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天狗、男に一杯飲まされること [雑文]

たまには趣向を変えて、詰まらぬ小噺を一つ。
いつも詰まらぬ?

…マァ確かに。

では、いつも以上に詰まらぬ小噺ということで。


ある日の昼下りのことである。
二人の若造がファミリーレストランでお茶をしていた。
この二人の他に客は殆んどいない。(※1)
一人は天狗、もう一人は男である。
彼らはとりとめのない話をしていた。

男は、珈琲を飲み干すとこう切り出した。
「毒を盛るという表現っていいと思わない?」
「毒を盛る?…はぁ」

なんとも唐突である。

「この間、読んでいた本にあってさ、何か惹かれたんだよ」
「確かサジで盛って薬なんかを調合するところからきているんだっけか」
「いや、そこまでは知らないけど」

この天狗、詰まらぬことばかり知っている。

「盛る、ねぇ。マァ毒を…入れる、混ぜる、飲ませる…他の云い回しはちょっとばかり直接的すぎるかもしれないねぇ」

「そうでしょ?毒を盛る…好きだわ」

そう云うと男は席を立った。

(何だかよく分からないが、マァ面白い表現ではあるな)
と、天狗はぼんやり思っていた。

しばらくして男は戻ってきた。
彼の両手は珈琲カップで塞がっていた。
どうやら気を利かせて天狗の分も淹れて来たらしい。
なみなみと珈琲が注がれている。
何ともマァご苦労なことだ。

「イヤァ悪いね。有り難う」
「いやいやなんの」

そう礼を云って飲もうとしたとき、天狗ははっとした。

(何か変だ。いつもなら他人に持ってこさせる男が今日に限って持ってくるとは)

(…ヤッこの話の流れでいくと、僕の珈琲には毒が盛られている!?)

とんだ妄想天狗である。(※2)

「ん、どうした。飲まないの?」
「え、アァいや別に…」

(仕方ない、毒を喰らわば皿まで…いや、毒を喰らわば珈琲カップまでだ。飲んでくれるわ)

なんでそうなるのか、よく分からないが、とにかく天狗は一口飲んだ。

「…うっ、に」

思わず、天狗はむせた。

「ウニがどうかした?」

「ウニじゃない。うっ、苦いと云おうとしたのだ」
「え?そりゃ珈琲だもん、苦いに決まってるでしょ」

「いや、この苦さはおかしい…なんか余計に入れただろう?」
「まさか」

「嘘を云うない。持ったときに盛っただろう。いや、盛ってから持ったか、え」
「また訳のわからないことを。実はね、ボタンを押したらカップの半分までしか注がれなかったんだよ」

「ほう。それで?」
「2回押した」

「…それってもしかして、エスプレッソじゃあないか」(※3)
「そう云われればそんな気も」

「どうりで苦いわけだ、マァこんなになみなみと。ミルクと砂糖で誤魔化すしかないな」
「そうだね、あはは、ごめんごめん」

「こんなのそのまま一気に飲んだらそれこそ一大事。毒だよ毒」
「うんうん、まさに毒だね」

「…本当は分かっててやったのか」
「さあ、どうかな」

(これだから人間って奴は油断がならねぇ)
そう感じた天狗であった。


飲みすぎは毒、気をつけよう。


【注】
※1…どうやら芥川龍之介『羅生門』を真似たようだが、まるでサマになっていない。
※2…まったくである。
※3…彼らがいたのはおそらくイタリアンレストラン「サイゼリヤ」だろう。
ドリンクバーのカップはエスプレッソ用ではないから、カップが満タンにならないのは当然である。


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九月九日、重陽の節句 [雑文]

九月九日は重陽の節句。
さて、重陽とは何ぞや?
説明しようッ。

重陽とは、読んで字の如く、“陽”が重なるという意味。
古代中国の陰陽五行説というのに由来しているものなのだ。
では、その陰陽五行説というのは・・・
・・・本題にたどり着く前に夜が降ってきてしまうので簡単に(・・;

