25.悟りの境地に達した夫人 [蒼ざめた微笑]
流斎が眠っている深巌寺は畑の中にあった。ひなびた町のはずれに、こんもりと黒い森が見えて来た。
古そうな山門に辛うじて読める達筆で、深巌寺と書いてある。山門の横にジープを止めて、山門の下に立った。石の階段が三段ばかりあり、本堂まで石畳が続いている。本堂は山門程は古くないようだった。
一人の老人が本堂の前に立って、屋根を見上げていた。薄汚れた作業ズボンをはいて、暖かそうな綿入りのちゃんちゃんこを着ている。頭にはちょこんと黒い小さな毛糸の帽子を乗せていた。
私は老人の側まで行って、屋根を見上げてみた。立派な竜の彫刻が彫ってあった。力強く、生き生きとした竜だった。
「見事な竜ですね」と私は老人に声を掛けた。
「いや、竜ではない。鳥じゃ」
老人は屋根を見上げたまま言った。
「鳥ですか‥‥‥鳥には見えませんけど‥‥」
「今は見えない‥‥‥そのうち、見える」
老人はわけの分からない事を言った。あれはどう見ても竜だった。魔法でもかけない限り、あれが鳥になるわけがない。
私は老人の顔を見た。穏やかな顔をして、優しそうな小さな目で屋根をじっと見つめていた。
私は首を傾げて、もう一度、竜の彫刻を見上げた。竜の上で何か動く物が見えた。しばらくして、一羽の小鳥が飛び立って行った。
私は飛び去る鳥を目で追ってから、老人を見た。老人も鳥の去って行った空を見上げていた。
「飛びましたな」
老人は安心したような声で言った。
「あの鳥が、どうかしたのですか?」
「向こうに飛んで行きましたよ‥‥‥そのうち、帰って来るじゃろ」
老人はまだ、空を見ていた。もう、鳥の姿は見えなかった。余程、暇な老人のようだ。鳥が飛ぶのを一々、感心して見ている。
「あのう、和尚さんは、どこにいるか御存じですか?」
老人はゆっくりと私の方に向いた。しわの中の細い目は深く落ち着いていた。
「あなたはどなたかな? あまり、見かけないが‥‥‥」
「ええ、鳥の住めないような所から来ました。ちょっと、和尚さんに用があるのです」
「和尚は今、留守じゃ‥‥‥そのうち、帰って来るじゃろう」
「いつ頃、帰って来るのでしょうか?」
「さあな、そう、慌てなさんな。のんびり落ち着いて待つ事じゃよ。急いだからって、何もできるものではない。ゆとりを持つ事じゃ」
老人はニコニコしながら言った。
「そうもしてられないのですが‥‥‥」
「和尚にどんな用かな?」と老人は行って、本堂の方に歩き出した。
私も後を付いて行った。
「わしも長い事、この寺に厄介(やっかい)になってるからのう。和尚の代わり位はできるかもしれんよ」
老人は縁側に腰を下ろして、遠くの空を眺めた。
「画家の藤沢静斎さんを御存じですか?」と私も縁側に腰を下ろした。
「最近はあまり来なくなったが、彼は元気でやってますか?」
「ええ、元気です。少し、気まぐれですが」
「昔から気まぐれじゃ。面白い人じゃよ‥‥‥まったく、愉快な人じゃ。静斎さんが何か、和尚に用ですかな?」
「いえ、静斎さんじゃないんです。奥さんの方なんです」
「ああ、そうか。奥さんなら昨日、見えましたよ」
「昨日、何時頃、こちらに見えました?」
「そうさのう、四時頃じゃったかな。奥さんがどうかしましたか?」
「ええ。まだ、帰って来ません」
「そうですか‥‥‥」と老人は言ったが、表情は変わらなかった。目をかすかに細めただけだった。
背中を丸めて、顔を前に突き出し、遠くの方を見つめていた。帽子の下の頭は綺麗に剃ってあるようだ。この寺に厄介になっている旅の坊さんだろうか。深いしわが刻まれている顔は落ち着いていて、何とも言えず、いい顔をしていた。
