何度観ても悔しいし、何度観ても泣く「告発の行方」 [映画]

     
「告発の行方」

ジョディ・フォスターが強姦被害者となる社会派ドラマ。
何度観てもいいものはいい、というわけで、
未視聴の方は絶対に観て欲しい。
男性も、女性も。

以下、ネタバレ有りの感想。

今回、WOWOWでアカデミー特集をやっていて、
「告発の行方」吹き替え版をやってくれました。
W主演の形式だと思うのですが、
今作でアカデミー賞主演女優賞、
ゴールデングローブ賞を受賞したジョディ・フォスターの圧倒的な演技に、
抑えめの演技で検事補役を好演したケリー・マクギリスさんはちょっと蚊帳の外。

物語の序盤は、人柄も不明なジョディ・フォスター演ずるサラが、
強姦の被害を訴えたことから、ある意味一方的な展開を想像させます。
レイプ犯たちは場末の安酒場にとどまっていて、
あるいは普通に日常を過ごしていて簡単に逮捕されます。
ところが、これはあくまでも序盤の序盤。

サラの奔放な人となりが発覚するにつれ、
検事補のキャサリンは裁判が不利になると懸念し始めます。

このあたりで、観ているといやぁな気分になること請け合いです。

サラは事件当時、マリファナを吸っていたり、酔っ払っていたり、
また前科があるのを隠していたり、
レイプ当夜の弱々しくかすれた声で救いを求めていた少女のような姿とは
一変した素顔が明らかになっていきます。
エリート検事補で、見るからに育ちのいい、知的なキャサリンと、
町外れのトレーラーハウスでクスリの売人と同棲し、
実家に電話しても「またお金?」と厭われてしまうサラとでは、
まるっきり正反対。

それでもサラは逃げようとはせず、
レイプ犯たちを裁いてくれとキャサリンに訴えますが、
当夜の証言を集めるにつれ、
キャサリンは〝サラにも非があったのでは〟という意見に傾いていきます。
キャサリンは周囲の意見も考慮して、
強姦ではなく暴行として弁護士との取引に応じてしまいます。

幸福そうなキャサリンの私生活。
その笑顔にはサラの事件の翳りなど一片もありません。
取引を知り、怒り狂ってキャサリンの自宅を訪ねるサラは、
唯一の味方と信じていたキャサリンに
〝お前にも非があったのだ〟と思われているのだと感じ、
自分が孤立無援なのだと感じます。

情緒不安定なサラを支えてくれるはずの彼氏も、
結局は面倒になって家を出て行きます。

努めて強く振る舞おうとするサラは、
髪を短く切り、〝強い女〟を主張したスタイルになります。

このあたり、最近ですと「ミレニアム~ドラゴンタトゥーの女」を想像させます。
リスベットも虐待を経験した女性で、
彼女の見た目、スタイルも、相当過激です。
近づかれないように針で覆う、というイメージ。

もう終わったこと、と忘れようと試みるサラですが、
店での事件を観ていた男がサラを揶揄して挑発します。
レコード店から逃げるように去るサラの行く手を軽トラックでさえぎり、
ニタつきながら下品な悪態をつく男。
サラはこらえきれず、自分が傷つくこともかえりみず、
憤怒を爆発させたように車をぶつけます。

傷つき、入院するサラ。
サラを煽った男は「俺は何にもしてないのに」と怒鳴りちらします。
キャサリンはその男の腕に、
〝あの夜その場にいた〟証言にあったサソリの入れ墨を見つけます。
サラを見舞うキャサリンは、
レイプで傷つけられたのは肉体だけでなく、心も同様なのだと改めて気づきます。

キャサリンはサラのためにもう一度立ち上がる決心をし、
直接の暴行犯ではなく、レイプを見物して煽った男たちを、
教唆犯として訴えることにします。
今度こそ取引はしないと約束を交わし、
サラも証言することになります。

