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「よくひとりぼっちだった」モーリー・ロバートソン著  [さらば比較文化論]

この本は僕が高校在学中に話題になった本。高校時代からずっと気になっていた本ではあった。それが今年、ロンドンで15年ぶりに再会した高校のクラスメートしょちょう君が読んでおもしろかったということで、帰国したら読もうと思っていた。

さて、この本の著者モーリー・ロバートソンさんは、日本人とアメリカ人のハーフ。小学生のときから太平洋を挟んで、日米の学校を行ったり来たりしていた。僕とこの人との共通点はまず第一にロバートソンさんが通っていた「S学園」が僕の母校であることだ。しかも彼の本によく登場するF先生は、中学高校と6年間通して僕の学年の学年主任で、先日の記事「恩師の言葉」に登場していただいた先生だ。

実家に帰ってくると、この本を本棚の中で発見。そして、彼が小学校の一時期に、僕が卒業した小学校に通っていたこともわかった。

さて、紹介はこのくらいにする。

毎晩寝る前に少しずつ読んでいたのだが、昨日の夜この本を読み終えた。おもしろい本だった。結局僕は彼の述懐にかなり感情移入してしまった。とくにS高校に戻ってきてからの友人とのやり取りの場面には、引き込まれてしまった。

ぶつかってしまったのだなぁ。

なんというのだろうか。「ゆらぎ」というのだろうか。いわゆる、体験して得る「さらば比較文化論」的な感覚に好感を覚える。



そして、もう一つ踏みこんで見ると、

違う国の文化に限らず、
同じ国内であっても、
同じ文化の中だと思っても、
大きな価値観の違いというものは発生する。

それに気がついて、それがわかって、
結局、人間一人ずつが、個人個人で
別の価値観を持っていると識るのだ。


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ハリケーン・カトリーナが曝すアメリカの自由と民主主義 [さらば比較文化論]

日本に帰ってきたというのに、滞在先ではテレビのない生活をしている。アメリカのハリケーン(カトリーナ)がもたらした、大都市におけるの治安悪化などに関するニュースをインターネットニュースで見た。

ブッシュ大統領がよくアメリカ国民を「great nation」と表現しているが、ニューオーリンズ市の体たらくを見ていると、アメリカが世界に誇る「自由」とか「民主主義」はこの程度のものかという印象を受ける。アメリカでこういう災害が起こると、大都市でよく暴動が起こる。ブッシュ大統領の言うbeautiful nationがどうして非常時に助け合わず、治安を悪化さなければいけないのか。何万人が飢えているにもかかわらず、持てる者は市民に食料を放出できず、一般市民は生きのびるために命がけの「略奪」を強要される。災害復旧や救助ではなく、治安回復のために大量の軍隊を投入せざるを得ない国。現地からリポートする日本人記者が言った「世界の一等国アメリカ」という言葉が空々しく響いた。


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BBC制作 HIROSHIMAを見て [さらば比較文化論]

先日BBCで放送された「HIROSHIMA」と言う番組を見た。もともあまり期待はしていなかったが、僕はと言えば、結局何日間かの沈黙を余儀なくされた。前半は主に原爆投下にかかわった人たちのドキュメンタリー風ドラマで、後半は主に広島で原爆を生き延びた人達の物語であった。どういう番組であったのかについては、いつものように、ほかに秀逸なブログがあると思うので、そちらに譲る。そういうページがあれば、こちらでもリンクを張るので、コメント欄でぜひ紹介していただきたい。

軽く感想を述べる。見終わったあとは非常にすっきりしないものが残った。長崎の死者数は5万人との言及があったが、広島に関しては人数についての言及はなかった。今でも放射能障害やケロイド(やけど)と闘う被爆者や被爆2世たちのことはほとんど取り上げられなかった。最後に映し出された復興した広島の映像は「平和の尊さ」の象徴ではなく「完全に復興した街。原爆は過去のこと」というメッセージに見えた。

一緒に見ていた友人は「核廃絶など、未来に対するなんのメッセージ性もない」と嘆いていた。僕はしばし沈黙した。イギリス的な受け取り方を考えると「残虐非道な日本との戦争を終わらせるために、広島長崎にあれを落としたのはしょうがなかったが、もしかするとそこまで差し迫った必要はなかったのかもしれないな」ぐらいの問題提起はできているかもしれない。

この番組は、僕が丁度英国を去る時期に見るものとしては非常によかったかもしれないと思った。そして僕は「もてざるものに期待するのは敗北である」という結論を出した。イギリスは日本とは別の意味で、また過去の戦争の負の側面を多く背負っているのである。

