01.東山は名探偵 [蒼ざめた微笑]
その年の二月は寒くなったり、暖かくなったり、気まぐれな天候だった。雪も例年に比べて、やけに多かった。
私は毎日、事務所で退屈していた。
天候に関係なく、懐具合は寒かった。世間は不景気になり、余計な出費を控えている。さらに、長野ではオリンピックをやっていて、皆、テレビにかじりついている。私に仕事を依頼する奇特なお客様は一人もいなかった。このまま行けば干乾しになってしまう。春になったら、転職しようかと本気で考えていた。
舞台の幕開けを知らせる電話が鳴ったのは、二十日の金曜日の一時過ぎだった。ラジオではノルディック複合団体の距離競技をやっていた。五位でスタートした日本は一番手の荻原次晴が二人を抜いて三位と健闘している。結果が分かるまでは仕事をしたくなかった。
私は電話を取った。その時は、つまらない電話だと思っていた。だが、後で考えると、それが事件の始まりだった。
「もしもし、日向探偵事務所でしょうか?」
電話の声は若い女のようだった。
「はい。日向探偵事務所です」
「失礼ですが、そちらに東山さんという調査員の方はいらっしゃいますか?」
女の声は事務的だったが、感じの悪い声ではなかった。
「いえ。そういう者はおりませんが」
「そうですか。申し訳ありませんでした」
「いいえ」
「あの、探偵の方で東山さんという方を御存じありませんか?」
「さあ、東山なんて聞いた事ありませんが」
「そうですか、失礼いたしました」
「あの。もし、その東山という探偵をお捜しでしたら、私がお捜ししましょうか?」
返事はなかった。すでに、電話は切られていた。
私は切られている電話に向かって、何かを言おうとしたが、何も思いつかず、「くそったれ」と言って受話器を置いた。
昨夜、飲み過ぎたようだった。昼を過ぎても頭が冴えない。気の利いたセリフが浮かんで来なかった。ブラックコーヒーを入れ、タバコに火を点け、ラジオの中継に耳を傾けた。
金メダルを手にしたのはノルウェーだった。残念ながら日本は五位に終わった。
競技が終わるのを待っていたかのように、お待ちかねのお客がやって来た。荒々しくドアが開いたと思ったら、人相の悪い大男がのっそりと入って来た。あまり、歓迎のできる客ではなさそうだった。
「おい、東山はいるか?」
大男は私を睨みながらドスのきいた声で吠えた。二メートル近くあるプロレスラーのような大男だった。髪は黒く光り、分厚い茶色いコートを着て、白と茶色のコンビのバカでかい靴をはいていた。
大男の回りには、やたらクネクネして部屋を見回しているチンピラが三人いる。皆、髪を派手に染め、黒いサングラスをかけている。耳にいくつもピアスを付け、ダブダブのジーンズにナイキをはいて、擦り切れた革ジャンの襟を立てていた。
大男はソファーにふんぞり返り、野球のグラブのような手袋をはずすと、茶色くて長いタバコをくわえた。すかさず、チンピラが妙に長細いライターで火を点けた。大男は煙を吐きながら私を睨むと、もう一度、「東山はいるか?」と聞いた。
「見た通り、東山という奴はここにはいない」
私はラジオのスイッチを切って、両手を広げた。
「日本は残念だったな」と大男は言って顔をひきつらせた。もしかしたら、笑ったのかもしれなかった。
「メダルは取れなかった」と私は答えた。
大男はうなづくと、壁に飾ってある小さな油絵を眺めた。
「東山という探偵を知ってるか?」
油絵を見つめながら大男は聞いた。なかなか、真剣な目付きだった。この大男に絵は似合わないが、案外、絵画鑑賞の趣味を持っているのかもしれない。
「その東山というのは何者だ?」
私もその絵を見ながら聞いた。
「質問してるのはこっちだ」
大男はまた、冷たい目で私を睨んだ。
チンピラたちがニヤニヤしながら、ウロウロしていた。大男の命令一つで、この部屋はメチャメチャになるのだろう。チンピラたちは部屋の中を見回し、何を壊すか物色していた。
「知らん。聞いた事もない」
私は何が起こっても、すぐに対処できるように座り直した。
「隠してねえだろうな?」
大男は部屋の中を見回し、壁際に並ぶファイルキャビネットで視線を止めた。私がその中に東山を隠しているかもしれないと疑っている目付きだった。
「本当に知らない。さっきも東山はいないか、と電話があったが、東山とは何者なんだ?」
「知らなければ、それでいい」
大男は大きな鼻の穴から勢いよく煙を吐くとタバコを揉み消した。
「儲かるか?」
「いや」