モノを構成する要素として“陰”と“陽”があり、数字もその例外ではありません。
具体的には、偶数が“陰”で奇数は“陽”です。
で、数字が大きいほうが強いのです。トランプ遊びの「大富豪」みたいに。
「革命」は起こらないと思うけど(笑

“9”は奇数(1桁の数字のうち)で最も陽のパワーを持っています。
ということは、九月九日は陽パワーが最大になります。
これが「陽」が重なる、重陽なのです。

陰陽思想では“陰”と“陽”は半々であるのを理想とします。
なので九月九日はとてもバランスが悪いのです。
そのバランスの悪さを解消するために宴を催し、災厄を祓うことにしたのです。
一月一日・三月三日・五月五日・七月七日などに行事があるのもそのためです。
(でも、四月四日や六月六日にそういった行事がないのは何故だ?)

「陽陽と並んで縁起がよいので」という説もあります。
ただ、「陰と陽の調和を理想とする」という観点から考えると、「縁起が良い」とは言えない気がするので個人的には間違いかなと思います。

しかし、重陽の節句はマイナーですね、ちょっと気の毒です。
日本では「九」は嫌われている数字だからなのかなぁ、と思っている今日この頃。

・・・行事の内容には触れなかったけど、まぁ、いっか。。(^^;


そういえば昨日は満月でした。
ややブレ気味なので、点数が二割減です(何が







掃除するときの心構え [雑文]

原題:パラドックス的思考による掃除のススメ(6/13)

※今は昔、この記事は旧ブログにて書き殴ったもの。
徒然なるままに再掲載っと。(文体が滅茶苦茶だ)

「掃除」はなんと卦体な活動なのだろうと最近よく思う。
というのもボク自身ものぐさであり、取り分け掃除が嫌いなのです。

何故か?掃除にはきりがないから。
一回綺麗にしても、一週間もすれば元通り。
掃除を未来永劫に続けなければならないかと思うとため息が出てしまう。

今のはちょっと大げさだけど^_^;

だからと言って雑然とした部屋を良しとは思わない。
やっぱり、部屋は綺麗な方が気分もいい。
でも、掃除する気にならない。
どうしたものかと、考えた挙句、ある結論に達しました。

「掃除は綺麗にするためのものではない、汚すためにするのだ」

綺麗→汚い→綺麗→汚い・・・というサイクルではなく、
汚い→綺麗→汚い→綺麗・・・ということなのです。

掃除を終えた瞬間から、部屋が汚れていくとするなら
汚れている時間の方が圧倒的に長い。綺麗なのは一瞬だけ(笑)
そう考えたら、汚れてるのは至って自然なことだと思うしかない^_^;

ただ、一口に「汚れている」といっても「少し」「そこそこ」「かなり」「非常に」
のように、汚れの程度っていうのはありますけど。

「少し」や「そこそこ」ならいいじゃありませんか(汗)
「かなり綺麗」を裏返せば「少し汚れてる」でしょ?

相当ひねくれてますよね、これって。


まずは手元からということで。

・・・あゝ、まめに掃除ができる人が羨ましいです(>_<)


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お釣りのありかたとは [雑文]