「昨日、奥さん、何か変わった所はありませんでしたか?」
「いや、別に変わったとこはないな」
老人は低く、響く声で、ゆっくりと喋った。
「いつものように、お墓と話をしてから挨拶に来ましたよ。昨日の奥さんは幸せそうじゃった。妙に明るかった‥‥‥言葉ではよう言えんが、禅でいう悟りじゃな。昨日の奥さんはそんな感じじゃった‥‥‥奥さんがどんな生き方をして来たのかは知らんが、特別な修行をしなくても、あれだけの境地まで行き着く人間が何人かいる。奥さんはその一人じゃ。昨日はわしも楽しかったよ」
そういえば、金曜日の静斎夫人は仏様のような不思議な微笑をしていた。私は悟り切った人間というのを見た事はないが、あの時の夫人は、そんなような気がして来た。
「毎月、必ず、来ていたそうですね?」
「毎月、必ず来て、娘さんの事をお墓に話しておったのう」
「娘さんの事?」
「うむ‥‥‥娘さんも一月程前に見えたよ。あの娘は随分と綺麗な娘さんになられた」
「紀子さんの事ですか?」
「うむ、紀子さんじゃ。ピアノをやってるそうじゃな。わしも一度、聴きに行こうと思っておる。音楽ってもんはいいもんじゃ」
「あの、よく分からないんですが、紀子さんがどうして、流斎さんのお墓参りをしたんでしょう?」
「いや、そうじゃない。あの娘の本当のお母さんの方じゃよ」
「ここにあるんですか?」
「そうじゃよ。知らなかったのかな?」
「ええ」
「和尚さん、今日は寒いのう」
誰かが大きな声で言った。声の方を見ると小柄な老人が右手に鎌を持って、笑いながら立っていた。
「ああ、今日は寒いが、もう春じゃよ」
和尚と呼ばれた老人も大声で言った。
「そんなもん持って、母ちゃんに会いに行くんか?」
「ああ、生きてるうちは、うるせえカカアだったが、死んじめえば静かなもんだ。たまには墓の掃除ぐれえしてやんなくちゃな。わしも、そろそろ、あいつに会いに行くじゃろ。あの世に行ってまで、つまらねえ事で喧嘩したかあねえからのう」
小柄な老人は大声で笑いながら裏の方に行った。
「あなたが和尚さんだったのですか?」
私は隣の老人に言った。
老人は笑いながら、うなづいた。
「わしはわしじゃよ。見た通りの老人じゃ」
和尚はとぼけた顔をしていた。その顔を見ていると、わけもなく、おかしくなって来た。
「紀子さんですけど、彼女、ここに来た時、何か言ってましたか?」
「わしに本当のお母さんの事を聞いたよ‥‥‥あいにく、わしは知らんのじゃ。わしがここに来たのは十年程前じゃからな‥‥‥わしは今のお母さんの事を話してやったんじゃ」
「そうですか‥‥‥奥さんが毎月、来てたのは紀子さんのお母さんのお墓だったのですか?」
「両方じゃな‥‥‥だが、いつも、昭子さんのお墓に娘さんの事を話してたよ。流斎さんの方はついでだったのかもしれんな」
「どうしてでしょう? どうして、毎月、必ず、紀子さんのお母さんのお墓に来てたんでしょう? それも二十年もです。私にはどうしても分かりませんよ」
