SSブログ

違和感への手がかり [よしなしごと]

TAKESANさんのくおりあと云うエントリ経由で、双風舍サイトで「脳は心を記述できるのか」と云う連載が始まったことを知った。斎藤環と茂木健一郎の往復書簡による対話を連載していこう、と云う企画らしい。その1回目、斎藤環による最初の書簡、第1信  「価値のクオリア」は存在するか?(斎藤環)を読んで、いまちょっとわくわくしている。

ぼくの茂木健一郎に対する興味は、まずなによりもこれほどその言説が世間に求められている、というところにある。いま、おそらく「彼の語ること」は「みんなが聴きたいようなこと」なのだ、と思う。で、彼が語っているようなこと(内容でなく対象)についてはなるほどぼくもとても関心があるし、それらについて何らかの腑に落ちるような知見を提供してもらえるのならとても嬉しい。でも、変な話だけど、どうして世間のみんながそれらについて同様に関心を持っているのか、がよく分からなかったりするのだ。

で、じゃあどうしてその著書になかなか触手が動かないかと云うと、要するに彼の扱う題材に対する彼の各所での発言がまったく腑に落ちるものではない、と云うところにある。なんと云うか、「科学に基づいたすっきりした説明」をしてくれている気がさっぱりしないのだ。この辺の違和感については少し前の「音楽を『考える』」についてのレビューでも書いた。彼がそう云う語り方をするのは、ぼくたち知的能力に劣る一般大衆に理解できるような水準でかみくだいているからなのか、それともまた別の戦略があるからなのか、その部分がどうしてもひっかかっている。

で、そう云う語り方のせいか実際のところ(表面的な部分だけではなくて)彼が何を伝えたいのか、と云うことを上手に掴むことができなくて、多分そのせいで「じゃあ俺は彼の云っている内容のどこにこれだけの違和感を感じているのか」と云うことも把握できなくて、変な話だけど随分もどかしい思いをして来た。

双風舍での連載1回目で、斎藤環はその部分を見事に言語化してくれている。

 ところで、私の感ずる疑問の第一は、まさにこの「クオリア」という概念にきわまります。
 「クオリア」を肯定することは、「この私」のゆるぎなさを肯定することです。
 「この私」という立脚点を肯定することなしに、クオリア概念をつきつめて考えることはできない。言いかえるならば、クオリアについて考えることが可能であるためには、認識の主体である「この私」の肯定、すなわち実体化が前提となるのではないでしょうか。
 私の懸念は、もはやおわかりでしょう。私は、懐疑する能力こそが、倫理の前提であると考えています。しかし、クオリアの全面肯定は、はっきりと「懐疑する心」に対立します。
 私が懸念するのは、茂木さんがクオリアを私秘的なものであるとしながらも、どうやらそれを価値判断の根拠に据えたそうな身振りがかいま見えることです。
 人が倫理や美を認識しうるのはなぜか。それは、脳に倫理や美を感知する中枢があらかじめ存在するから。ひょっとすると茂木さんは、そのようにお考えではないでしょうか。
 ならば、そうした中枢の存在はどのようにして証明されますか? 倫理や美の刺激に接したときだけ、発火するニューロンを見つければいいのでしょうか。だとすれば、美の中枢が見いだされる以前に、倫理や美の判断が、あらかじめなされていなければなりません。すると「本当の判断」をくだしているのは、いったい「誰」なのでしょうか?
 失礼ながら、茂木さんの言説がしばしば危ういものに思えてしまうのは、茂木さん自身の意識はどうあれ、世間は茂木さんに「新しい価値を説く人」を見ているように思われるからです。すくなくとも、茂木さんの読者の大多数は、茂木さんがその華麗な身振りで、脳と価値観を結びつけてくれることを熱心に期待しているはずです。あるいは茂木さんは、まったくそのような自覚をお持ちではないのでしょうか。

