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硫黄島 [映画]

このBlog内でも度々お話をしてますが、同世代の中では比較的、第二次世界大戦関連の本を読んでいるほうだと思います。

戦争が良い・悪いなど論じるまでもありませんが、その時に戦ったそれぞれの国の人達を非難は出来ません。

無事に生き残って、史実を本に残された多くの方がいます。

当時を振り返りながら、調べ、尋ねて本が出版されます。

人の記憶なので、忘れた事や思い違いもあるようですが、多くの本を読んでいるうちにこれが本当のことなのかな?なんて思えるようになりました。

戦時中のことを題材に多くの映画が作られてきました。

フィクション・ノンフィクションとありますが、あまりに話がかけ離れ過ぎると、興ざめてしまう。

アメリカの監督が作った作品で「パール○ーバー」など、日本の戦闘機がハワイで地上の一般市民を銃撃したシーン観て最後まで観る気がなくなりました。

日本の映画では「太平洋奇跡の作戦 キスカ」が実際の人物の名前をちょっと変えて作っていましたが、違和感無く見ることが出来ました。

やはり日本が作った映画の方が良いのかな?なんて思っていると、最近大ヒットした邦画を観ていても・・・・あれれ・・・うーん・・・

 

 

さて、こんな性格のなのですが気になる映画がある。

日本びいきのアメリカ人、クリントイーストウッド監督の二部作

「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」

父親たちの星条旗は既に公開され、硫黄島からの手紙の評判も聞こえてきた。

そうやらあまり派手な脚色も無いらしい・・・。

観てみようかな?

西戦車隊隊長(バロン西)だけに投降を求めるシーンなんて無いだろうな!

あったらまたまた興醒めしちゃうよ

※1932年のロサンゼルスオリンピックの馬術で金メダルを取った西竹一さん。(当時中尉) 彼が戦車隊の隊長だと知ったアメリカ軍は金メダリストを失う事を残念に思い、スピーカーで呼びかけたと言う・・・作り話

とにかく一日でも長く、本土への攻撃を遅らせるべく持久戦に徹した小笠原守備隊

5日で陥落させると言ったスミス中将

2月16日の艦砲射撃から始まった戦闘は3月26日に元山飛行場への突撃が最後の組織的戦闘と言われています。

日本人は戦死傷者は2万1千人強

それに対してアメリカ側は2万8千人強

日本側は殆ど戦死しておりますが、合計人数ではアメリカ側の方が多いんです。

この後の沖縄戦も含めて予想以上の戦死傷にアメリカ国内では反戦の声が大きくなってきたと言う。
これって・・・半世紀以上前も今も変わらないんだなぁ・・・結局。

 

 

そういえば、同期に今日質問受けました?

「好きな駆逐艦は?」

いきなり、こんな質問する奴いるか!?

で、一応返事しておきました。

「以前はいの一番に夕立!と言っていたけど、最近、涼月の話も読んだばかりだからな~・・・どっちかなぁ・・・」

やっぱり、私たちは「変」なのでしょうか?


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あつし

「父親たちの星条旗」みたよ。
パール○ーバーみたいに興醒めするような映画じゃなかったな。
アメリカをヒーロー視する感じでもないしね。
もちろん、「硫黄島からの手紙」も見るつもりです。
同じ戦いを違う視点から見てみるのも初めてだしね。

男たちの○和・・・・たしかにオイオイって感じだったな。
前評判が良かったんで期待してたぶんガッカリしたし
もう少し、丁寧に話を描いて欲しかったよ。
ただでさえ、日本映画であの時代の話を映画化することは、少ないんだからさ・・・。

ちなみにオイラが好きな駆逐艦は「秋月型」です。
やっぱりオイラも変ですか?(笑)
by あつし (2006-11-17 22:52) 

もんきーとーい

ワシの爺さんは「妙高」とかいうお船に乗っておったそうじゃ。
子供のころ、ばあちゃんに、じいちゃんが乗っておった船だからとプラモデルを作ってくれと頼まれたのを覚えておる。
本当かどうか知らんが、じいちゃんは長崎から広島まで「武蔵」に乗ったこともあると言うておったのぉ。
わしはその手の話に全然興味が無くて、反応がよくない子供だったのじゃ。
戦争関連の書籍は松本零士先生の「戦場まんがシリーズ」くらいしか読んだことがないんよ。
つまらん話ですまん、すまん。
by もんきーとーい (2006-11-17 23:46) 

maeboo.

