22.虜になった野良犬 [蒼ざめた微笑]
もうすぐ、冬も終わるのか、春のようないい天気だった。
私はひどい顔をしたまま、事務所の椅子に座っていた。ソワァーにはその張本人である浜田がふんぞり返り、チンピラ連中がヘラヘラしながら私を見ている。契約をかわして、浜田は私の依頼人になっていた。
昨夜、紀子から電話があって、今、金沢にいるという事をひろみから聞いた。紀子捜しの仕事は昨日で終わっていた。結局、二日間、静斎の気まぐれに振り回されていただけだった。残るは東山の件とひろみの件だ。
今日、東山を捕まえれば両方とも片が付くだろう。上原を探しにヨーロッパまで行く事になるかもしれないが、ひろみも一緒に行くと言う。なかなか、楽しい旅になりそうだった。
「なに、ニヤニヤしてやがるんだ」
チンピラがバタフライナイフをカチャカチャさせながら私を睨んだ。
「顔の筋肉が言う事を聞かねんだよ」と私は顔をしかめた。
「おい、歯医者は来るんだろうな?」
大男が煙を吐きながら聞いた。
「来る」
私は時計を見た。十一時五分前だった。
歯医者は時間通りに現れた。ソワァーに座っている人相の悪い連中を見て、眉をひそめて、「あの方たちは?」と小声で聞いた。
「あなたと同じ被害者です。私の依頼人でもあります」と私は答えた。
「何ですって?」
「あの人たちも東山にゆすられているのです」
大男が歯医者に軽く、頭を下げた。チンピラたちは相変わらずニヤニヤしていた。
「あの方たちが東山にゆすられてると言うのですか?」
歯医者には信じられないようだった。信じろと言う方が無理というものだろう。
大男は立ち上がると歯医者に近づいて行った。歯医者は一瞬、身を引いた。
「私はこういう者です」と言いながら、大男は名刺を差し出した。
「エスエスプロダクション?」と歯医者は名刺を読んだ。
「私どもに所属しているモデルが東山にゆすられているのです。私どもとしては何としてでも東山を捕まえたい。ところが、東山の奴は姿をくらましてしまった。そこで、あなたの協力が必要なのです。どうです、取り引きをしませんか?」
「取り引き?」
「私どもは東山を捕まえるつもりでおります。あなたは五百万、要求されたそうですな。もし、私どもを東山との約束の場所に連れて行ってくれたら、東山から五百万を取り戻して差し上げましょう」
「しかし‥‥‥」
「あなたの前には二度と顔を出さないように約束もさせましょう。いかがですかな?」
歯医者は私を見た。
「東山にゆすられているのは、あなただけではないんですよ。奴が国外に逃げる前に捕まえなくてはならないのです。あなたが東山と会うのを邪魔したりはしません。あなたが東山と取り引きを済ませた後、東山を捕まえます」
歯医者は浜田の名刺を見ながら、しばらく考えていたが顔を上げると、「分かりました」とうなづいた。
「私としては写真が戻りさえすれば文句はありません」
「よし、話は決まった」と大男は手を打った。
私は歯医者をジープに乗せ、大男たちは例の黒いベンツで約束の場所に向かった。ジープの中で高橋は私の顔の事を聞いた。
「こういう仕事ではよくある事なんです。心配しないで下さい」
「そうですか‥‥‥あの浜田という人は信用できるのでしょうか?」
「エスエスプロというのは、かなり大きな芸能プロダクションです。信用しても大丈夫でしょう」
「しかし、どうも‥‥‥」
「大丈夫ですよ。奴らはモデルの写真が欲しいだけです。奴らより先に、私が写真を手に入れますよ」
「お願いします。あの写真は誰にも見られたくはありません。手に入れば、勿論、それ相当のお礼は差し上げます」
待ち合わせ場所は、やはり、駅の近くの喫茶店だった。
私は歯医者と離れたテーブルに座ってスポーツ新聞を読んでいた。二人のチンピラも喫茶店内にいる。目立ち過ぎる大男は車の中から喫茶店を見張り、もう一人のチンピラは表の道をウロウロしていた。
歯医者は窓際の席に座って、おどおどしながら外を見ていた。