「うむ‥‥‥難しいな‥‥‥人間という奴はおかしなもんじゃからのう。理由なんか別にないのかもしれん。人間は時には理由なんかなくても行動をするもんじゃ‥‥‥奥さんの場合は淋しかったのかもしれん。淋しい時は誰でもいいから話を聞いてもらいたいもんじゃ。奥さんはお墓を選んだんじゃろう。奥さんにとって、お墓は単なる墓石じゃない。親しい友達でもあり、もう一人の自分じゃ‥‥‥奥さんから聞いたんじゃが、紀子さんを引き取った時、随分と苦労したらしい。奥さんは楽しそうに思い出話をするだけじゃがな。余程、辛かったに違いない。お兄さんは自殺してしまうし、静斎さんはうちを捨てて外国に行ってしまった。奥さんは一人で三人の子供を育てていた。子供だけが生き甲斐だったんじゃろう。特に娘さんは大事に育てていたらしい。わしはどういういきさつがあって引き取ったのかは知らんが、その娘さんのお母さんに娘さんの事を話すのが、唯一の楽しみじゃったのかもしれん。娘さんの成長するのをお墓に話して、また、自分に話して、苦しさを乗り切って来られたんじゃろう‥‥‥昨日は本当に幸せそうじゃった」
子供が五人、山門の所で遊んでいた。一人の子供が走って来て、六人になり、何かを相談している。六人の子供たちは歓声を上げると、どこかに走り去って行った。辺りは静かになった。
「奥さんは昨日、何時頃まで、いましたか?」
「五時頃じゃったかな」
「この近所に知り合いの方がいるか御存じないですか?」
「バス停の前に駄菓子屋さんがあるんじゃが、そこのお婆ちゃんは奥さんを知っとるよ。何しろ、二十年も毎月、通ってたんじゃからな。昨日も多分、寄ったじゃろう」
「そうですか‥‥‥どうも‥‥‥あの、その紀子さんのお母さんのお墓はどの辺にあるんでしょう?」
「ああ。わしが案内しよう」
本堂の裏に回った。墓地は思ったより広かった。高い木に囲まれて薄暗く、人影もなく、ひっそりとしている。紀子の母、浅野昭子の墓は左側の奥の方にあった。二十年の歳月を感じさせない程、新しい墓石が建っていた。墓石の両側にある花挿しには瑞々しい花が咲いている。線香立ての灰の中に数本の線香が途中で消えたまま残っていた。勿論、雑草などなく、よく手入れしてあった。
私は両手を合わせた。
「流斎さんのお墓はこっちじゃ」と言い、和尚は歩き出した。
流斎の墓は昭子の墓と反対の方にあった。墓の前で、一人の老人がしゃがんで線香を上げていた。
「誰かいるようじゃな」
和尚が歩きながら言った。
「誰ですか?」
「知らんな。見た事ない人じゃ。昔の友達じゃろ。絵画きさんかもしれんな」
墓の前の老人は厚いコートを着て、白髪を長く伸ばしていた。何となく、静斎と感じが似ている。私は荒木俊斎に違いないと思った。和尚と私が、その老人の側まで行くと、老人は立ち上がり、こちらを見てから頭を下げた。和尚も私も頭を下げた。
「失礼ですが、荒木俊斎さんではありませんか?」
老人は鋭さを優しさでおおい隠したような目で私を見た。
「はい。荒木ですが、どこかで、お目にかかりましたか?」
静かな、はっきりとした声だった。
「いえ、初めてです。私は静斎さんの知り合いで日向と言います。静斎さんからあなたの事は聞いていました」
「そうですか」
俊斎の目から鋭さが消えて、緊張していた顔が少し緩んで来た。
「静斎さんは相変わらず、お元気ですか?」
「はい、お元気です」
「そうですか」
俊斎は優しく微笑しながら、何度もうなづいていた。
「久し振りに東京に来たので、流斎さんのお墓参りをして、それから、静斎さんのお宅へ伺おうと思っていたんですよ」
「わしはちょっと用があるので失礼しますよ」と和尚は言った。
私は和尚に礼を言った。
和尚は軽く頭を下げて軽い足取りで去って行った。頭に乗せた黒い帽子を揺らせながら、いかにも楽しそうに、のんびりと歩いていた。
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