案の定、のってきましたね。
男たちの・・・はねぇ、最初期待してませんでした。でも、周囲の人達がいいよいいよと言うもんだからね・・・。

片道分の燃料。
大和にはタンクの6割の4000tが充填されてました。
矢矧や駆逐艦たちは満載です。
呉~沖縄 何往復出切るのでしょう?

秋月ですね。
秋月姉妹がミッドウェーの時に勢ぞろいしていたら、歴史は変わっていたかな?

瑞鳳の身代わりに魚雷の楯になったというのは違うそうですが、瑞鶴の艦載零戦が敗走中の艦隊まで戻ってきたが、闇夜に着艦灯を点けるのが怖い。それを何にも言わず見守る秋月緒方艦長。
ついに燃料が切れて零戦は着水。
その瞬間、緒方さんは機関停止、探照灯照射、カッター下ろせ、搭乗員救助を下命。潜水艦が居れば一発で葬られるような状況になっても、秋月のクルーは搭乗員を救ったそうです。
それが終わると全速で艦隊に戻ったそうです。

「涼月」も秋月型姉妹の3女です。
大和の沖縄特攻に随行しています。
米軍艦載機の爆弾の直撃を受け、弾薬庫・機関室で大火災
機関室3つのうち、2つは炎上。応急要員が黒焦げの死体になりながら円材を押し当てて延焼を食い止め、一つ残った機関室の3つの缶を守ったそうです。でも、前進は出来ずに後進でしか航行出来ません。コンパスがやられ、腕時計の方位磁石で佐世保を目指します。無線装置も全て使えません。爆撃機・雷撃機、もしくは艦船が来ればもう終わりです。

朝霜が早々に落伍し、大和 矢矧、磯風、浜風、霞の乗組員を救助し、佐世保まで無事に帰ってきました。
しかし、涼月は帰ってきません。状況からみて諦めざるを得ない状況でした。
しかし、涼月はゆっくりゆっくり後ろ向きに走りながら帰ってきました。途中で気が点いた海防艦が一隻、側面につき、水偵が一機上空を飛びます。

佐世保湾内で作業していた先に帰っていた乗組員はまだ知りませんでした。
でも、湾内にくず鉄の塊がのろのろ漂っているのに気がつきます。
涼月と気がつきました。諦めていた涼月が帰ってきました。
涙が溢れたそうです。今にも沈みそうなので「沈むな、沈みな」と湾内いたるところで声をかけていました。

その頃、涼月の方では艦のバランスを取る為に、前甲板に総員を集めていたそうです。彼らは「艦船勤務」と「海行かば」を絶叫していたそうです。

このことを知ったアメリカ軍が終戦直後、冬月を接収したそうです。
そして戦後、涼月は姉妹の冬月と一緒(他には柳も)に防波堤にされたとか。北九州市若松で眠っているそうです。

おおおおおおおお、話し出したら止まらない。
やっぱり変?

あ!みんな、サーっと引いている。
by maeboo. (2006-11-18 00:09) 

maeboo.

おおおお、もんきーじいちゃんは妙高に乗り組みされていたんですね。
重巡妙高型のネームシップ!
レイテにも行ったのかな(いや、妙高は途中でシンガポールへ帰ったんだっけ)
すごいぞ、すごいぞ。
しかも武蔵にも乗ったんだ!
by maeboo. (2006-11-18 00:25) 

あつし

またまた、お邪魔。
おぉ~もんきー親分のおじいさんが、妙高に乗艦されてたとは!!
妙高は、当時世界最高水準の重巡洋艦として日本の造船技術を世界に知らしめた艦です。
太平洋戦争も傷つきながらも終戦まで生き残ってます。
そんな艦に乗艦されてたとはね~
maebooさん、妙高はレイテ沖海戦にも参加してるよ。
(栗田長官の反転の決断は、どうしてもおかしいと思うぞ)
サイゴンで潜水艦に雷撃されて艦尾吹き飛ばされて、シンガポールまで曳航されて、そのまま終戦迎えたんだな。これが・・。