とある店でのできごと。

その日もいつものように衝動買い(^_^;)
レジにてお勘定。
現金でさらりと払う。

お釣りで英世2人と小銭を受け取り、
・・・いや、些か失礼だった。しかもお釣りをもらう時点でスマートでないか。

さて、我が愛しき英世殿2人と小銭を頂戴し、
その後も店内をそぞろに見ていると、レジの方からなにやら声が。

「なんであんなお札渡したんだ?」
「す、すいません・・・」

さっきの店員と店長らしき男がなにやらもめている。

はて、余分にお釣りをもらったかと思ったが、過不足はなかった。
耳をそばだててみると・・・

「あんなくしゃくしゃのお札、もらったお客はどう思う?いい気はしないだろ」
「はい、確かに。すみません。」

・・・むぅ、そうだったか?覚えてないな。

「いいかぁ、ああいう汚い札は、銀行に持っていくんだ。」
「はい。すみませんでした。気をつけます」

ほぉ、感心。たしかに、綺麗な方が渡すときの印象もいい。
だが、これは意外と忘れがちなのかもしれない。

それはいいとして。

店内に響き渡るような大声、いや、店が小さいというべきか。
そのお札を受け取ったボクに聞かれてしまうのはいかがなものか。
受け取った時点で気付いていなかったのに。

その後、なんか云ってくるかと思ってうろうろしていたが、何もなかった。
どうせなら「先程は失礼しました、ささ、こちらと・・・」
とか云って、2000円札と交換してくれても良かったのだけれど(^_^;)
小銭はどうなのだろうか?

ときに、レジ係の皆さま。
皺くちゃなお札はどのようにされていますか?





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紫陽花にあらざること [雑文]


ちょうどこの時期、あじさいを良く見かける。
「あじさい」を洒落て書くなら「紫陽花」といったところか。

紫陽花か、なんて洒落た字なのだろう。
しかし、その語源を辿るとどうやら奇奇怪怪な事情とやらがあるらしい。
・・・奇奇怪怪とは些か云い過ぎた。

そもそもこの「紫陽花」は「あじさい」のことではない。
その昔、妖怪と人間が共存していた頃・・・適当に云っているだけだが。
日本でいえば、奈良時代末期から平安時代あたりだろうか。

唐代の中国。
詩人の白居易(白楽天)が招賢寺という寺を訪れたときに
紫色でいい香りのする名のない花を「紫陽花」と名づけた。
で、彼はこのことを詩にした。

さて日本では、
彼の詩文集『白氏文集』が海を越えてやってきた。
それを読んだ平安時代の学者、源順(みなもとのしたごう)。
「むう、まさにこれだ!」

と云ったかどうか分からないが、
日本原産の「あじさい」に「紫陽花」という字をあてることにした。

で、「紫陽花」は「あじさい」にあらず。
白居易の「紫陽花」と我々が今の時期に見かける「紫陽花」は別物なのだ。

では、現代の中国語ではなんと云うか?
吃驚なことに「紫陽花」とは云わないのだ。
「八仙花」や「緑球花」とか云うそうだ。

唐詩に沈潜しきった大学教授がそう云っていたのをふと、思い出した。
もう一年も前の話だけど。
どこまで本当か・・・・・・いや、大体のところはあってる(はず)。

今となっては白居易の云う「紫陽花」が何だったのかは分からない。
また、中国に「紫陽花」という名の花もない。

ということは、日本原産の「あじさい」は「紫陽花」で何の問題もない訳で。

・・・この話は何ら意味を持たないということか(-.-)


大家、渓有亭におはしますること [雑文]

つい先日、大家が我が渓有亭(アパートの一室)を訪ねてきた。
突然のことなので、少々驚いたが、とりあえず話を聞くことに。

「最近、この辺りも物騒でしょ。で、鍵をつけようと思って」

ふむ、なるほど。しかし、そのようなことは聞いたことがない。

「この辺りでも何か事件があったのですか?
やれ、辻斬りだ、火炎魔人だの鬼だのそういう類のもので?」

「いやねぇ、まさか。盗人や空き巣よ」

あぁ、そうなのか(・o・)

「心配には及びません。ここには結界が張ってある故・・・」

と云ったのだが、聞いちゃいない(笑)

大家に同伴している鍵職人なる人、曰く
「ちょっと、扉の寸法を測らせてくだせえ」

「・・・どうぞ。」

メジャーを取り出し、ものの数十秒で測り終わると帰っていった。
・・・あの鍵職人とやらが一番妖しいな・・・

・・・新たに鍵を取りつけたら、また合鍵を作り直さねばならんのか。
ああ、いとわづらわしきことなり。。


※事実に基づいて書かれていますが、多少は事実と異なる部分もあります。
なにぶん2、3日前のことなので。ご了承くださいm(__)m


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