この番組のなかでも言っていたが「広島が世界で初めて原爆の犠牲になった」という物言いは、「日本は唯一の被爆国」なとという物言い同様正しくない。世界で最初の被爆者はマンハッタン計画で被爆したアメリカ兵たちであるし、その後の数々の核実験でアメリカ、旧ソ連をはじめ、世界中で数多くの人達が被爆している。そしてその人達は歴史から忘れ去られているといっていい。西洋諸国で原爆が身近に感じられる時があるとすれば、アメリカ兵など、西洋人の被爆実態が大きく報道される時であろう。


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アメリカ人とイギリス人(2) [さらば比較文化論]

アメリカ人とイギリス人(1)からつづく。

俺はレイモンドに言った。

俺 「イギリスにこれだけ永いこと住んでいるのに、初対面からイギリス人とこういう風なくだけた会話をしたことがない。」
レイ 「ほんとに? イギリス人かぁ、うーん。」

つまるところ、これは相性の問題で、同時に出会いの問題かも知れない。こいつと話していて「やっぱりイギリス人は気難しい」という思いを新たにした。あえて率直にデフォルメして言えば

イギリス人のイメージ
=「気難しくて、必要以上にややこしぶっている」
アメリカ人のイメージ
=「すごくフレンドリーで、過度に単純」

である。俺とイギリス人の「相性」がかならずしもよくないことについて、16年間イギリスに住んでいる、うちの日本人フラットメイトのAさんは独自の論を展開している。彼の着眼点のおもしろいのは、人間を「陰」と「陽」の2種類にわける点である。彼は彼の英国人パートナーとの関係を持ちだして、人間関係は「陰」と「陽」の組み合わせがうまくいくのだという。俺は彼の持論には必ずしも賛成できないのだが、彼に言わせると一般的な日本人は「陰」であるという。イギリス人は日本人に比べて一般的に「陽」が強く、日本人にしては「陽」パワーの強い俺は、多くのイギリス人と反発しあってうまくいかないというのだ。

さて、俺の意見を述べる。レイモンドは「一般的なイギリス人」と比べるとかなり「陽」な人だと思った。(それは彼がカムデンマーケットで買ったマジックマッシュルームのせいだったのかもしれないが)。日本人とイギリス人はよく似ているという人が多くいるが、どこでそういう風に思うのか、今でも俺にはつかみにくい。あえて言えば「陰」なところが似ているのだろうか? うーん、ややこしいのはきらい(笑。俺は最終的には陰でも陽でも、お互いが持つ陽転性の要素、つまりポジティブな側面を双方向で引きだせればいいとおもう。

さてレイモンドの話に戻ろう。彼は大阪に滞在している時に「人間として恥ずべき行為をした」のだという。料金は40米ドル前後で、その体験も一回ぽっきりだったらしいが「日本人の女は歯の使いかたが悪い」と嘆いていた。それを聴いて俺が大笑いしたのは言うまでもない。

「その女性に日本人を代表させるわけにはいかないだろう」

23歳のアメリカ人。「民族的にはユダヤ人」だがユダヤ教は信仰していないという。去年オハイオからカリフォルニアに引っ越した。左派を支持する傾向のあるカリフォルニア州の選挙民がなぜシュワルツネッガーのような保守派を支持しているのかなぞだという。そして何度もこう叫んだ。

「アメリカの次期大統領はシュワルツネッガーだ。Isn't it terrible?(ひどくないか?)」


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アメリカ人とイギリス人(1) [さらば比較文化論]

昨日、とあるクラブでアメリカ人と知りあった。そもそも一緒に遊びにいった友達がバーで話していたのだが、気がついたら俺の受け持ちになっていた。名前はレイモンド。オハイオ州シンシナチ出身で一年前にカリフォルニア州のオレンジ郡に引っ越したという。明け方の3時半、ソファに深くもたれかかりごろごろしながら、こいつとの無駄話に花が咲いた。

こいつは本の少しだが日本語を話す。この前は日本に行って、大阪と長崎を訪れたという。

レイ 「きみはどこからきたの?」
俺 「広島だよ。ちょっとの間シーンとしててもいいよ。」
レイ 「え、まじで。そうなんだよな。いやはや。」

最近分かったことだが(笑)、多くのアメリカ人は(少なくとも海外にでているアメリカ人は)、意外と広島の原爆投下に罪悪感を感じているらしい。そういう感覚を持ち合わせているアメリカ人は、イギリスやフランスで会った限り、俺が思っていた以上に多い。 