引用の羅列で我ながらどうかと思うけれど、なんと云うか、ぼくがひっかかっていた部分が正確な、過不足ない疑問として呈示されている。
で、みもふたもない云い方をしてしまうと、ぼくが茂木健一郎に感じていた違和感は、一連のニセ科学に感じていた「なんかへんだぞ感」に非常に近いものだ、と云うのが分かった(これはもちろん、ストレートに茂木さんの脳科学がニセ科学である、と云う意味ではない。ないけど、ぼくのなかにあるなけなしの常識が類似したアラートを発している、と云うことではある)。

これ、往復書簡だってことは、このエントリに茂木さんのお返事が来る訳で、なんと云うかちょっとwktkな気分だったりする。先にも述べたけれど茂木さんの扱っている対象そのものは長年の関心事に近い部分なので、斎藤さんに対する回答を踏まえることによって、ぼく自身茂木さんの言説に有効に接するための角度を決めることができるかも知れない、みたいな部分で。

ところで多分名前を知っているくらいだから斎藤環の著書も1冊くらいは読んでいるんだろうけど思い出せない。ちょっとおこづかいを貯めて買ってみようかな(ちなみにラカンははたち前後に「現代思想」の特集号を買って来て理解しようとして挫折した記憶がある。もうすこし分かりやすいといいな)。


nice!(0)  コメント(30)  トラックバック(2) 

nice! 0

コメント 30

亀@渋研X

実は「第1信」をちらっと読んだものの、そのまま放置していました。
今思い返すと、よくわからないながらも「なんか、茂木さんから肩すかしな返信が返って来て、そのまま進みそう」などと不届きな感想を抱いてしまったためもあります。
その意味では、直球の返信が返って来たら第1信を一所懸命に読み返しそうです。

ところで、斎藤環さんのお名前、ぼくはゲーム脳批判(ゲームマン氏によるインタビュー)で初めて知ったと思っていたのですが、過去の仕事なんかを見ると、どうもそれ以前から彼の書いたものやインタビューなどはネットや雑誌などで見ていそうな気もしています。
http://homepage3.nifty.com/tamakis/%8D%D6%93%A1%8A%C2/papers.html
乱読していると、どこで出会ったのか記憶に残らないことってありますね(汗
by 亀@渋研X (2007-06-02 08:24) 

pooh

> 亀@渋研Xさん

肩すかしはいかにもありそうです。でも、斎藤環さんはその肩すかしをかわすことに「往復書簡」と云う方式の利点を見いだしているようなので、そのまま進む、と云うのは回避しようとしてくれるのではないでしょうか。対談ではごまかされてしまうように感じられているので、まとまった議論を提出できる形式を選んでいる、と云うか。
直球の返事が返せなかったら茂木さん(とその「脳科学」)の馬脚が現れる、と考えてもよさそうです。そうじゃないことを期待したいのですが。
少なくとも戦略と、その意図は分かる。で、この第一信の勢いなら、斎藤さんは茂木さんのミスティフィカシオン(と云う戦術に出てくるかどうかはまだ分かりませんが)にびしばし突っ込んでいってくれそうな気がします。

なんか、漠然とその存在を知っている論者っていますよね。この方もそれに近いなぁ。
by pooh (2007-06-02 08:38) 

内海

まあ茂木氏が直球の返答を返す可能性は私も低いと思います(^_^;)
山形浩生が「CUT」の書評で茂木氏の著作に対して、クオリアがどう人間の意識に関係しているかどこまで読んでもハッキリしないと書いてから10年近く経っていますが、今の彼の主張はその頃からほとんど変わっていない訳で。
正直な話、茂木氏自身まだ具体的なクオリアと意識、脳との関係性を見いだせないまま一般層の知名度だけが上がってしまい、そこに対するアピールも含めた分かり易い言説(クオリアや自身の脳科学の理論の知見では無く、アハ体験などの脳トレ的なお話)を大量に生産しているのが今の現状ではないのかな、と。
私自身はどちらかといえば還元主義者なので、人間の意識は脳科学や生物学の研究で解明され、脳への様々なアプローチにより欲望の抑制や自分や他者の性格を変える事も出来るようになると考えているんですが(poohさんはこういう還元主義的な考えはお嫌いだろうなとは思いますがf^_^;)
by 内海 (2007-06-02 18:06) 

