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西洋の傲慢さ、東洋の自己欠如 [学生生活(社交)]

昨日の麻生太郎に引き続き、今日は日本の政治学の専門家Arthur Stockwin教授の講演会に出かける。今日も韓国人の友人H君と一緒だ。

タイトルは「Japan, 1962-2005」。戦後政治における左翼政党の果たした役割について、個人的経験も交えながら面白く説明してくれた。

 

昨日の麻生太郎大臣のスピーチについて厳しい批判もあった。「あのような発言を政界のトップにいる人がするなんて、一瞬言葉を失いましたね」などと言っている。満州の話と朝鮮戦争の話についてはまあ僕も同意見なので、ふむふむと聞いていた。

さて、最近の日本の右傾化やこの麻生氏の発言などを取り上げた後、この講演の肝であり教授が最後に発したこの言葉にいささか驚いた

「日本の民主主義はどの程度健全なのか?(How healthy is Japanese democracy ?)  私はこのことを見直さなければならなくなった。」

ちょっと待ちなさい、Stockwin教授!

その国の民主主義が「健全か病的か」を測るものさしは何か?それはStockwin教授の頭の中ではきっと「英国における民主主義」あるいは「欧米が理想とする民主主義像」なのだろうと思う。しかし僕は人類学をかじっていて文化的相対主義の影響を受けているので、この考え方は受け入れられない。

日本の民主主義と英国の民主主義が異なるのは分かる。しかしその差異は単なる差異でしかない。そこに「健全」とか「病的」といった価値を付与するのは個々の人間の主観である。英国の民主主義がすべての民主主義を測るものさしなんだとすれば日本の民主主義は「異常」なのかもしれない、しかし英国の民主主義が「絶対的な尺度である」と主張できる根拠はない。少なくともアカデミックな議論の場にはこういう考えは相応しくないと思う。文化間における差異は単純であり、また平等である。このページを見よ!http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-04-12-1

このシンプルな事実を指摘しようと思って質問コーナーで手を挙げたのだが、時間がきてしまって結局できなかった。教科書問題とか尖閣諸島とか竹島の問題に関する質問が多かった。そういうトピック的な質問もいいが、もっと根源的な彼の話の矛盾を突かなくてはいけない。

その後H君とお茶しながら「日本と韓国にとって個人主義が必要か」といった話題でディスカッションする。両者ともに「必要」という意見で一致する。ここでいう「個人主義」とは「個々の人が独自の意見を持ち、その意見に責任を持つ」という意味での個人主義である。

「一部の軍閥によって煽られて戦争へと駆り立てられた」とされている戦前世代の日本人、「反日」を掲げて荒れ狂う中国人や韓国人、マスコミに煽られヒステリックに特定の会社たたきをする日本人、マスゲームをする北朝鮮の民衆・・・・

僕はこの人達になにか共通する「自分のなさ」を感じる。それは僕らの考える「個人主義」の欠如なんだと思う。「個人主義」という西洋の思想を絶対的な「善」として扱う考え方は僕の相対主義的なポリシーに反する。しかしアジア諸国に今もっとも必要なのは一人一人がもっと思想的に独立することじゃないか思うのだ。

H君、今回も写真Thanks!

関連記事 自他の区別と境界 http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-05-06-1

 

 

 


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HANA

私の研究の最大の議題も、ソレ(個人)をどう創出するかです。有名なモースの「人間的進化理論」のモデルを下敷きに、どういう人間があり得るかを考えてます。西洋的個人を表層的に真似してもダメだという失敗例はもう多数出て来ていると思います。日本人として、或は非西洋人としてどのようにそれが可能かについて、こないだのプレゼンでも言おうとしていたのです。要は「他者へ向かってどのように自己を超越するかにかかっている」のですが、その「どのように」のあたりに、日本的な、或は韓国的な個のあり方の余地があると思います。
by HANA (2005-05-08 02:50) 

しょちょう

それは極めて難しいテーマですよね。
個をどう捉えるかも社会・文化的に構築されますからね。どこかの島の部族では「個人」という概念が全く存在していないそうですね。共同体の一つの様相としてAさんなりBさんが存在している。そういうところでは病気に関しても「個人の病気」=「社会の病気」と捉えられ、誰かが病気になると社会の構成員全員で祭りのようなことをするんだそうです。
by しょちょう (2005-05-08 03:50) 