私がタバコをくわえると左側にいたチンピラが自慢のライターで火を点けてくれた。なかなか、気の利く奴だ。サングラスを口にくわえた、その顔を見ると、まだ、十七、八のガキだった。
「わるいな」と言うと、ニヤッと笑って、ライターを私に見せびらかした。そのライターは値打ち物らしいが、私にはその価値が分からなかった。
「その東山とやらを捜してやってもいいぞ」と私は大男に言った。
「ほう。おめえにできるかね?」
「もう少し詳しく聞いてみなけりゃ分からない。やばい仕事は引き受けないがな」
「やべえ仕事か‥‥‥」
大男はまた、タバコをくわえた。チンピラは素早く、火を点けようとしたが、大男に殴られた。
「くわえてるだけだ」
「へい、すいません」
「やべえ仕事じゃねえ。東山から、ある物を取り戻すだけだ」
「ある物? やばそうだな」
「おめえは何か勘違えしてるようだな。わしらは、ある芸能プロの者だ。うちの売れっ子モデルの一人が、その東山に弱みを握られた。その事について、今日、話を付けるはずだったが、奴は逃げやがった。それで、捜してるのよ」
「成程、芸能プロね。すると、こいつらも芸能人の卵ってわけか?」
「そうさ。さすが、探偵だけあって見る目があるじゃねえか」
チンピラの一人が踊りながら言った。踊りは下手くそだが、一応、華麗なる夢を持ってるようだ。
「どうして、ここに来たんだ?」
「東山という名前だけで、何の手掛かりもねえ。電話帳で調べたが分からねえ。それで、興信所を当たってるんだ」
「それじゃあ、さっきの電話もあんたたちかい?」
「そうだ。東山という名も偽名かもしれん。東山に日向、少し似てるんでな、もしかしたらと思って来てみたんだ」
「東山と日向ねえ‥‥‥しかし、その名前が偽名だとすると、手掛かりは何もなしという事だな?」
「今のとこはな」
「どんな男なんだ、東山という奴は?」
「はげ頭にチョビ髭のある四十前後の冴えねえ野郎だ」
大男はチンピラの方にくわえたタバコを差し出したが、チンピラは気付かず、また殴られていた。
「それだけの手掛かりで捜すつもりなのか?」
「そうだ」
「そいつは、どんな名探偵でも無理だ」
「かもしれんな」
大男は煙を吐きながら、また、油絵を見ていた。森の中の妖精を描いた幻想的な絵だった。
「弱みを握られたというモデルに会わせてくれたら、その男を見つけられるかもしれんが」
大男は私の方を向くと大袈裟に笑った。気味の悪い笑い方だった。
「そいつは無理ってもんだ。探偵などにウロウロされたら、つまらねえ噂が立つ」
「それじゃあ、話にならん」
「おめえに捜してくれとは頼んじゃいねえ」
「残念だな」
東山について何か分かったら知らせてくれ、それ相当の御褒美を出すと言って、大男は名刺を置いて帰って行った。三人のチンピラもニヤニヤしながら、一応、礼儀正しく頭を下げて出て行った。
大男の置いて行った名刺には浜田昇という名前と電話番号しか書いてなかった。私はその名刺の裏に、東山、はげのチョビ髭、モデルを恐喝と書いて、机の引き出しにしまった。
窓から下を見ると黒塗りのベンツに大男が乗り込むところが見えた。また、何か失敗をしたのか、一人のチンピラが殴られていた。ベンツは都心の方に去って行った。
私は引き出しから、大男の名刺を出すと、その電話番号にかけてみた。
「エスエスプロでございますが‥‥‥」
大男が来る前に、東山はいるか、と聞いた女の声だった。
私は少し声を変えて、
「浜田さんはいますか?」と聞いた。
少々、お待ち下さいと言った後、ただ今、外出中でございます、と女は言った。
「東山はいますか?」と聞くと、驚いたように、どちら様ですか、と聞いて来たので、電話を切り、名刺にエスエスプロと書き加えた。
電話が鳴った。
男の声で、東山はいないか、と聞いて来た。いないと言うと、何も言わず、電話は切れた。今の声は、勿論、あの芸能プロの大男ではない。東山を捜している、もう一人の男だった。
五時になり、事務所を閉めようとした時に、今度は、おどおどした女の声で、やはり、東山はいるか、と聞いて来た。いない、と言うと、がっかりしたような声で、失礼しましたと電話を切った。
「一体、どうなってんだ?」と私は言った。
「東山という野郎はそんなに頼りになる探偵なのか?」
東山に何かを頼めば、奴は何でも解決してくれる。きっと、金田一少年のような名探偵に違いない。
「東山君、後はよろしく頼むぜ」と言って、私はコートをはおると事務所を後にした。
外は冷たい雨が降っていた。
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