きくち

茂木さん自身の話は、だいぶ以前、まだこれほどメディアに出る前に集中講義でまとめて伺ったことがあります(来てもらった)。話はそれから本質的に進んでいないのではないかという気がします。
僕は「クオリア」というのは説でも理論でもなく、問題提起ないしは問題設定なのだろうと考えています。すくなくとも、「クオリア」と言われても、何かがわかった気にはならない。もっとも、すぐに「わかった気」になれるような理論がこの分野で出てくるとは思いませんが。

その点、認知の面白さを感じさせてくれるアハ体験はよいね
by きくち (2007-06-02 22:08) 

pooh

> 内海さん

でも、斎藤環の投げている球種はわれわれギャラリーにもしっかり見えている訳で。バッターボックスでどうふるまうか、はみられる訳なので、そうすれば意図が分かる。意図が分かれば、彼の言説をどう捉えるか、の角度を決められる訳です。知名度が上がってしまったので言説がコントロールできなくなっている、と云うほどナイーブな方ではないでしょうし。

> 人間の意識は脳科学や生物学の研究で解明され、脳への様々なアプローチにより欲望の抑制や自分や他者の性格を変える事も出来るようになると考えているんですが

この部分でなにか分かれば、それは有用だろうなぁ、とぼくも思ってはいるんですよ。

ちなみに還元主義的な発想が嫌い、って云うことはないですよ。そこで終わってしまって、ホリスティックな「常識」レベルへのフィードバックが発生しなかったりすると、「なんだかなぁ」とは思いますが。
by pooh (2007-06-03 05:17) 

pooh

> きくちさん

なんか、そう云う位置づけの概念である「クオリア」って言葉がこう云う流通のし方をしてること自体、流通元の茂木さんがどんなふうに考えているんだろうなぁ、とかちょっと考えたりもして。本来まだ語り得ないことを語るための語彙に使われてるんじゃないか、みたいな。

> その点、認知の面白さを感じさせてくれるアハ体験はよいね

うん、ぼくもそう思う。と云うか、ぼくらの日常の営みにフィードバックできる成果としては、そちらのほうが言うような気がします。

例えば少し前に経営学者のfuku33さんと「地域の特性を経済的なレントに変えるためのブリコラージュ」みたいな話をしてたんだけど、多分この発想に「技法としてのセレンディピティ」って云うのを取り入れることができればいいだろうなぁ、みたいに思ったりする部分があって。そんな辺り。
by pooh (2007-06-03 05:25) 

pooh

言うような、って。
有用な、のtypoですがな。どうしちゃったことえり。
by pooh (2007-06-03 11:53) 

newKamer

 茂木さんにはオカルトアンテナ(オカルトや疑似科学系の話題を聞くと論理より前にビビビと反応する)が立つよね…というのは、言っていいことなのか、どうなのか分からなかったのですが(笑)poohさまが同じような感覚を持っていたということで、ちょっと安心しました。

 ちなみにラマチャンドランにもちょっと立ちます。多分、脳の高次機能研究というのが、物理学で言えば未科学レベルにあるのが原因だとは思うのですが。
by newKamer (2007-06-04 11:13) 

柘植

こんにちは、皆さん。

少しピンボケかも知れませんが、私は「脳というハードウェア」を幾ら見ても、「文化というソフトウェア」は語れないと考えて居ます。クロマニヨン人が出てきた段階で、ハードウェアはできたけど、倫理というものも含めた「文化」は長い時間かけて、そのハードウェアの上に構築されてきたのだろうと思います。