三平太

しょちょうさん、HANAさんこんにちは。

しょちょうさん。いやはや、なんともおもしろいトピックです。非常に刺激を受けます。ここに返事を書いていたら長くなったので、僕のブログに記事を立ち上げました。しょちょうさんの言われることよくわかります。言われることはもっともなんですが、不思議なことに、僕にとってはけっこうチャレンジングな内容なんです。僕が書いた記事もなかなか微妙になってしまいましたが、まとまるのにもう少し時間がかかりそうです。意見があればよろしく! あと、「個人の病気」=「社会の病気」という感覚おもしろいですね。

HANAさん。
「他者へ向かってどのように自己を超越するかにかかっている」ですか。この言葉なにやら僕が考えていることと多少重なっているように聞こえます。僕は『インター・カルチャー』を生き抜いて(w)来た経験を昇華させたいと思っております。当方ブログにもコメント頂けると幸いです。
by 三平太 (2005-05-08 13:37) 

しょちょう

三平太さん
そっちの記事のほうにコメントしておきました。
by しょちょう (2005-05-08 17:47) 

彼がどれだけ日本についてご存知なのかは知りませんが、彼は日本の中に入ってフィールド・ワークを体験されてきたのでしょか?欧米人は未開の部族について近親婚などがあると誤解しているように彼も日本については未開の部族のように勘違いされている部分あるんじゃないでしょうか?いわゆる未開の部族の方が文明人と呼ばれるものより論理的思考を持っていたりもするわけですが。
このブログを読んでなんとなく授業をとっていた文化人類学をもう一度やってみたくなりました。取り敢えず祖父江孝男氏の文化人類学入門読んでみようと思います。
by (2005-05-09 06:05) 

しょちょう

ナイトさん
文化人類学の本ですか、いいですね。ぜひ読んでみてください。意味不明な理論なども書いてあるかと思いますが、御自分の経験などと照らし合わせてみて「これはいい」という概念や事例があれば自分の血や肉にしてください。学問のための学問ではなく、自己の発展のための学問ですね。
by しょちょう (2005-05-09 08:10) 

HANA

ところで私は「西洋の傲慢さ、東洋の自己欠如」に見えるのは、それぞれが違った社会構成と関心に基づいてものを見るためであって、お互い自分の認識の限界の範囲内でしかモノが見えないということだと思います。

そもそも西洋が傲慢に見えるのは東洋と対比するからだし、東洋の自己が欠如して見えるのは、西洋の「自己」観念、自己ある生き方を念頭に置くからでしょう?問題の見え方が特殊なのです。問いの立て方としては、そう見えてしまうところから先へと、どう進むかだと思います。

私は、Stockwin教授の問いの立て方はまずくないと思うんだけどな。
つまり、文化は文化として、日本が民主主義という制度を奉じている以上、その制度の精神や仕組みが、実際の運用上、阻害されていないかどうかを考えるのは、文化を超えて日本にリーチする、よい視座になってると思うの。少なくとも共通の物差しを使って議論が出来るのだから、Stockwin教授が「民主主義」という制度を自文化中心的に考えていたら、異議申し立てする余地もありますし。

オックスフォードの人類学者、故Godfrey Lienhardtゴドフリー・リーンハートは、人類学の考え方を「じぶん自身の頭で考え、同時にじぶんたちとは異なる他人の立場でものを考え」ることだと表現しています。

私などその典型ですが、人類学をいくら勉強して他文化の知識があったとしても(ないけど)、自分を超えて人の一貫性にリーチアウトするのはむずかしぃ。単なる相対主義に陥ることや、自文化中心主義を拡大して終わってしまうことは人類学者や科学者にも多々あると思います。
by HANA (2005-05-10 17:03) 

しょちょう

HANAさん
貴重な御意見ありがとうございます。「他者を語る権利が自分にはあるのか」といった議論に行き着きますね。それはともかく、以下の点に若干クリアーでないように感じるのですが。

>文化は文化として、日本が民主主義という制度を奉じている以上、その制度の精神や仕組みが、実際の運用上、阻害されていないかどうかを考えるのは、文化を超えて日本にリーチする、よい視座になってると思うの。少なくとも共通の物差しを使って議論が出来るのだから