約束の正午が近づいていた。私は入口の方をチラチラ見ながら新聞を読んでいた。二人のチンピラはスパゲティを食いながら、マンガ本に熱中している。
正午になったが東山は現れなかった。外をウロウロしているチンピラがやけに目についた。役者の卵だか何だか知らないが人目を引くような、わざとらしい演技ばかりしている。大男もその事に気づいたのか車の方に引っ張って行った。
十五分過ぎたが東山は現れなかった。
三十分過ぎても東山は現れなかった。
結局、一時半まで待ってみたが現れず、諦めざるを得なかった。
歯医者の高橋は東山が来なかったのを私のせいにして、今度は倍額を要求して来るだろうと怒っていた。歯医者は私が何を言っても聞こうとしなかった。頭をカッカさせて喫茶店から出て行った。大男が歯医者の後を追って行った。外で何やら話してしたが、うまく話がついたのか、ベンツに乗り込んで去って行った。私は一人残され、みんなのコーヒー代と昼飯代を払わなければならなかった。
私は事務所に戻ると紀子捜索の件の請求書を作った。東山が現れなかったため、上原の居場所も分からない。楽しみにしていた、ひろみとの海外旅行もパーになってしまった。
あの歯医者は二度とここには来ないだろう。依頼人となった浜田も来ないだろう。東山との糸も切れてしまった。ひろみの写真を取り戻すのは上原が帰って来るのを待つしかないのか‥‥‥
私は請求書を持って静斎の屋敷に向かった。ジープを玄関の前まで乗り入れ、駐車場を見ると赤いボルボはなかった。静斎はまだ、ビーチハウスの方にいるらしい。今朝も冬子から、迎えに来てくれと電話があった。
「昨夜、お料理を作って、ずっと待ってたんですよ」と冬子は言った。
「昨夜はひどい目に会って、それ所じゃなかったんだ」と私は言った。
「ひどい目ってどうしたんです?」
「突然、殴られて、伸びちまったんだよ」
「あら、同じだわ」と冬子は言った。「フィリップ・マーロウも突然、殴られたのよ」
「誰が殴られたって?」
「フィリップ・マーロウよ。小説の中の探偵よ」
「そいつはよかったね」
「マーロウはいかがわしい病院に入れられて、薬を打たれて二日も眠らされたのよ。それでも、ちゃんと、事件を解決したわ」
「フィリップ・マーローは名探偵さ。俺とは違う」
「そんな事ないわよ。あなたも頑張って。あれ、昨夜、紀子さんから電話があったんじゃないの?」
「別の仕事がもう一つあったんだよ」
「ああ、そうか、何とかっていう、はげ頭のすけべ男を捜してたのね?」
「そういう事だ」
「大丈夫。もうすぐ、解決するわよ、きっと」
多分、今晩も五時頃、電話が来るだろう。仕事もなくなってしまったし、お嬢様を迎えに行かなくてはならないようだ。
広い庭では雀たちが鳴きながら飛び回っていた。彫刻の女神たちも暖かい日差しを浴びて、楽しそうにヒソヒソと噂話をしている。
今朝、夜の明ける前にコソコソと抜け出して来た屋敷にまた来ている。どうやら、私はひろみの虜(とりこ)になってしまったらしい。
玄関のベルを押すとひろみが顔を出した。今日のひろみは髪を右斜め上で、ちょんまげにしていた。ミニスカートになりそうな長いセーターにジーンズという、あっさりした身なりだった。陽気のせいか、十年前の彼女に見えた。
「いい天気ですね」と私は言った。
「ほんとね」とひろみは愛想よく、私を入れてくれた。
愛想はよかったが、情熱的な娼婦を演じた真夜中の事など、すっかり忘れたような、よそよそしい態度だった。
頭のしっぽを振り振り、ひろみは日当たりのいい応接間に案内した。私がソファーに座ろうとすると、ひろみはさらに奥の部屋に連れて行った。そこは書斎だった。大きな机があり、まるで、図書館のように本棚に本がぎっしりと並んでいた。
ひろみはドアを閉めると、「居場所は分かったの?」と聞いた。
私は首を振った。
「東山は現れなかった。お陰で、依頼人には逃げられ、ろくに調査費も貰えなかった」