上の方にtypoの話が出ていますが、20年以上前に、米国で「日本人は、アルファベットに対応したキーボードで漢字の入った文章を作るというが、私にはどうしたらそんな事ができるのか理解出来ない」と言われた事があります。タイプライター型配列のキーボードというのは、少なくとも表音文字であるアルファベットに対応していますし、たとえ漢字が表意文字であっても対応する音はもっているから、表音文字の入力を通じて表意文字を表すことは可能です。つまり、ハードウェアとしてのキーボードは「表音文字を入力するする機能」のみを示しておりハードウェアのみを幾ら解析しても「表意文字入力する機能は見あたらない」訳です。しかし、パソコンに表音文字だけでも入力する機能がもし無かったなら表意文字を入力する事はできませんから、かな漢字変換というソフトウェアが動くために、キーボードという入力機構は必要である事も事実ですね。

私には「脳でわかる」と言っている人たちが、この「キーボードが無ければ仮名漢字変換ソフトは動かない」という事を言うことで、あたかも「キーボードさえあれば仮名漢字変換はできる」と「言い過ぎてしまっている気がするわけです。複雑なソフトウエアとしてのフロントエンドプロセッサの働きを「複雑だから自分に理解出来ない」とせずに、「キーボードが日本語入力に使われているのだから、キーボードさえ解析すれば日本語入力のしくみは分かる」と言っている感じをうける訳です。
by 柘植 (2007-06-04 14:26) 

NO NAME

「認識と行動の説明原理として、現時点での「脳科学」は「精神分析」とそれほど隔たりはない。あるいはひょっとすると「スピリチュアリズム」とも(笑)。いずれもさしあたっては、仮説と解釈の集積にすぎません。おそらく私の予測では、この状況はあと50年くらいは変わらない。」

『認識と行動』『仮説と解釈』の定義がきっちりしてないせいで言い逃れされる余地はいくらもありますが、30年後にはがらりと変わっている、に500,000ガバス。今から50年前というと、ちょうどスペリー、ヒューバー、ウィーゼルの時代です。
http://nobelprize.org/nobel_prizes/medicine/laureates/1981/index.html
解明するのが「美や倫理」じゃなくて『認識と行動』ですからね。今は分子生物学の方法を応用することによるブレイクの前夜だと思います。20~30年経ったら、poohさんは私のこの予言を思い出してください。

「ニューラル・ネットワークのなかに「主体」が位置づけられてしまうことは、別のかたちでの「主体の死」なのではないか。」

これはたぶんそうなるのではないでしょうか。メカニスムが明らかになっても、説明される現象が今あるものと別な姿をとることはないでしょうから。
ただ、誰の目にも「主体の死」が明らかになった時、人間の尊厳というようなものがどう評価されるようになるのか、あるいはそんなものは消えてしまうのか、関心を持ちます。そっちの方へ往復書簡の話がつながってくれるといいなあ、、、という勝手な注文。
by NO NAME (2007-06-04 19:14) 

ちがやまる

すみません。さっきのに名前を入れませんでした。
by ちがやまる (2007-06-04 19:16) 

pooh

> newKamerさん

茂木さんの言葉は「脳科学者の言葉」だから受け入れられている側面がある訳で。そこだけ捉えると、見聞きする範囲での彼の言動はニセ科学と同じ構造を持っていると云う気がします。
by pooh (2007-06-04 21:55) 

pooh

> 柘植さん

ぼくも本質的には「文化というソフトウェア」を扱う側である文科系の人間なんで、「そんなものハードウェア側のアプローチから分かるもんか」で切り捨てられれば楽だろうな、と思うんですよ。でもそれじゃ、人文「科学」じゃなくて。ハードウェアの仕様をちゃんと把握したうえで、その上で走るソフトウェアを論議しないと、なんでもかんでも「感性」とか云って特権化してしまう連中と変わらなくなってしまう。