レイモンド曰く
「アメリカ人の86%はパスポートを持ってないんだよ。信じれる? ひどくない?(Isn't it terrible?)」

と言うわけで、レイモンドのような海外にでているアメリカ人の対日感情をもってしてそれを一般化するのは、おおよそ見当違いかも知れない。

曰く
「アメリカの英語には訛りがないと思うんだけどなぁ。(We don't have any accents in English)」

俺は「Of cource, you don't.(もちろんないよ)」

と答えた(笑)。そして言った。

「フライドポテトの呼び方を『フレンチ・フライズfrench fries』から『フリーダム・フライズfreedom fries』に変えたように、アメリカ英語の呼び方も『イングリッシュ』から『アメリカン』に変えたらどうか」

こいつとの会話は初対面なのにおもしろかった。言いたい放題を思いつくままに言う。英語を使った与太話というのは、けっこう苦手だと思っていたのだが、けっこういけるではないか(笑。

今回の旅のパトロンは彼の母親。キングスクロスのホテルで寝ているという。カムデンで買ったマジックマッシュルームのパッケージを俺に見せては「こんなものを売ってるなんて信じられない」と言う。彼はけっこう「とんでいた」のかも知れない。アメリカ人とイギリス人(2)につづく


「個人主義」か「全体主義」か -- 文脈の喪失・さらば比較文化論? [さらば比較文化論]

しょちょう氏のブログ記事「西洋の傲慢さ、東洋の自己欠如」(http://blog.so-net.ne.jp/syocho/2005-05-07-1)を読み思うことを少々。

いやはや『個人主義』についてですね。初めに言っておくと、僕にとっては極めて微妙なトピックなんです。当該記事では個人主義についての定義を「『個々の人が独自の意見を持ち、その意見に責任を持つ』という意味での個人主義である。」としていただいているので、議論が明瞭で非常にありがたいのですが、それでも僕には敏感なトピックなんです。『個々の人が独自の意見を持ち、その意見に責任を持つ』、ものすごくいいことのように聞こえるんです。そして、それは実際にいいことかも知れません。しかし、やっぱり微妙なんです。

なぜ微妙かというと、僕自身、個人的には、実は「『西洋』か『東洋』」とか、「『個人主義』か『全体主義』」かと言うような議論のたてかた自体が非常に不毛に思われてきたわけです。例えば、僕の以前の記事「文化間における本質的な差異は単純であり、同等である」(http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-04-12-1)でも書いたのですが、本当に文化間における本質的な差異が単純でかつ同等なのだと思った時点で、今までリアリティーを持っていたいろんなものが急に色褪せて、なにも表現しなくなってしまう、つまり意味を失ってしまったわけです。

もう少し説明しますと、『個人主義』とか『全体主義』とかいう言葉が、洋の東西を問わず、ある「特殊なコンテキスト上」で今まで持ってきた意味と付加価値が一挙に消失してしまうわけです。それは例えば、単純な喩えなのですが、個人主義をユニバーサルな価値と信奉し全地球的な商業活動にいそしむ人々(global capitalistsとでもいおうか)が全体主義的な行動をしているように見えたりするわけです。そしてこの単純なモデルによって起こされる、その意識的なシフトが、僕の中では大きなインパクトをもって、パラダイムを転換してしまったわけです。

例えば本当に我々に必要なものは何なのでしょうか? ある種の東洋人の行動の多くに共通に感じられる『自分のなさ』は本当に「個人主義」の欠如なのでしょうか? もし仮に、そうであったとすると、その「個人主義」が内包する、真に重要な「価値」とは何なのでしょうか? もしくは『独自の意見と責任』のモデルが無意識的なレベルでどこにあるのか。さらに『独自の意見と責任』を持つことで得られるものというのはいったい何なのか、それが今の僕にとっての本質さの追究です。

西洋人であれ何人であれindivisualismとか個人主義とかいう言葉を聞く時に、僕はある種の呪術性を認めてしまう。そして数多くの呪術的な言葉は同時に手垢にまみれたものであり、そしてそれは多くのリアリティーを支えていることに気づく。そしてその言葉が持っていた「魔法」的な作用を、どういうわけか無効化された人間がいるわけです。彼がその言葉が持つ呪術性を感じたときに何が起こるのかというと、リアリティーとして文脈の喪失が起こる。