「どうして、現れなかったの?」
「分からない。身の危険を感じて現れなかったのかもしれない」
「それじゃあ、これから、どうやって、彼を捜すの?」
「彼の友達を当たってみるさ。誰か知りませんか?」
「さあ、モデルの美喜ちゃんに聞けば、何か分かるかもね」
「美喜ちゃんか。美喜ちゃんは今、田舎だろう」
「そう、田舎よ。山の中にいるわ」
ひろみは大きな机にもたれていた。
「この前、海のそばって聞いたような気がするが」と私は本を眺めながら言った。
美術関係、演劇関係、映画関係、歴史関係の本が多かった。武術関係の本もいくつか並んでいた。
「美喜ちゃんの田舎は海のそばよ。でも、今は山の中にいるのよ」
「どういう意味です?」
私はひろみを見た。
ひろみは窓から外を眺めていた。
「美喜ちゃんは今、湯沢の山荘にいるのよ」
「まさか?」
「主人の浮気相手なの」
ひろみは、ぼうっとして窓を見ていた。
「知っていながら放っておくんですか?」
「仕方ないのよ」
「いつからです?」
「あたしが知ったのは半年位前よ。でも、美喜ちゃんが上原君と一緒に出入りするようになってから、もう二年近くになるわ」
ひろみはドアのそばまで行くとドアを開けた。私たちは応接間に戻った。
「コーヒーでも入れるわ」と言うと、ひろみは笑って、出て行った。
私はソファーに腰を下ろし、流斎の絵を眺めた。青いドレスを着た赤毛の女が思いつめたような表情で、こちらを見ている。西洋風のドレスを着ているが、モデルは日本人のようだ。静斎夫人ではなさそうだった。どこかで見たような気がしたが思い出せなかった。
静斎夫人が静かに入って来た。私の顔を見て、口を開けて驚いた。
「どうしたんですか、そのお顔は?」
「ちょっとしたトラブルに巻き込まれまして」
「そうですか‥‥‥探偵さんも大変なお仕事ですわね。昨夜はすみませんでした。少し、疲れていたものですから」
「いいえ、別に気にしてません」
夫人は静かにソファーに腰掛けた。
「紀子から、あの後、連絡がありました」
「ひろみさんから伺いました。金沢にいるとか?」
「はい。金沢はあの子の本当のお母さんが生まれた所なんですよ」
「そうだったんですか‥‥‥」
「紀子はあなたの言った通り、月曜日に湯沢に来ました」
夫人は自分の手の平を眺めながら静かな声で言った。
「紀子が帰って来れば分かる事ですから、あなたに本当の事をお話します。でも、内緒にしておいて下さいね‥‥‥紀子が山荘に来た時、和雄さんが一人で留守番していました」
夫人は目をすぼめて顔を少し歪めたが、ほんの一瞬だった。また、すぐに落ち着いた穏やかな顔に戻った。夫人は話し続けた。
「和雄さんは紀子に乱暴しようとしたんです。もう少しで危ない所でした。でも、丁度、その時、わたしは気分が悪くなって山荘に戻ったのです。今思えば、虫の知らせがあったのかもしれません。紀子は助かりました。もう少しで危ない所だったのです。和雄さんがあんな事をするなんて‥‥‥わたしは彼に、もう二度とうちには来ないでくれと言いました。そして、彼は出て行ったのです」
夫人は優しく包み込むような目をして私を見ていた。子供のような綺麗な目をしていた。
「すると、上原さんはヨーロッパに行ったのではないんですね?」
「いえ、ヨーロッパに行ったと思います。電話は本当にあったようです。しばらく、北欧に行って、頭を冷して来ると言って出て行ったんです」
「そうですか‥‥‥その時、淳一さんは、そこにいたのですか?」
「いません。淳一はスキーをしていたはずです」
静斎夫人は日の当たっている絨毯(じゅうたん)をぼんやりと見ていた。彼女の顔には若い頃の美しさが残っていた。飾り気がなく、素直で、ごまかしのない美しさを持っていた。時と共に滅び行く一瞬の美しさではなく、時と共に生きている自然な美しさが漂い出ていた。
「紀子さんは何か聞きませんでしたか?」