所詮キーボードはデバイスに過ぎなくて。でも、デバイスの仕様は明らかにして欲しい訳です。そうすれば、そこを踏まえることができる。
by pooh (2007-06-04 22:01) 

pooh

> ちがやまるさん

おっしゃることは刺激的ですね。SF者の血が騒ぎます。
でも、30年くらいじゃなんともならない(問題のかたちは変わっても、本質的な問題は残る)の方に同じだけ賭けましょうか。

でも、茂木さんはクオリアを「美や倫理」の説明原理でもあるように扱っていませんか?
by pooh (2007-06-04 22:04) 

柘植

こんにちは、poohさん。

>所詮キーボードはデバイスに過ぎなくて。でも、デバイスの仕様は明らかにして欲しい訳です。そうすれば、そこを踏まえることができる。

実際のところは、キーボードというハードウェアの上にキーボードドライバーというOSレベルのハードウェアと密接な関係を持つ基本ソフトが載っていて、その上に「かな漢字変換」というソフトウェアが載っているという概念が大事なんです。実は人間についても同じ面があるんですね。まず脳というハードウェアーが状況に応じて様々な脳内物質を出して気分面などを変化させるというハードウェアーがあるわけです。でもって、その脳内物質の分泌などを直接的にコントロールしているのは、かなり本能的なんですね。つまり「本能」という基本ソフトウェアがハードを直接叩いているわけです。そして人間の文化というソフトウェアーは本能の上に載っている訳です。文化というものを脳と結びつけて考えるなら、最低限、このドライバーにあたる「本能」という部分に踏み込まないと成らないわけです。

例えば、周りから冷たくされて感じる「疎外感」とか、周りが熱狂している時に自分も熱狂してしまう「群集心理」とかは、脳の面から見ると、脳内物質の分泌として捉えられますが、その分泌を指示しているのは、「理性」という面ではなく、人の「群れの本能」の部分が大きい訳です。つまり、キーボードのドライバーが、あるキーを押されたら「強制割り込み信号」を出す訳ですが、それはドライバー部分が制御しているのであつて、上位の仮名漢字変換ソフトが制御している訳ではないという事の理解ですね。でもって、仮名漢字変換などの上位ソフトは基本ソフトであるドライバーの仕様を「活かす形」で構築されている訳です。

人間の文化という上位ソフトウェアーは、本能的な好悪などを根底に利用する形で作られている訳です。例えば「倫理」なども、「群れの本能」を最大限に利用する形で構築されている訳です。倫理に反することが「理性的にどのように社会にいけないか」とかよりも「社会から阻害される」といった部分で大きな強制力を維持する様に形作られたりするわけですね。つまり、ハードウェアとしての脳、基本ソフトとしての本能、その上のアプリケーションソフトとしての文化という概念が無いと、このあたりの解析は難しい訳です。
by 柘植 (2007-06-05 09:01) 

pooh

> 柘植さん

えぇと、今回に関しては柘植さんの比喩を理解できているかどうかあやしくなって来ました(^^;。

クオリアはお書きの比喩の中では、基本ソフトと云うかファームウェアと云うか、そう云う部分に該当するものだ、と思うんですが、合ってますかね?

ぼくが問題にするのは、いちばん上のレイヤーに属するアプリケーションソフトの部分で。で、それを(ある意味還元主義的に)理解するためには、ぼくにもわかる言語で下のレイヤーを解き明かして欲しい。そこに例えば茂木さんなんかへの期待が生じる訳で。でもひたすら「もっと根源的なレイヤーがあるんだ」みたいな言説を並べられてもどんなもんかなぁ、とか感じてる、ってところなんですよ。
by pooh (2007-06-05 22:14) 