この文章は「文化から完全に独立した真の民主主義というシステムが概念として存在している」というのを前提にしているように思うのですが、いかがでしょう?しかし、そのような純粋にculture-freeでgold standardとなりうるような「民主主義」というものはこの世に存在していないと僕は考えます。「共通のものさし」というのは無いと思うのです。

例えば、「北朝鮮の民主主義は不健全だ」と言うのは簡単です。しかしそれは学問的姿勢ではないように感じます。なぜならその表現にはイデオロギーや個人の価値観がたっぷり含まれているからです。「北朝鮮の主張する民主主義は日本の主張する民主主義とこういう点が異なる」と言うのであれば学問的な議論と言っていいでしょう。僕がStockwin教授に指摘したかったのはこの点です。

北朝鮮の理想とする「民主主義」と彼らが実際にやっている「民主主義の実践」との間に著しいギャップがあり、それを「不健全」と呼ぶのであれば、まあいいでしょう。かれは彼らの枠組みの中の論理的矛盾に価値を付与するのであって、他の国の枠組みを使って価値判断するわけではないからです。しかし、北朝鮮が理想とする「民主主義」あるいは北朝鮮で行われている「民主主義の実践」だけを単独に取り出して「不健全」と呼ぶのは学問的な姿勢ではないと思います。なぜならそこに他者の価値基準が介入しているからです。

そしてこのような相対主義的な議論に対して「西洋の傲慢さ、東洋の自己欠如」といったタイトルをつけるのは非常に矛盾しています。なぜならこのタイトルの中で「西洋と東洋の違いに対する価値の付与」が行われているからです。この矛盾には当初からうすうす気付いていたのですが、今はっきりと悟りました。僕のものの考え方はまだまだ未熟だとということの証ですね。笑
by しょちょう (2005-05-10 21:26) 

HANA

人類学的を学ぶ中で私がいちばん納得したのは、逆説的ではありますが「人の心も振る舞いの意味も、けっきょくよく分からない」ということでした。

本当に、分からない。分からないからこそ、どうにかリーチしようと決意する時、文化についての探求は相対主義から先へ進んでいくのだと思います。

私は民主主義が文化の産物であるとしても、それが何を理念としたどのような制度であるかについては共通の物差しと思います。それは民主主義固有の理念と現実の手続きの組み合わせだから。朝鮮民主主義共和国が、民主主義を制度として受け入れているとすれば、その民主主義の条件はなんですか、と訊けば、相手が何をもってそれを民主主義としてるかわかってくる。それが(「言論の自由」など)民主主義の条件をまったく満たしてなければ、そのまったく違うものが民主主義を名乗らなくてはいけない理由はなんだろうと考えることで、相手にもう少しだけ、接近できる。こうやって少しでも事実に近くなろうと努力するのが人類学であり科学であると私は思います。でも最初に「分からない」ことを認めないと、そうやって進んでいくことが出来ないのですよ。だから、

「日本の民主主義はどの程度健全なのか?(How healthy is Japanese democracy ?) 私はこのことを見直さなければいけなくなった」

というStockwin教授の発言は、むしろ「いままでは日本のしている政治を、自文化中心的に西洋と同じことをしているもんだ、と決めつけてたけど、なんか違ったみたい。分からないものとしてもう一度、考えなおす方が日本の現実に迫れるのではないか?と思ったんだよ」とも聞こえるのですたい。たとえその後ろに「でも日本も最終的には健全にならんといかんぞう」という含みがあったとしても、「教授の考える健全な民主主義ってなんですか?」と訊いてみれば、共通のものさしのもとに議論が展開できるのでは。お互い人の子だから、自文化中心にものを考えたり、表現したりするのは、どうしようもない。だから、言葉の綾は聞き流して(「健全で絶対的な民主主義とは英国のそれだ!」と言明したわけではないんですよね?)「ふーん、健全な民主主義ってなんですかね?」と訊き返せば、相手は何か言うだろうから、「それは民主主義にとって本質的でない」とか「日本は民主主義のこの点をこう理解しているからこうなる、だから民主主義である」と議論がすすめられるのではないかと思うのでした。

長コメントごめんなさいです。
by HANA (2005-05-13 06:02) 

しょちょう

御意見ありがとうございます。
結局この先生に直接質問できなかったので真相は闇の中ですね。こんな一言の言葉をめぐっていろんな人のいろんな考え方が飛び交うというのは非常に興味深いことです。どうもありがとうございました。
by しょちょう (2005-05-13 09:28) 

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