夫人はゆっくりと頭を上げて、軽くうなづいた。
「あの子の母親を殺した犯人の事を聞かれました。でも、それは、私にも分かりません」
「奥さんと流斎さんはなぜ、村を出たのですか?」
夫人は目を伏せ、膝の上に重ねてある両手を見ていた。その手は、この屋敷にはふさわしくない程、荒れていた。
「兄は絵の勉強がしたかったのです。でも、親たちは反対しました。山の中の小さな村です。絵画きになると言ったところで誰も相手にしません。でも、兄には絵しかなかったのです。気違い扱いされながらも兄は絵を描き続けていました。親たちは絵をやめなければ勘当(かんどう)すると言いました。兄はうちを出る決心をしたのです。わたしもあの村は嫌いでした。わたしも東京に出てみたかったのです。それで、うちに先祖代々伝わっていた家宝を親たちに内緒で持って来てしまったのです。それだけですよ」
夫人は目を上げて私を見た。その目は何とも言えず、優しさに溢れていた。
「もし、差し支えなければ、その家宝とは何だったのか教えていただけませんか?」
「香炉(こうろ)です。先祖の方がお殿様からいただいたと伝えられていた香炉です。うちにある物のうちで、一番値打のある物だと思ったんです。それを売れば、東京に行っても何日かは生きて行けると思ったのです。ところが、思っていた程の物ではありませんでした。あの香炉はうちにあってこそ値打もありましたが、実際、価値のある物ではなかったのです。結局、売らずに、今もしまってあります」
静斎夫人はかすかに微笑した。その微笑は喜びと悲しみ、諦めと希望、すべての物が溶け込んでいる複雑で単純な微笑だった。
「そうですか‥‥‥よく、分かりました‥‥‥どうやら、私の仕事も終わったようです」
ひろみがコーヒーをお盆に乗せて、踊るような足取りで入って来た。急に、この部屋が賑やかになったような気がした。
「今日はいいお天気ですね」と夫人が明るい調子で言った。
「お母さんもコーヒー飲みます?」
ひろみが歌うように言った。美喜ちゃんの事から、もう立ち直っていた。
「いいえ、結構よ。さっき、お茶をいただいたわ」
ひろみは私の前にコーヒーを置いて、
「どうぞ」とよそよそしく言ったが、顔は陽気に笑っていた。
「もうすぐ、春ね」と夫人は言った。
夫人は優しく、ひろみを見守っていた。
「梅が咲きましたよ」とひろみは言って、夫人の隣に座った。
「うちにも、やっと、春が来そうだわね」
夫人が楽しそうに言った。
「隆二も、やっと、帰って来るようだし、紀子は立派な音楽家になったし、淳一も映画のお仕事、張り切ってやっている。ひろみさんも、うちの事をちゃんとやってくれるし、冬子さんもいい娘さんだわ。うちの人も最近は落ち着いて来たようだし‥‥‥やっと、春が来たようだわ」
「今度、みんなが集まったら、楽しく、パーティでもやりましょうよ」
ひろみが張り切って言った。
「そうね‥‥‥みんなが集まるなんて、何年振りかしら?」
夫人は楽しそうに笑った。
「お父さんとお母さんを真ん中にして、みんなで楽しく、お酒を飲みましょう」
ひろみも楽しそうに笑った。そして、目をキラキラさせて私を見ると遠慮がちに、
「あなたも来てくれるでしょ?」と言った。
「ええ、喜んで」と私も笑いながら言った。
「このうちは素晴らしいですよ。すべての芸術が集まってます」
「みんな、お母さんのお陰よ。いつも、一人で心配ばかりして来たんですもの」
「そうじゃないのよ。みんながやるだけの事をちゃんとやって来たからよ。私はそれをただ見て来ただけ」
夫人は色々な事を思い出しているかのように宙を見ていた。
「でも、私は一番、幸せだったのかもしれないわ」
ひろみも色々な事を思い出しているように夫人を見つめていた。私には二人が本当の親子のように見えた。
「ゆっくりして行って下さい」と夫人は優しく言って立ち上がった。
私は軽くうなづいた。
夫人は懐かしそうに庭を眺めてから、静かに部屋から出て行った。
