一度も笑ったことがないという笑いを憎む検閲官と、その彼から何としても自分が書いた喜劇脚本の上演許可を取ろうとする、笑いを愛する喜劇作家の物語です。
彼らが取調室の中で丁々発止のやり取りを続けるうち、いつしか台本にケチを付けるという作業は、その本をいかに面白くするかという行為に取って代わられ、彼らの創り出す本はどんどん素晴らしいものになっていきます。そして二人の間にも徐々に心の交流が芽生え、互いを理解し始めていくのですが・・・という話です。
書いた三谷幸喜さん自身が認めているように、喜劇作家椿一(つばき・はじめ)は実在の作家菊谷栄をモデルとしており、彼は戦争で徴収されて戦死しました。三谷さんは「椿一は自分にとっては神のような存在」と言い、その理由をモデルが菊谷栄であるからと言っています。(プロデューサーの制作日記より:*ただし結末バレ注意)。
そしてまた、この作品は、モーツァルトの生涯を描いた傑作の映画「アマデウス」ともよく比較されるのですが、私はこの映画に関する評で、塩野七生さんがエッセイ「人びとのかたち」の中に書いていたことが印象に残っています。
彼女はモーツァルトを天才、彼の死を看取ったサリエリを秀才と規定し、天才を「神が愛した者」、秀才を「神が愛するほどの才能には恵まれていないが、天才の才能は分かってしまう人。ゆえに、不幸な人」と定義しています(同書文庫版284ページ)。そしてこれは天才と秀才のドラマなのだと切ってみせるのです。
この定義をそのまま「笑の大学」に当てはめると、普通、天才は椿一であり、秀才の役割が向坂睦男ということになるかと思います。実際のところ、椿は天に愛されたところがありましたし、向坂は確かに椿の才能を理解することができた人であり、またそれゆえに不幸にもなりました。
しかし私はあえてここで逆を考えてみたい。もしかして天才は向坂のほうであり、椿は秀才に過ぎなかったとしたら?
向坂が天才だとしても、それは作家として天才であったということではありません。しかし例えば演出家として、また批評家として笑いの天才であったという考え方は、あるいは不可能ではないと思うのです。だからこそ彼の出すダメ出しはいつも的確であり、椿のさらなる笑いの才能を引き出すものであったと。
そして椿は秀才に過ぎなかったからこそ、最初の台本では向坂を満足させるものは書けず、向坂によって才能を引き出されていくことでさらに上のステージへと登れたのだと。
秀才は(凡人には理解できない)天才の才能を、理解することが出来る人です。椿は「笑わない男」向坂の笑いの才能を、たった一人理解できた男でもあったのです。
ゆえに彼は不幸になった・・・その命題も、外れてはいません。不幸の定義をどうおくかにもよりますが、向坂と出会ったことは大きな目で見て椿にとって幸福であったのか不幸であったのか。私はもちろん幸福であったと信じたいですし、普通に考えて幸福だったとも思うのですが、不幸になったという考え方をすることも、決して不可能ではないと思います。
それには不幸の定義をどうおくかですが・・・。理解する/される幸福を知ってしまったからこそ、不幸になるということはあって、サリエリがそうであったように、たしかに椿はそれに当てはまるのではないかとも、考えるのです。モーツァルトの音楽の素晴らしさが理解できるからこそ、サリエリは不幸になりました。椿一は向坂との出会いで最高の脚本を書いたからこそ、・・・より不幸になったという考え方も、あるいは出来るのではないでしょうか。
これは演じた役者に置き換えても面白い仮説です。映画版の役所広司(向坂)と稲垣吾郎(椿)、また舞台版の西村雅彦(向坂)と近藤芳正(椿)は、どちらが天才タイプでどちらが秀才タイプか。
役所広司さんは自他共に認める日本映画界のトップスターです。元は役所勤めをしていた(だから芸名が役所)なんてあたりは地味な秀才っぽいですが、27歳にしてNHKの大河ドラマ『徳川家康』で織田信長役を好演し脚光を浴びるなんていうのは、充分才能の煌めきを感じさせます。
一方の稲垣吾郎さんは、さらに幼少の頃から芸能生活をスタートさせています。その後もトントン拍子にSMAPの一員としてかけあがり、役者としての芸歴もすでに10年以上あります。
さてどちらがより天才で、どちらが秀才か・・・。考えると面白いです。
映画そのものから受けた印象で言えば、常にどこか空中を漂っているかのような稲垣さん(椿)の存在感はやはり天才的なものでしたし、「素人が芝居をしたらどうなるかを芝居する」なんてことを平然とやってのける役所さん(向坂)は、むしろ職人肌の秀才を感じさせました。
まあ私の仮説とは逆なわけですが・・・元々これは異説ですから。
一方、舞台版のキャストですが、こちらは残念ながら未見なので、純粋に役者さんの印象だけで書きます。
私は向坂を演じた西村雅彦さんをより天才的、椿を演じた近藤芳正さんをより秀才的な俳優さんだと考えています。
何故なら、西村さんは一見エキセントリックな芸風を持っている一方で、どんな役もきっちりこなす実力派でもあると思うのですが、どのような役をやっていても、確かに彼にしか持ち得ない存在感が常について回るのです。私はそれを天才的だと考えます。
ひるがえって近藤芳正さんは、面白いほど役によって化ける。時として、同じ俳優さんが演じていることに気が付かないほどです。私はそれは秀才の才能だと考えるのです。
そんなわけで、仮説補強のためにも、是非一度舞台を見てみたいのですが・・・。せめてDVDをレンタルしてくれたらなー。
ともあれ、これは天才と秀才の物語という切り口で見ても、面白い作品だということです。そしてまた、天才と秀才は両方が揃っていてこそ、お互いを引き出し合って、ドラマが作られるのだという証明でもあります。
あり得ないんですが、私がいつか映画や舞台の「笑の大学」を演出するとしたら、是非この「向坂こそ天才」説(解釈)で、やってみたい。
そのようなことを考えさせてくれる「笑の大学」という作品は、確かに紛れもなく古典なのです。
古典というのはつまり、可変性をもった普遍性ある作品です。どのようにも作り替えることが出来て、でもどんな解釈で演じても、紛れもなくその作品自身であり、イコール傑作であるという、そういう作品なのです。
いつかまた、私じゃない人によって、「笑の大学」は上演されるでしょう。そこにどんな椿と向坂がいるのか、楽しみです。私はそれを一観客として、「どっちが天才でどっちが秀才なんだー」と悩みつつ観たいと思います。
つまり私は天才ではないけれど、天才を理解できる人にはなりたいので。ゆえに不幸になるとしても、それでも。三谷幸喜という天才が見せる輝きは、私を魅了してやみません。
参考いろいろ
アマデウス ― ディレクターズカット スペシャル・エディション
- 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
- 発売日: 2003/02/07
- メディア: DVD