そして最終的には僕個人のレベルに還元されていくのです。その文脈上のリアリティーの喪失が、ある種の多幸感をもたらすわけですが、それはとりもなおさず新しい旅の出発のようでもあるわけです。ここに論理的な整合性(分かりやすさ)をここで表現できるとは思わないのですが、僕は最近の自分のテーマである「承認validation」ということにどうしても思いをいたしてしまう。話の展開が大きく飛躍してしまったところで今日のお話は終わりにします。この文章を書くきっかけを作ってくれたしょちょう氏に敬意を表します。

<関連記事>

「西洋の傲慢さ、東洋の自己欠如」
http://blog.so-net.ne.jp/syocho/2005-05-07-1
「文化間における本質的な差異は単純であり、同等である」
http://blog.so-net.ne.jp/sanpeita/2005-04-12-1


文化間における本質的な差異は単純であり、同等である。 [さらば比較文化論]

刺激を受けた文章があるので少し書いてみる。

日本の教育・英国の教育
http://blog.so-net.ne.jp/syocho/2005-04-11

上記のサイトで、しょちょう氏は日本の教育と英国の教育が拠ってたつ根本的な価値観の相違を述べている。僕にとっては、この論に限らずおおよそ彼の論説は、六年間におよぶ僕の海外生活のうち、特にイギリス、フランスという欧州における桎梏を解消させる日本語による処方箋である。

「帝国主義・植民地主義の放棄」などにより価値観が相対化され、絶対的な価値と客観性を持っているべき自分自身さえも相対的に観察されうる存在なのであるという「ユニバーサルな価値観の崩壊」が西洋におけるポストモダニズムの一側面であると考えると、第二次大戦における敗戦によって、後にアジア各国で隆盛する民族主義までを放棄した日本は、戦後すでにそれを獲得していたといえるかも知れない。それが日本のような歴史的断絶を伴わない「国際社会」において「日本と欧米」「日本とアジア各国」の関係や、大衆レベルで言えば「日韓」「日中」の『問題』に対する温度差としてあらわれたことは、日本人にとっては皮肉なことであった。これについてはいずれ日を改めて論じなければなるまい。

さて、しょちょう氏の論である。教育アイコンとして、日本が努力、勤勉の象徴として挙げる二宮尊徳(金次郎)に対し個人の特異な才能の象徴としてニュートンやスチーブンソンを挙げるイギリス。全ての人が努力することによって平等に機会を与えられている日本と、出身階級さえもその人の資質の一部分とするイギリスの対比は極めて本質的なところを指摘しているように思われる。果たしてイギリスのエスタブリッシュメントestablishment(支配体制)の揺るぎない基礎と現行の政策的実行を見事に裏付けている。

この分析のおもしろいところは、両者が違うということをニュートラルに述べている点である。しょちょう氏は「教育改革において、理念はそのままで表面的な制度のみを変える、あるいは制度はそのままで理念だけ変えることがシステム内部の整合性を奪い、教育現場に混乱をもたらすことを知っておく必要がある」と警鐘を鳴らしているが、もっともなことである。

僕にとってより感覚的に本質的であると思われるのは、しょちょう氏があるところで「創造性を育てる教育」について、とある先生の言を借りて語ったことである。すなわち「創造性creativity」という概念自体がwestern inventionであり、日本の教育にイギリス人が言うところの「creativity」を求めることは、イギリスの教育に「わび・さび」とか「あうんの呼吸」を求めるのと同じなのだということである。非常にもっともなこととしか言い様がない。

ここで大事なことは、これらの差異というものは、それぞれ文化の根本的な所に根差していて非常に重要で敏感な部分であるということだ。しかしながら、このようにより客観的にモデル化することの利点は、差異自体は「違っているという点において極めて同等」であり、異なる二つの文化において、その差異を成す価値は単純であるということを表す点である。この極めて簡単な事実は、とりもなおさず、その間には上下はなく、正しい正しくない、進んでいる遅れているなどの判断もない。ただ同等に「違う」ということだけが残る。それに気づき、それをそのまま受け入れることは観念的には至極当然であり、簡単に言えることである。しかしながら、自分について言わせてもらえば、実際に圧倒的な「普遍的西洋価値」が席捲する欧州に暮らし、それをやるのは甚だ困難な作業であった。自分(または日本、もしく日本人)の文化の優位性と限界をそのまま受け入れ、他人(または西洋、もしくは西洋人)の文化の限界と優位性も受け入れる、そのために僕は六年を費やしたが、非常に得難い貴重な体験をしたと思っている。


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