柘植

こんにちは、poohさん。

>えぇと、今回に関しては柘植さんの比喩を理解できているかどうかあやしくなって来ました(^^;。

かなりややこしい話をしなくてはならなくなりそうなので、一歩ずつ書いているので、途中だと「よく分からなく」なりそうですね(笑)。

>ぼくが問題にするのは、いちばん上のレイヤーに属するアプリケーションソフトの部分で。で、それを(ある意味還元主義的に)理解するためには、ぼくにもわかる言語で下のレイヤーを解き明かして欲しい。そこに例えば茂木さんなんかへの期待が生じる訳で。

なんていうか、アプリケーションから見たとき、その根元的なレイヤーは、あくまでOSでありドライバーソフトなんです。ハードの仕様とはとりあえず無関係に考えることができる訳です。そういう意味では、社会学的な「倫理」とかを考えるときに「脳科学」の出番は無いわけです。

>クオリアはお書きの比喩の中では、基本ソフトと云うかファームウェアと云うか、そう云う部分に該当するものだ、と思うんですが、合ってますかね?

下のレイヤーにある「本能」というのは、実にシンプルな形をしている訳です。例えば「群れの本能」により、周りから冷たくされたら「疎外感」が発生するとかいうのは、どんな状況でも単純に発生する訳ね。そういう本能的反応に「倫理」という意味を与えているのが文化というアプリでして、例えば群れの中で人の物を盗む行為をするものが居たときに、「悪い奴だ、嫌な奴だ」と群れ全体で疎外する動きが文化として成り立つときに、その下の本能的な「疎外感」と結びついて、「群れの中では人の物を盗んではいけない」という「倫理感」となる訳です。

そういう意味では、クオリアという言葉で扱われているのは、文化というアプリがその下の本能という基本ソフトを使う「受け渡しの部分」の方に近い感じを受けています。「受け渡し」を理解するために必要なのは「基本ソフト」と「アプリ」の両方の理解が必要ではあるけれど、ハードの仕様の理解は、まだ必要では無いと思います。
by 柘植 (2007-06-06 08:25) 

pooh

> 柘植さん

あぁ、なるほど。隣り合わないレイヤーは相互にアクセスできない(少なくとも直接その機能が隣のレイヤーに影響することはない)と云う感じでしょうか。

ただ、茂木さんの言説はそう云うニュアンスでは発されていないですよね。レイヤーが跳んでいるように見える現象同士が相互に影響し合って、しかもそれを(ぼくたちが唯一知覚できるはずの)最上レイヤーから理解することができる、と云う主張をぼくは彼の言説から受け取っています。
で、本当にそのことを明らかにしてくれればいいよなぁ、とぼくは(皮肉ではなく)思っているんです。ほんとうにそれが可能なのか、それともただのhypeなのか、それを知りたいんですね。
by pooh (2007-06-06 22:13) 

柘植

こんにちは、 poohさん。

>ただ、茂木さんの言説はそう云うニュアンスでは発されていないですよね。レイヤーが跳んでいるように見える現象同士が相互に影響し合って、しかもそれを(ぼくたちが唯一知覚できるはずの)最上レイヤーから理解することができる、と云う主張をぼくは彼の言説から受け取っています。

私もまた、そういう感じを受けているので「危険性」を感じている訳です。
なんていいますか?下位のレイヤーになるほど「単純な反応系」に過ぎなくなって、その単純な反応を「どう使うか」は上位レイヤーにゆだね成れているというのが私の理解なんですね。私は、前に「原始の村の巻き狩りの勇者」というたとえ話で、「群れの中の優位」という本能的満足感を文化が利用して、「最も危険な仕事をやる希望者を確保してきた」という話をしましたが、この「群れの中の優位」という本能は、いじめなどをも引き起こす元にもなるわけです。つまり、上位レイヤーの構造を熟知し、それが下位レイヤーの単純反応をどのように利用したり、排除したりしているかを理解する事が大事なので、「下位レイヤーのここと結びついているから、この下位レイヤーの反応はこういう文化の元だ」みたいな飛躍はとても危険な解釈になるわけです。
by 柘植 (2007-06-07 08:45) 