武蔵は佐世保で建造されて連合艦隊に編入されて艦隊旗艦になった時に広島の呉に向かってるので、その間乗艦されたこともあるかも?
武蔵は、生涯のほとんどを海外の泊地で過ごし、改装の時だけ鎮守府の佐世保に帰って来てるんで、広島まで乗艦できるのは完成当時だけのはずなんだよね。
あぁ~~みんながドン引きする音が聞こえる・・・。
by あつし (2006-11-18 00:31) 

かず

冬月は海上自衛隊の護衛艦に名を残していませんでしたっけ?
沖縄特攻でも帰還したと云うことで。記憶違いかな。

私の昔住んでいた家の近所には海軍出身の爺さんがいて,聞いた話では,戦闘態勢にはいると機関室のハッチは全て閉じられたそうです。
敵の魚雷攻撃は機関部を狙ってくるので,当たった場合に艦内に海水が侵入するのを防止するためだったと聞かされました。
当時の軍艦の多くは蒸気タービンを動力としていたので,速度の変更などはかなり時間がかかったようです。
たとえば微速から最大戦速迄あげるには蒸気圧力が上がるまでの時間,その逆は蒸気圧力が下がるまでの時間。
魚雷が命中するとその蒸気が一気に放出され機関部員はかなりのやけどを負ったそうです。命を落とした方も大勢。
特殊艦としては北方に配備された砕氷船。
オスタップと呼ばれる平べったい船型で,機関は蒸気を用いた往復動機関。平たいので揺れが激しく船酔いする人が多かったようです。余談ですが,カッターなどの内火艇(内燃機関動力船)は当時気むずかしく,整備に苦労したそうです。

戦争を美化するつもりもありませんし,反対ですが軍隊というはっきりした上下関係と規律は現代社会でも見習うところがあると思います。日本が外国に攻められてきたら,兵士として参加できるか,難しいですね。出るとは思いますが。
by かず (2006-11-18 02:45) 

maeboo.

おはようございます、かずさん。
もうひとり、つられてきましたね(笑)

妙高はイージス艦となって名前が残っていますが、冬月はどうなんでしょう。
おっしゃるとおり冬月は沖縄特攻で残った艦ですね。「雪風」「「初霜」「涼月」とともに・・・。

秋月型の8番艦。艦尾が少し長くなったのでこれ以降を冬月型ともいうらしい。
けど、秋月型には物語がいっぱいありますよね。
小沢オトリ艦隊に所属して、戦闘後に姉妹艦若月を救う為に単艦で米艦隊(重巡・軽巡・駆逐艦群)を相手に奮闘、五十鈴と若月を無事に逃がしたんですよね。米軍はやっと沈めた時にこれが駆逐艦だったことに気がついて驚愕したそうです。
by maeboo. (2006-11-18 07:30) 

こさ

戦艦乗りだったかは不明ですが、母方の祖父は南方戦線で
顔が酷い火傷になって帰ってきました。
どれくらいひどいかというと、色白の祖父が、真っ黒に日焼けして
いるという感じ。(間違っても真っ赤にはならない)。
あと、母も父も、大空襲を受けているんですね。
だから当時のことはすっごい聞かされましたね。
その流れで当時からよく読んだのが「ガラスのうさぎ」
機銃掃射とか、高射砲とか、この本で知った部分が大きかったです。
そして戦争に突き進んだ理由を探していて、柳田邦男著の
「マリコ」に出会いました。すっごくいいです。
杉原ちうねさんは日本のシンドラーとたたえられましたが、
テリィこと、寺崎英成さん(主人公マリコの父)は、長く
日本を売ったとされて名誉回復がされなかった悲劇の外交官です。
(晩年は、昭和天皇や今上天皇にお仕えしていますが、
外務省内では長いこと認められませんでした)。
ハル・ノートを訳して、天皇陛下宛に電報を打ち、
「どうにか戦争をおやめください」と祈った方です。
この方のお兄さん、寺崎太朗さんと、アメリカの心情を
探る言葉のコードネームに、「マリコ」が使われたという
とても重く、切ない物語です。
ねえ、戦争は、いやだよねえ。
by こさ (2006-11-18 23:48) 

maeboo.