「お母さんの苦労もやっと実った感じね」
ひろみがホールの方を見ながら言った。
「若い頃は凄く綺麗だったそうですね」
私はひろみのふさふさしたしっぽを見ていた。
「らしいわね。でも、いつも、日陰に咲いてた花だったみたいよ。若い頃にはお兄さんのために苦労して、結婚してからはお父さんのために苦労して、そして、子供たちのために自分を犠牲にして来たわ。女として当たり前の事かもしれないけど、お兄さんにしろ、お父さんにしろ、子供たちにしたって、みんな、一癖も二癖もある人ばかりでしょ。とても大変だったと思うわ。でも、苦労のしがいがあったわけよ。これからはお母さん、幸せになるわ」
ひろみはソファーの中で踊っていた。
「そうだな、芸術の陰に一人の女ありだな」
ひろみは笑った。彼女は何げなく、タバコセットに手を伸ばして蓋を開けたが、タバコは取らずに、また、蓋をしめた。
「この絵なんだけど」と私は流斎の絵を見ながら言った。
「えっ」とひろみも流斎の絵を見た。
「誰だか分かる?」
「奥さんらしいわよ。あたしは奥さんの事は知らないけど、娘さんが、その絵にそっくりよ」
「娘さん?」
「ええ。古山剛さんの奥さんよ。知ってる?」
私は思い出した。古山邸を訪ねた時、玄関に現れたキツネのような顔をした女だった。
「分かりました。この間、一緒にスキーに行ったでしょ?」
「そうよ。そっくりでしょ?」
「あの人が流斎さんの娘だったのか、知らなかった」
「古山さんは、あの人を息子さんのお嫁さんにして、流斎さんの遺産をそっくり手に入れたのよ」
「成程‥‥‥」
「ところで、あなたは、これから、どうするの?」
「静斎さんの仕事は終わりました。今度は、あなたの仕事です」
「上原君を捜すのね?」
私はうなづいて、手帳を見せた。
「上原君のキャビネットに並んでいた名前です。知ってる人はいますか?」
古山浩子は結婚前の尾崎H(浩子)という名前であった。ひろみはエスエスプロの吉野ゆかりも知っていた。最近、コマーシャルによく出ている人気モデルだという。加山Eは加山恵理子という女優で、上原の恋人らしい。テレビドラマに出ているらしいが、私は知らなかった。後は、紀子と美喜、そして、森村奈穂子を知っているだけだった。
「これ、みんな、彼にゆすられてるの?」
「そうとは限らない。あなたはゆすられてなかったんでしょう?」
「ええ」
「紀子さんがゆすられてると思う?」
「まさか‥‥‥」
「美喜ちゃんは?」
「美喜ちゃんじゃなくて、うちの人を脅してるのかもね」
「御主人を?」
「ええ。あの人、結構、気の小さい所があるから、ゆすられてるかもしれないわ」
ひろみは苦笑しながら私に手帳を返した。
「で、どうするの?」
「あなた次第です。彼が帰って来るのを待ちますか? ヨーロッパまで飛べと言えば飛びますが」
「そうね‥‥‥北欧は寒いしね。彼が帰って来るまで待とうか」
「待ちますか」
「帰って来れば、きっと、おみやげを持って、ここに来るわ。そしたら、改めて、お願いするわ」
「分かりました」
私はポケットから封筒を出して、ひろみに渡した。
「何?」
「請求書です。奥さんに渡しづらかったので、後で、静斎さんに渡して下さい」
「分かったわ。あたしの分も入ってるの?」
「いえ。あなたの場合は写真を手に入れた時にいただきます」
「そう‥‥‥」
ひろみは私の顔を見て笑っていた。
私はひろみに玄関まで見送られて、静斎の屋敷を出た。ひろみはただ、さよなら、と言っただけだった。私はひろみに何かを言いたかったが、フランス映画のような気の利いたセリフは浮かんで来なかった。ただ、軽く手を振っただけで、ひろみと別れた。
玄関のドアが閉まった。
私は野良犬になった気分だった。この大きな屋敷に住んでいる人間とは、まったく縁のない、ただの野良犬に過ぎなかった。
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