pooh

> 柘植さん

> 私もまた、そういう感じを受けているので「危険性」を感じている訳です。

分かります。多分同種のアラートが、ぼくの頭の中でも鳴っています。
斎藤環さんの試みを支持するのも、だからです。

ただ、それでも茂木さんの研究がなんらかの成果を獲得してくれないかな、と云う思いはあるんです。現象から認識までを垂直に見通すことのできる視座がどこかにある、と云う期待は抱いていたい。もしそのことが何らかのかたちで説明されれば、ぼくみたいな思考法をする人間にとっては、思惟のぶれの余地が大幅に狭まる(精度が上がる)はずだからです。って、抽象的でよくわからないですよねこれじゃ。

ただ、「あって欲しい」とは思っていても「あるはずだ」と思っている訳ではまるきりなくて。その点で、現状認識としてはぼくは柘植さんと大きく変わらないと思ってます。
by pooh (2007-06-07 22:25) 

LINUS

心脳問題は未だ発展途上の学問である。「何か怪しい茂木健一郎」は果たして自民党や公明党などの与党よりも怪しいだろうか?ボクは彼の人間性に惚れ込んでいるから、少なくとも前述の与党一派の「怪しい政治家」よりはマシだと思っている。心脳問題を解く事が出来れば世の中が(より暮らしやすく)変化する事は言うまでもない。斉藤氏の「議論のための議論」は愚の骨頂ではないだろうか?ボク自身「ひきこもり」を体験した身としてはっきりと申し上げたい。「ひきこもり」の人間にとって大切なのは、茂木健一郎のような「何かこうホッとする存在」に違いない。
by LINUS (2007-07-07 07:17) 

pooh

> LINUSさん

いらっしゃいませ。

お書きのコメントはどちらかからのコピー&ペーストでしょうか(LINUSさんは「前述」などしていらっしゃいません)。だとすれば、こちらの運営の原則に従ってのちほど削除させていただくこととします。
by pooh (2007-07-07 08:36) 

LINUS

やだなーコピペなんかじゃないですよ。前述というのは私が書いた文章内にあることば=自民党公明党の事をさしています。まあ、お手柔らかにお願い致しまするw
by LINUS (2007-07-07 11:38) 

pooh

> LINUSさん

そうでしたか。それは失礼しました。

茂木健一郎を支持している方々の多くが、その人柄や生き様に魅せられている、と云うことはあるように見受けられます。ただ、それらが優れている、というのは学者としては特に美質ではないかと思います。同様に、政治家としての美質ではないでしょう。タレントとしては美質かもしれませんが、彼はタレントとして評価されるのをかなり嫌っていたような。

心脳問題が発展途上の学問であるのは確かでしょう(その他すべての学問分野が発展途上であるのと同様に)。ただ、その発展がどのようにぼくたちの生活をより「よく」するのかは分かりません。茂木健一郎はそのように見せていますが、具体的な「学問上の」議論として示しているとは思えません。ちょっと言葉遣いとしてきつすぎてこういう云い方は抵抗があるのですが、現状このことに関する彼の言説はfashonable nonsenseの域を出るようには見受けられません。

また、斎藤環が「議論のための議論」を行おうとしているとは思いません(彼の「ひきこもり」についての著作の内容を知らないので、その部分についての評価は出来ませんが)。斎藤は茂木が、その呈示した問いかけに対して「その華麗な身振りで」回答を行ってくれることを期待していると思います。これはぼくも同様です。
by pooh (2007-07-07 11:54) 

LINUS

ご返答ありがとうございました。POOHさんは誰かにぞっこん、という経験はありますか?正直、私は何故、茂木健一郎にこれほどのめり込んでしまうのかが、最大の悩み(?)です。もちろんPOOHさんのご指摘の通り、彼には「タレント性」という大きな武器があるのですが、何かこう、希望を持たせる力強さを感じてしまうのです。私は文系なので正直、茂木さんの唱えるクオリア原理主義について明快な理解を得ていません。そういう意味ではPOOHさんのおっしゃる通り「学問上」の論解に至っていないのです。