こささん、おはようございます。
おじい様、ご無事に戻られて何よりでした。

私の母は九州出身でやはり空襲を知っています。鹿児島の空がオレンジに見えたと言っています。
そして、艦載機も見たそうです。バリバリという機銃音とともに。

お話を聞いて、来栖さんを思い出しました。
野村大使とともにハルノートを受領した来栖三郎大使。
対日外交のキーマン、グルーに絶大な信頼を受けていました。

奥さんはアメリカ人のアリスさんです。ご長男の良さんはお母さんの風貌を受け継ぎましたが戦時は愛国心に溢れ、陸軍の航空審査部にいました。米軍の邀撃戦の際、福生基地で滑走中の飛燕に巻き込まれるという痛ましい事故にあい亡くなりました。

本当に・・・嫌ですね。
by maeboo. (2006-11-19 06:22) 

saki

デザインが変わりましたね!
地上を見ると、ビルがいっぱい。都会にもこんな夜空があれば気分も変わりますね。
クリントイーストウッドの映画、まだ見てません。でも、日米両方からの視点で描かれることに意義がありますね。NHKのインタビューでも、この点が強調されていました。
by saki (2006-11-20 11:23) 

エド K.

maebo o.さん、大和に随伴して沖縄特攻に参加した艦に、あなたも名前を挙げておられる雪風が居ますね。

この駆逐艦は太平洋戦争で戦った軍艦のうちで最も幸運な艦と言われています。 ほとんどの海戦に参加し、ほぼ無傷で終戦を迎えましたが、戦後昭和22年7月に中華民国に引き渡されました。

この艦がラッキーな艦であったとして自衛艦第一号に「ゆきかぜ」として名を残していますね。

詳細は伊藤正徳著「連合艦隊の栄光」1974年、角川文庫、に出ています。
by エド K. (2006-11-20 22:51) 

maeboo.

sakiさん、こんばんは
デザイン、何か冬らしいのは無いかと探し、お試しで色々いじっていたのですが、直すの忘れて会社に行ってしまいました。
見られてしまったら仕方がありません。しばらくこれで行きますね。
確かに日米双方からの視点で作る作品は意味があるかもしれませんね。
最近、沖縄戦に関する書籍で米軍の公的文書を日本語訳したのを読みました。
沖縄戦の個々の戦闘に関して日本側の資料が少ないので(敗走してますからね)、少なからず衝撃を受けています。

エド K.さん こんばんは ようこそお越し頂きました。
呉の雪風 佐世保の時雨 で良かったでしょうか? 
栗田艦隊を尻目に、ひたすらレイテに向って突っ走った西村艦隊の中で唯一生き残った時雨も、あっけなく輸送船護衛の最中に雷撃で沈みました。
そう考えると、ずっと多くの海戦に参加しながら生き残った雪風はやはり幸運艦ですね。
エド K.さん、先日江田島の赤レンガに行ってきました。教育館で戦藻録を拝見し、その裏手で返還された雪風の主錨を見てきましたよ。陸奥の主砲も・・・。
その時の記事もよかったら読んで見てください。
http://blog.so-net.ne.jp/syosaiyojohan/2006-10-18
by maeboo. (2006-11-20 23:41) 

かず

エド K.さん,自衛艦第一号の命名は雪風でしたか。
中国に移管されたのも覚えていたのですが,肝心の艦名を間違えるとは...
いや~,人間の記憶はいい加減なもんですね。お恥ずかしい。
by かず (2006-11-21 14:08) 

エド K.

maebo o.さん、私が書き込んだ雪風関係のことはすべてあなたの江田島訪問記に出ていますね。 錨と舵輪が変換されていたことは知らなかった。 お恥ずかしい。

硫黄島に関して言えば、もう20年くらい前になりますが、ワシントンで”Iwo Jima Memorial Statue”を見ました。 擂鉢山に星条旗を立てている例の写真を基にした大きな銅像です。 いかにアメリカ人にとって硫黄島の戦いが厳しかったかが推測できますね。

