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08.消えた気まぐれ天使 [蒼ざめた微笑]

Francesco Biasia A76504/BK


 電話のベルで起こされた。

「朝ですよ、日向さん、起きて下さい。勝俊さん、朝ですよ」

 冬子の声だった。

「モーニング・コールを頼んだ覚えはないぞ」と私は寝ぼけた声で言った。

「なに言ってんです。必ず、七時半に起こしてくれって言ったくせに」

 そんな記憶はなかった。

「あっ、覚えてないんでしょ?」と冬子は笑った。

「君をタクシーに乗せた所まで、ちゃんと覚えてるよ」

「なに言ってんです。あなたは強引にあたしをうちに連れて行こうとしたんですよ。あたしは振り切って逃げて、タクシーに乗ったんじゃないですか」

「俺は君に何かしたのか?」

「無理やり、キスしました」

「それで?」

「体にもさわりました」

「そうか、きっと、君が可愛い過ぎたんだよ」

「お陰で、あなたという人がよ~く分かりました。奥さんが逃げて行った訳がよ~く分かりました」

「何だと? そんな事まで喋ったのか?」

「未だに、未練があるんですね。泣いてましたよ」

「嘘つくな」

 冬子は笑っていた。

「お仕事ですよ」

「分かってるよ」

「そうじゃないんです。さっき、静斎先生から電話があって、あなたに、うちの方に来るようにって」

「何だって?」

「紀子さんがいなくなったらしいの」

「何だって?」

「紀子さんがいなくなったんですよ。あなたに捜して欲しいんですって」

「いつから、いないんだ?」

「分からないわ。とにかく、うちの方に来てくれって言ってました」

「分かった」

「ねえ、先生のうちに行く前に、あたしのとこに寄って。あたしも心配だから、一緒に行きたいの」

「すぐ行くよ。ベッドの中で待っててくれ」

「まだ、酔っ払ってるの? このすけべ」

 電話は切れた。

 私は思い出していた。冬子の言った通り、そんな事をやったような記憶がかすかに残っていた。

「なんてこった」と私は受話器を置いた。

 今日は東山を捜し出すつもりだったのだが、まあ、いいか。紀子もすぐに見つかるだろう。東山は明日でも間に合う。

 私は熱いシャワーを浴びて、タバコ二本とブラックコーヒーを二杯飲んでから、ジープに乗って出掛けた。

 静斎の屋敷は相変わらず静かだった。広いガレージには赤いボルボと泥だらけのシルバーグレイのジャガーが並んで置いてあった。あと一台空いているスペースには、きっと、黒光りしたロールスロイスのリムジンが納まるのだろう。

 冬子が玄関のベルを押した。そして、私の顔を見ると、すけべ、と言って鼻を鳴らした。これで、十一回目だった。私はただ、うなづいた。

 ドアが開いて、品のいい顔付きの中年の女が現れた。静斎よりずっと若く見える。この屋敷には似合いそうもない地味な格好をしていた。どこにでもいる、おかみさんと変わりなかった。ただ、上品な顔付きと、落ち着いた物腰から漂う雰囲気は、この屋敷の奥様という感じがした。

 応接間に通された。静斎はいなかった。二階から、この前のようにピアノが聞こえて来るような気がしたが、ひっそりと静まり返っていた。

「うちの人は心配しすぎるのよ」と静斎夫人は言った。

「紀子だって、もう大人です。そのうちに帰って来ますよ」

「前にも、よく、無断で、うちを出る事があったのですか?」と私は尋ねた。

「あの娘は音楽に夢中なんですよ。曲を作る時なんか、フラッとうちを出てって、どこか、よその土地でイメージを膨らませるらしいの。そして、また、フラッと帰って来るんですよ。今度もきっと、それですよ。このうちの連中は、みんな、気まぐれなのよ。常識では、とても考えられないわ」

