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だれが「科学万能主義」か [世間]

どうも一部のひとには、ぼくみたいに「科学以外のロジックでニセ科学を批判する」スタンスは非常に評判が悪い。ぼくはぼくなりの動機で批判を行っているんだけど(その動機についても都度説明しているつもりだけど)、まぁ心情的には分からない訳でもない。
以前、重要な示唆をいただいた檜山正幸さんが、[雑記/備忘]なにかを主張すれば、なにかを否定することになると云うエントリで、「『ニセ科学批判』批判」についてちょっと触れられている。基本的には、ぼくが自分の思考の整理にとても役立てさせてもらったエントリの延長上にある内容なんだけれど。

「水は言葉を理解する」を正しいとするような“科学”は、現在の科学で正しいとされている大部分の言明を否定します。否定されてしまった現代科学は、コンピュータ、インターネット、携帯電話、その他の通信、交通、建築、薬品、食品、… などなど、現代の物質文明を下支えしている基盤です。

ニセ科学を肯定するのに「科学万能主義」を持ち出すひとがいる。でもそれって、日常のなかの科学を意識しないで呑気に科学万能主義を批判することが出来ている、と云う時点で、すでに無意識にとても「科学万能主義的」だったりするのだ。

あなたの素朴な言明により(必然的に)否定される理論体系の代替物を提示できますか。あなたのロマンチックな主張を通すためには、どれほどに現実的な犠牲が伴うか、ちょっと見積もってみませんか。

日常の暮らしにおいて科学に基本的な信頼を置く(あくまで「基本的」な。これは盲信を含まない)ことで、日常生活はたいそうコストの安いものになっているはずだ。ニセ科学の可能性を肯定するひとは、自分が何をトレードオフとして差し出しているのか、と云うことまで、突き詰めて考えているのだろうね?

とりあえずある種の素朴さは、ある種の「善意と自認するもの」と同じくらい悪質だと思う。「無知であること」「考えないこと」は、なんらそのひとを免責しないのだ。


タグ:ニセ科学
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コメント 5

TAKESAN

今晩は。

「科学者は科学万能主義に陥っている」、というのも、一つのレッテル貼りであり、ステレオタイプの一般化である様に思います。それに基づいた批判を、科学の膨大精緻な体系や、科学者個々の認識に思いを馳せる事無く行う所に、違和感を覚えるのかも知れません。

 >明らかに例のひとだと判別できる論者

何故か、私の所にTBを送ってきました。今の所は、そのままにしておこうと思いますけれど。
by TAKESAN (2007-03-30 23:39) 

pooh

> TAKESANさん

なんかですねぇ。osakaecoさんの畏敬すべき告白エントリにも見られたような、「気付き」に対する自己過大評価のようなものがあるような気がするんですよ。覚者が偉い、と云うような気がしてしまうような(仏教なんかだと明解に否定されているはずなんですけど)。自分は気付いた、でも世俗の科学者なんかは気付いていない、みたいな。

いちおうこのエントリは檜山さんにもトラックバックしてますので、適宜削除するなり何なりしてもらえればいいな、とも思います。でも、かの人からのトラックバックは削除するのがいいと思いますよ。
by pooh (2007-03-30 23:46) 

pooh

> TAKESANさん

エントリのなかで趣旨と直接関連しない部分を削除しました(檜山さんはすべてご承知のようなので)。そのため、いただいたコメントの内容の一部が浮いてしまったことをご容赦下さい。
by pooh (2007-03-31 15:23) 

柘植

こんにちは、 poohさん。

科学万能とかいう以前の問題として、我々は経験則的に「この部分は変わらないよね」という事を基本に社会を営んでいるわけです。「科学で全てが説明出来る訳ではないから、何でもアリ」みたいな考え方をすると社会生活が営めなくなってしまうわけです。

例えば、冷蔵で消費期限が1週間と表示されているものを買ったら、きちんと冷蔵して置くなら6日後に食べても、大丈夫なはずと思って買われているはずです。これは科学とは別の「沢山の事例が冷蔵庫で冷蔵しておけば保った」という事実に支えられている訳です。でも、「科学万能論否定」を拡大するなら、その消費期限でさえ、「科学万能論」かも知れない訳です。本当は、「馬鹿」とか書いた冷蔵庫に入れておくなら、3日後には腐るのかも知れないと考えて見て欲しい訳です。そうなれば、賞味期限など定めることは無意味になるわけですね。消費期限を付け替えた悪い業者の製品を買って腹を壊しても、文句なんて言ってはいけません。自分が、その製品の前で悪い言葉を使わなかったかどうかを反省して過ごすだけです。

科学は万能ではないから、まだ科学的に明確化できないことを明確化するための研究はなされる。でも、その研究というのは「今、明確になっていること」の上に築かれるわけです。私がAという物質中のBという元素を測定する方法を探索して、いくら工夫しても予想値の半分くらいの結果しか出ないときに、「元素が別の所にテレポーテーションしたのだ」「元素が別な元素に変換したのだ」とすれば、目の前の低値の理由は立つかも知れないけど、私はそんな理由付けはしない訳です。なぜなら、私のやるような分析条件で元素はテレポーテーションしないし、別な元素に変換もしないと「経験的に知っている」からだし、そのようなテレポーテーションやら元素変換を認めたら、社会生活も成り立たなくなるからです。ガソリンを35L注いだのに、直ぐにガス欠になったら、それはガソリンがテレポーテーションしたのでも、別な物質に成ったのではなくて、タンクが漏れているか、スタンドのメーターが壊れているかだと考える事を認めあってこの社会は成り立っているのですから。
by 柘植 (2007-04-02 08:58) 

pooh

> 柘植さん

結局のところ、科学で分かっているところは「科学万能」でもいいわけで。でも科学で分かっていないところは多いし、そもそも科学で分かることができるとは思えない事柄も多いわけですよね。で、「ここまでは科学で分かっていて、ここからは科学では分からない」と云うのを個別事象としてすべて把握しているひとはいないし、そういうことをすべての人間が行うのは不経済極まりないわけで。

でも、全部分かっていなくても、基本的な分別はできるんです。それは経験論によってでもあるし、ちょっとだけ頭を使った合理的な推論によってでもある(ぼくはここで「個別の科学的精度」によらずにニセ科学批判を展開しています。その内容が不合理だとは思っていません)。

なにを疑うべきでなにを疑うべきでないか、自分のなかで基準をつくることも、情報を収集してその基準をデバッグすることも、今の世の中大したコストじゃないはずなんです。で、おそらくそれ以上のコストを払う必要はないんです。で、それだけのコストを払うことをけちっているのが、ニセ科学蔓延の一原因ではないのか、と思っています。
by pooh (2007-04-02 18:06) 

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