それにしても、中川州男陸軍大佐率いるペリリュー島、栗林忠道陸軍中将の率いる硫黄島、牛島満陸軍中将の率いる沖縄などががんばりすぎたと思います。 がんばりすぎたことが、米軍をして原爆投下に踏み切らせたのではないかと考えています。

沖縄戦については捕虜になり生き残った八原大佐が、詳細を書き残してくれていれば、個々の戦闘の詳細が分かったのにと残念に思います。 戦後、彼が批判され、何も言えない状況に置かれたことが悔やまれます。
by エド K. (2006-11-21 22:04) 

maeboo.

エド K.さん こんばんは
光人社文庫で『玉砕』関連の本を読みました。
アッツ以降の各島・環礁で起きた壮絶な戦いに戦争を知らない世代としても何かを思わずにはいられませんでした。
栗林さんはそれらの玉砕のことを戦訓に水際作戦を採用せず、最後の最後まで突撃を禁じたのですよね。

栗林さんの最後ははっきりと分かっていないようですが、誰の著書で読んだか忘れましたが、降伏勧告をするアメリカ軍の本部まで栗林さんが出向き、回答は「降伏せず」と言って、目の前で切腹、参謀たちが介錯、その後参謀たちも互いに刺し合いその場で果てたという話があったのですが・・・今度部屋をひっくり返します。

擂鉢山の星条旗、あの写真を見ると何故か(自分でも理由が分かりません)拉
孟守備隊や東寧・勝鬨陣地を思い出します。・・・何故?

レイテ突入を前に反転をした栗林さん。秋月が瑞鳳を守るために秋月を楯にしたのか?の緒方艦長。皆、多くを語りません。
栗林さんにしても、東京でも会議に出席をせず、神参謀がやってきて『敵艦隊に遭遇したら、交戦』を確認していました。ブルズランを知らない栗田艦隊としては、近くに機動部隊がいると思えば、輸送船じゃなく艦隊決戦を挑むのが当時の軍人なのでは・・・。
本当のところを聞かせてもらいたい。といいつつも聞かないほうがいいのかも。
by maeboo. (2006-11-22 00:09) 

maeboo.

あ、書き間違えてますね。
レイテで反転したのは栗田さんです。
by maeboo. (2006-11-22 16:22) 

エド K.

maebo o.さん、アッツ以降の各島・環礁で起きた壮絶な戦いやさらに欧州での米軍の戦闘方法なども戦訓として考慮に入れて「敵軍戦法早わかり」を作成したのは大本営第二部第十六課の堀栄三少佐です。 81ページからなるこの冊子ができたのが昭和19年9月。

冊子の完成を待たず昭和19年3月には大連で、マリアナ諸島に関東軍から転用される第十四師団のために教育も行っています。 ここで聞いていたのが後にペリリュー島で勇名をはせる中川州男大佐でした。

硫黄島の栗林忠道陸軍中将たちは敵軍戦法早わかり」やペリリュー島に習い突撃を禁じたのです。 沖縄の八原大佐も米軍の本土上陸を少しでも遅くするために持久戦に近い作戦をたてた。 これらの戦いは読んでいてつらいものですが、米軍の側から後に高く評価されています。

堀栄三著「大本営参謀の情報戦記」文春文庫1996年、に出ています。
by エド K. (2006-11-23 23:48) 

maeboo.

エド K.さん こんばんは
なぜ、日本は急速に水際殲滅作戦から持久戦に切り替えたのか疑問に思っていました。

米軍の沖縄上陸の話を読みましたが、おそるおそる上陸するも玉が一発も飛んでこず、沖縄の風景に見とれたとのこと。
典型的古来日本陸軍タイプの長さんが居たり、神さんとも意見が合わない。
捕虜になった八原さんはアメリカ側からは大変評価されていました。

敵軍戦法早分かりは初めてお聞きしました。
早速ご紹介の本、探ってみます。

桜の季節になり、散り始めると『サクラ・サクラ』を思い出します。
by maeboo. (2006-11-24 00:59) 

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