 少々、愚痴っぽく聞こえた。一緒になって以来、静斎の気まぐれに手を焼いて来たのだろう。お茶を入れて来ると言って、夫人は出て行った。

 冬子は大好きなモディリアニの絵の前に立って、じっくりと観察していた。

「この人、モディリアニの奥さんでしょ?」

「らしいね。今日はミニスカートはやめたのか?」

「あなたがすけべだからよ」

「ジーンズよりミニスカートの方が似合うよ」

「ありがとう。ほんとは水着の方がもっと似合うの。でも、あなたには絶対に見せません」

「残念だな。夏になったら、海に連れてってやろうと思ってたのに」

「結構です」

 手に負えない非常識家が沈んだ顔をして、音もなく入って来た。夫人とは違って、本当に心配しているようだ。これも、気まぐれの一種なのだろうか?

「冬子も来たのか」と静斎は私の向かいに腰を下ろした。

「ええ、心配だったので‥‥‥」

 冬子は私の隣に座った。

 静斎はタバコセットから、タバコを一本つまむと口にくわえた。

「紀子さんは、いつからいないのですか?」

「それが、わしにも分からんのじゃ」

 静斎はタバコを指でもてあそびながら、怒っているような口調で言った。

「昨日(きのう)の夜は『オフィーリア』にも現れんし、うちにも帰って来ない。いつもなら、必ず、連絡くらいするはずじゃ」

「一昨日(おととい)の夜はどうです、店に出ましたか?」

「月曜はあの店は休みじゃ。一昨日は、わしはこっちに来なかったので紀子には会っていない」

「それじゃあ、最後に紀子さんを見たのは日曜の昼前ですね?」

「ああ、そうじゃ。お前と一緒にここに来た時、最後にあれを見た。あの日はちゃんと店にも顔を出している」

 静斎夫人がお茶を持って入って来た。

 静斎は持っていたタバコに火を点けた。

「どうぞ、召し上がって下さい」

 冬子が礼を言って、お茶菓子に手を出した。

 私もタバコに火を点けた。

「湯沢から買って来たお菓子よ。あっ、そうそう、冬子さんにもおみやげがあるのよ。後であげるわね」

「どうも、すみません」

「湯沢はよかったわよ。冬子さんも一緒に来ればよかったのに。楽しかったわ。今度、一緒に行きましょうね」

「はい」

 冬子から私に視線を移すと、「心配する事はありませんよ」と夫人は言った。

「紀子さんの車があるようですが、車で出掛けたのではないのですね?」

 どちらともなく聞いてみた。

「らしいな」と静斎が言った。

「また、海外に行ったのかもしれないわね」と夫人が付け加えた。

「えっ、海外?」と冬子が私の代わりに驚いてくれた。

「前にもありましたわ。何も言わないで、うちを飛び出して、連絡もないので心配してると、朝早く電話して来て、今、アメリカにいる。二週間位、こっちにいるから心配しないでなんて言うのよ。まったく、呆れて物も言えなかったわ」

 私も呆れて物が言えなかった。気まぐれもここまで来れば大したもんだ。

「でも、海外に行くとなれば、準備とか荷物とか色々あるでしょ?」

「普通の人なら、そうでしょう。でも、あの娘は普通じゃないの。ハンドバック一つを持って、気が向けば、どこでも行っちゃうのよ。いつも、パスポートとドルだけは持ち歩いているらしいわ。まったく、何を考えてるんだか、私にはちっとも分かりゃしない」

 私も旅行は好きだが、パスポートと金だけで旅をした事はない。また、そんな奴にもお目にかかった事もない。みんな、不必要な物をかなり持って、重たい思いをして移動している。確かに、パスポートと金を持っていれば旅はできる。日用品など、どこに行ったって買う事はできる。しかし、海外に行くとなると皆、一応は色々と準備をする。隣の町にでも行くように、気楽な気持ちで海外まで行くとは大した女だと感心した。紀子がそんな女だったとは、まったく、予想外な事だった。