斉藤さんとの書簡の交換は、正直、私も興味があります。茂木健一郎が本物の「学者」であるのか、自分でも確かめたいという気持ち、正直あります。茂木氏とは多少の交流を持たせて頂いておりますが、学説的な質疑を交わしていません。

何はともあれ、今後の行く末を見守ってみましょう。

これからもブログ、拝見したいと思います。
ありがとうございました。
by LINUS (2007-07-08 06:36) 

pooh

> LINUSさん

誰かにぞっこん惚れ込む、と云う経験は何度でもあります(リアルな恋愛においても、その後の人生が致命的に歪んでしまうほど惚れ込む、と云う経験は3度ほどあります)。なので、LINUSさんのおっしゃる感覚が理解できないわけでもないと思います。

ただ、例えば「希望を持たせる力強さ」を持つ人物は歴史上何人もいて。ケネディもそうだったでしょうし、ヒットラーはまちがいなくそうでした。心酔させる力は、必ずしもその時代、その場所において「善きもの」とは限らない、と云うのが実際のところだと思います。

ぼくも文系です。そして、茂木健一郎が現在の立ち位置で言説を重ねるなら、我々にもその「クオリア原理主義」を理解せしめるようにより勤めることが求められていると思います。それも文芸の言葉ではなく、自然科学の言葉で。

またおこし下さいませ。
by pooh (2007-07-08 07:03) 

shiba

poohさん

はじめまして、shibaといいます。この往復書簡で検索してこちらにたどりつきました。

わたしがこういう系の話に興味を持ち始めたきっかけは茂木さんでした。3年近く前だったかなあ。茂木さんの書いてるものを読むことでけっこう世界が広がったような、そういう感じがあって、そういう意味では大きく影響されたところがあると思っています。

同時に、最近、ここ1年くらいでしょうか、何か以前とはけっこうスタンスが変わったのかなあ、という印象も持っています。もちろんこちらも変わってるんでしょうが。というところに今回の往復書簡があって、斎藤さんの第一信を読んで、なんとなくその「変わったのかなあ」感がクリアになったというか、強化されたというか、そういう感じがしています。これからどういう展開になるんでしょうね。返信が遅れているのにはいろいろ事情もあるんでしょうが、受けたんならルールは守ったほうがいいようにも思われます。

あと(すいません長くなって)、別のエントリで言及されてるビリーバーさんたちについては、わたしも同じ思いです。何となく「一休さん」の主題歌の歌い出しっぽいというか、ひいきの引き倒しというか...。なんか、けっこう違和感ありますね。

初めてなのに中身もあんまりないことをダラダラとすいません。興味深い内容のブログだと思いました。これからも読ませていただきたいと思います。どうぞよろしく。
by shiba (2007-07-10 23:39) 

pooh

> shibaさん

いらっしゃいませ。

茂木健一郎は「導入者」としてはとても高い資質を持っているのだろうと思います。文章は上手だし、平易だし、いろいろ興味深い方に話を持っていってくれる。ただ、その語っていることの本質はなんなんだろう、と考えると、なんか危うい気がしてくる部分があって。

またお越し下さい。
by pooh (2007-07-11 06:02) 

TAKESAN

あけおめわっ。ことよろわっ。

誰もが終了したと思っていたであろう当該連載が…。
http://sofusha.moe-nifty.com/series_02/2010/01/2-2eeb.html

まさか続くとは。

今から読んでみようと考えてますが、どれくらい内容があるのかワクワクなのであります(笑)
by TAKESAN (2010-01-05 12:12) 

pooh

> TAKESANさん

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。ってか「わっ」てなんすか。

いちおう読んだんですが、正直よくわかりません。でもとりあえずエントリ書きました。
by pooh (2010-01-05 21:11) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 2

トラックバックの受付は締め切りました

関連記事ほか

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。