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「おい癌め 酌みかはさうぜ 秋の酒」:じわりじわりと死にゆく道筋 [小説]

 これは、「きらきらひかる」などを書いている江國香織さん(関連記事)の父親でもあり、作家であり評論家であり俳人であった、江國滋さんの癌との闘病記です。そして氏の絶筆となった作品でもあります。すなわち、タイトルの「おい癌め 酌みかはさうぜ 秋の酒」という句は、彼の辞世の句です。
 私は自分が病気持ちということもあって(大したものではないんですが)、どうも闘病記というのは読んでいて落ち込むことが多く、ましてや最後が死で終わるものなど、どんなに興味深かろうと普段は手に取ったりしないんですが、どういうわけかこれは書店でタイトルを見た瞬間に忘れがたく、結局レジまで持っていってしまいました。これもまた、一種のタイトル買いというやつなのでしょう。
 それにしてもこの句の軽妙洒脱なること、とてもあのような状況で書かれたものだとは、本の最後を読むまで想像できませんでした。

 江國さんは最初何気なく受けた検診で、食道癌と診断されます。何気なくといっても、自覚症状めいたものは半年前からあったのですが、やっぱり人間自分が病気だとは思いたくないし、信じたくないものです。なのに病魔は突然無慈悲にやってくる。そんなあっけなさから、この闘病記は始まります。
 そこで江國さんが詠んだ句は「残寒やこの俺がこの俺が癌」。凄いなあと思いました。なぜたったこれだけの文字で、こんな感情を表現できるのでしょう。私は俳句の世界には縁遠い人間だったんですが、もうこれだけで一気に江國さんの世界に引きずり込まれました。

 あとは入院、検査、手術、術後の痛み、一時的な回復、なかなか完全に治癒しない苛立ち、そして再発と、闘病記は淡々と進んでいきます。いえ、闘病記自体は決して淡々とはしていません。江國さんの文章はさすがにそれを生業とした人の書くもの、日々の出来事をただ並べているだけでも面白くて読みやすく、また視線は隅々まで行き届いており、それでいながら何を書く(記録する)べきで何は必要ないかその取捨選択の適切なること、これ以上の文章の手本はないのではないかと思うほどですが(特にブログを書いていたりすると)、やはり合間には人の感情、苦しみ痛みがにじみ出ます。
 最初に知らされた時の衝撃も、それを徐々に受けとめていく過程も、覚悟を決めていき、また気持ちを整理していく過程も、非常に細やかに感じ取れていくのです。そして全体を通してみた場合、やはり後にいけばいくほど気持ちに余裕がなくなっていき、追い詰められていく、その絶望までもがあますことなく綴られていくのです。
 それでもやはり私がこれを「淡々と」と表現してしまったのは、あいだあいだに挟まれている句のおかげです。というか、江國さん自身はこの闘病句こそを主眼としてこの記録を書いており、だから本来これは闘病記ではなくあくまでも闘病句の記録なのですけど。

 俳句というのは、やっぱりユーモアなんですね。私はそう思いました。歌ですから・・・。どんな怒りや悲しみ、絶望を歌っていても、そこにはメロディがあり、メロディは感情を踊らせ流しゆくものなのです。歌や踊りというものは、どんなに現実が絶望へと頑張って誘っても、なぜか心浮き立つものが常にあるのだということを感じました。心を浮かべ流すというのでしょうか。それはやはり客観的なことであり、自分を客観におくということは常にユーモアに通じるのです。
 逆かもしれません、歌という朗らかさがあるからこそ、そこには客観性という淡々としたものが流れているのかもしれません。だからこの本は、死で終わるにも関わらず、こんなに広々とした秋の空のように晴れやかにただ悲しいのかもしれません。

 どの句もとても味わい深いです。そして声に出して歌ってみたくなります。「NO MUSIC NO LIFE」という言葉がありますが、これもまた一つの、「歌なくして命なし」です。
 江國さんは今はもう歌えなくなってしまった人ですが、彼の句はこうしてずっと残ります。俳句という、ただの文字に過ぎないのに、メロディを内に秘めた歌として。
 歌は一瞬で消えゆき、俳句はたった12文字ですが、読み継がれ歌い継がれ繰り返されることで永遠となります。

 死に際して何を遺すか、やっぱりそれは人の真価が問われることでしょう。江國滋という人はそこに俳句を遺した。私はそのことを嬉しく思います。言祝ぎたいと思います。彼の遺した句を、俳句に特に興味もなかった人間が、今もこうして時々口ずさむ。この奇跡と共に。

おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒―江国滋闘病日記

おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒―江国滋闘病日記

  • 作者: 江国 滋
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2000/10
  • メディア: 文庫

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