「アメリカに知り合いでもいるんですか?」と私は訊いた。

「いるらしいわね。紀子は二年間、アメリカに留学してたんですよ」

「音楽で?」

「そうです」

 冬子は熱心にお茶菓子をかじっていた。私の視線に気づくと、ニコッとして、「これ、うまいわよ」と言った。

 やはり、紀子は音楽に夢中になっている、ただの金持ちのお嬢さんではなかったようだ。私はすっかり、紀子の事を見直していた。

「という事は、気の向くままで、どこに行くのか、まったく分からないのですね?」

「ええ、分かりません。今の所、宇宙まで飛んで行く事はないと思いますけど」と夫人は笑いながら言った。

「しかし、二日も連絡がないのはおかしい」

 静斎が夫人の冗談をとがめるように言った。

「そのうち、連絡して来ますよ」と夫人は静斎に言った。

「私はちょっと買い物に行って来ます。留守の間、何を食べてたのか知らないけど、冷蔵庫の中は空っぽですよ。いいですわね」

「ああ、好きにしろ」

 静斎は夫人の方を見ずに、タバコを灰皿で潰した。

 夫人は、失礼しますと頭を下げてから出て行った。少しも心配している様子はなかった。

「あいつはのんびりしすぎる。昔からそうじゃ。反応が少し鈍いんじゃよ。紀子の身に、もしもの事があったらどうするんじゃ」

 静斎は独り言のように呟いた。

「何かある可能性でもあるのですか?」

 静斎は不思議そうに私を見つめた。初めて、私を見たというような顔だった。

「そんなものはない‥‥‥ただ、心配なんじゃ」

 灰皿から細い煙がすじになって昇っていた。私は自分のタバコで、その煙を消した。

「紀子さんが行きそうな所は当たってみましたか?」

「ああ、ビーチハウスと山荘にはいなかった。平野君にも聞いてみたが、日曜の夜以来、会っていないと言った」

「山荘にはまだ、誰かがいるんですか?」

「淳一がいる。わしの長男じゃ。映画の脚本を書いてるらしい」

「ビーチハウスとは?」

「鎌倉のはずれにある奴じゃ。紀子はよく、そこで作曲をする。あそこにもピアノがあるんでな。今朝、電話してみたが誰も出なかった」

「紀子さんは携帯電話を持ってないのですか?」

「持っている。だが、車の中に置きっ放しじゃった」

「普段、持ち歩かないんですか?」

「邪魔になるんじゃろう。作曲する時は持ち歩かないようじゃ」

「そうですか‥‥‥紀子さんの友達の住所とか御存じありませんか?」

「平野君なら分かるじゃろう」

「それと、紀子さんの写真を一枚、貰いたいのですが」

 静斎はうなづくと部屋から出て行った。

 冬子は一人でお茶菓子を平らげていた。

「紀子さん、アメリカに行ったのよ」と冬子は言った。

「よく食うな」と私は言った。

「だって、おいしいもの」

「太るぜ」

「大丈夫よ」

「隣の部屋は何なんだ?」

「書斎よ。シナリオ・ライターの淳一さんが使ってるみたい」

「アトリエじゃないのか?」

「アトリエはこっちよ」と冬子はモディリアニが飾ってある壁を示した。

「へえ、向こうか‥‥‥そこから、数々の名作が生まれたのか」

「そうみたい。でも、最近はビーチハウスの方で描いてるみたいよ。それより、紀子さん、どこに行ったと思う?」

「まだ、地球上にいるさ。スペース・シャトルにはそう簡単には乗れまい」

「よくそれで探偵が勤まりますね。車があるって事は車で行けない所に行ったのよ。だから、海の向こう。その位の推理、働かせなさいよ」

 静斎が戻って来た。

 写真の中の紀子は白いブラウスに黒のジャケットを着て、左手にワイングラスを持って、軽く笑っていた。

 平野雅彦の住所の書いてある紙切れと写真をポケットにしまって、冬子の「頑張ってね、おじさん」の声に送られて、私は静斎宅を出た。

 灰色の雲が空一面をおおっていた。


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by magazinn55 (2007-08-22 12:36) 

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