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31.風は海から吹いていた [蒼ざめた微笑]

失われた海への挽歌 / 嘉手苅林昌



 東の空が明るくなりかけていた。

 黒く、硬く、ゴツゴツした岩でできている岬には、海からの冷たい風が強く吹き付けていた。枯草は皆、同じ方を向いて寝ている。はるか下の方から、波の音が誘うように聞こえて来た。

 海は黒く光りながら静かに広がっている。遠くの方で灯台の光がゆっくりとまたたいていた。

 東の方から次第に、一日が始まりつつあった。

 静斎は東の海を見つめていた。

 隆二ははるか下の波の音を見下ろしている。

 私は空を見上げた。消えつつある星の数を数えていた。

 人が死ぬと、一つ、星が消えると聞いた事があった‥‥‥人が死ぬと星になると聞いた事もあった‥‥‥

 東の海から太陽が顔を出した。

 海が輝き始めた‥‥‥

 星が少しづつ消えて行った‥‥‥

 三人共、日の出を見ていた。

 太陽の光を浴びて、一秒毎に海は変化していた。一秒毎に少しづつ違う場所で、違う人間が、この一日の幕が上がる瞬間を見ている。それは一瞬も休まずに永遠に続いている。一人の人間が死のうと生まれようと、泣こうと笑おうと、何をしようとも、必ず、どこかで一日は始まっている。今、この場所で、その幕は徐々に上がっていた。

 二十年前、橋田流斎がここから身を投げた。そして、一昨日の夜、妹の藤沢久江がここから身を投げた。

「奥さんだったんですね?」と私は静斎に声を掛けた。

 静斎は何も言わなかった。ただ、じっと、海を見つめたまま、石のように立っていた。

 朝の光が彼の顔に影を差していた。

 私ははるか彼方の水平線を見つめた。

「久江は‥‥‥」と静斎は言った。

「久江はあの時、自殺しようとしてたんじゃ‥‥‥ところが、なかなか、できなかった。子供の事が心配だったんじゃ‥‥‥そんな時に、わしは紀子を連れて帰った。まだ四歳だった紀子じゃ‥‥‥初めのうちは、おどおどしてたが、すぐに久江になついてしまった‥‥‥久江は自殺するよりも、紀子を育てようと決心したんじゃよ。紀子を昭子のような音楽家に育てて、罪滅ぼしをしようと思ったんじゃ‥‥‥あいつは真剣になって紀子に音楽をやらせた。あいつにとって、紀子だけが生きている理由だったんじゃよ。そして、紀子は立派なピアノ弾きになった‥‥‥」

 静斎は目を細めて、日の出を見ていた。

 隆二は両手をポケットに突っ込み、父親の横顔を見つめていた。

「その事をいつ、知ったんですか?」

「流斎が死んでからじゃよ‥‥‥流斎は確かに、気が変になっていた。時々、幻聴を聞いたり、わけの分からない行動を取ったり‥‥‥しかし、暴れ回ったり、狂暴になったりした事はなかった。まして、自殺などするはずはなかった‥‥‥流斎は久江の事に感づいてしまったんじゃよ‥‥‥絵が描けなくなってしまった自分と、久江に殺人までさせてしまった自分、そんな自分を生かしておく事ができなかったんじゃろう‥‥‥久江から本当の事を聞いた時、わしは久江を殺してしまいたかった‥‥‥わしにはできなかった‥‥‥久江は紀子を立派な音楽家にするまで、私は死にませんと、はっきりと言った‥‥‥わしは久江の顔を見るのも嫌だった。わしは日本を出た。もう二度と帰って来ないつもりで日本を出たんじゃ。子供も捨てて、何もかも捨てて、わしは日本を飛び出したんじゃ‥‥‥わしは好き勝手な事ばかりして来た‥‥‥二年間、海外にいて、わしは戻って来た。硯山先生が亡くなったと聞いて帰って来たんじゃ‥‥‥久江は一人で三人の子をちゃんと育てていた‥‥‥文句一つ言わずに、わしをうちに入れてくれた‥‥‥久江はいつも、文句を言わなかった。わしが何をしてもじゃ‥‥‥あいつはわし以上に苦しかったに違いない。それなのにちゃんと子供を育てて‥‥‥わしはいつも、逃げてばかりいたんじゃ‥‥‥」

 静斎はその後、何も言わなかった。

 隆二も何も言わなかった。

 そして、私も黙っていた。

 私は静斎夫人の最後の微笑を思い出していた。人間の悲しみ、苦しみ、喜び、怒り、すべてのものから超越した微笑。そして、最も人間らしい微笑。それは、永遠の微笑だった。紀子が捜していた微笑だった。あの微笑こそ、紀子が捜していた『蒼ざめた微笑』だった。

 空はすっかり明るくなっていた。

 風は海から吹いていた。

 波ははるか下の方で泣いていた。人間という小さな愚かな生き物を哀れむように低く、静かに泣いていた。


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