このへんでやっと、
すれ違っていたサラとキャサリンの気持ちが歩み寄りをみせます。
この作品に限らず、「評決のとき」でも、
白人と黒人という、立場の違う弁護人と被告が描かれますし、
法廷ものでは立場や思想の違いが論点となることが多いですね。

いよいよここから、最初に通報した大学生ケンの証言によって、
あの夜、客観的になにが起こったのか?
が、描かれます。

店に登場したセクシーなサラ、
男たちを挑発するように行動し、
心配する女友達を馬鹿にし、知らない男たちとピンボールゲームに興じます。
酔っ払いたちの視線を釘付けにする挑発的なダンスも披露します。
しかしソノ気になった男がエスカレートすると、
サラも徐々に正気を取り戻し、「帰らなきゃ」と訴えます。
サラの酔いがさめ、興奮がダウンするにつれ、
むしろ周囲の空気はエスカレートし、
「やっちまえ」というコールに従い、
最初の男がサラをピンボール台に乗せます。
口を塞がれ、首を締め付けられたサラは叫ぶこともできません。
一人が終わって、揶揄する声がまた次の男を挑発します。

ここで店のウエイトレスが人垣の中を覗き込み、
揺れる男の頭を見るんですね。
表情からして、「あぶない、とめなきゃ」みたいな理性がうかがえます。
ところが別の男に「次にどうだ?」とからかわれ、
誰にも見つからないように、懸命に店から逃げ出すんですよ。
止めることもできず、何もできなかった。

男の人は、女の人が身体的、精神的な性的被害にあったとき、
〝どのくらい怖いのか〟
おそらく、まったく理解できないと思います。
これを例える表現を考えたんですが、まったく思い浮かばない。
(カラダの中に他人の排便を注入されること、とかも考えてみましたが、やっぱり違う)
それくらいに、独特で怖い。
私はもう五十近いですが、それでも怖いし、
性的な揶揄には心身共に萎縮します。
実際にこんな犯罪被害に遭われた方の苦痛は想像を絶するでしょう。

三人目の行為が終わる前に、
証言をした学生が通報するため店を出て行きます。
三人目が終わった隙をつき、サラは店外に逃げ出します。

裁判は、言うまでも無く陪審員制です。
弁護士は陪審員に訴えます。
「サラの証言は生々しく心が痛む、
しかしケンの証言は、あくまで主観にすぎない」
と。
被告人たちがレイプを煽ったのは、
〝それがレイプには見えなかったから〟だと。
「より多数がソレをレイプだと認識していたら、
みんな煽ったりしなかったでしょう」
と。

んー、ここでもサラの素行というか、
全体的な人物否定ですね。
短いスカートを履いていた。
男を煽ってピンボールしていた。
セクシーダンスを踊っていた。
ゆえに犯されたのは自業自得だ、というね。
難しい問題で、一概になんとも言えない。
少なくとも自分が親で、娘が年頃なら、
性的被害に遭わないための最低限の教育はしそうですが、
短いスカートなんて、みんな履いてるし、
ゲームくらい楽しんでもよくないか?
ダンスだって、どこから不健全で、どこから健全なの。
一つだけ確かなのは、
サラがどういう人物だろうと、性的被害があっていいはずない、ということだけです。

これに対するキャサリンの最終弁論。
「ケンはどこにでもいる普通の青年で、
彼の感じたことこそ、普通の人間が共感する犯罪への脅威」
つまり、煽った連中が特別な犯罪者だという弁ですね。

こうして検察側の勝訴で事件は収束を迎えます。
途中でキャサリンが地方検事局を「クビだ」と言われる描写があるのですが、
上司らが見守っていたところをみると、クビにはならなかったと思いたいですね。

「告発の行方」が素晴らしいのは、
通常、悲劇的な被害者として描かれるレイプ被害者が、
〝どこの酒場でもいそうな女性〟だという点だと思われます。
男の人たちは、そういう女性の人格を認識しませんが、
スカートが短かろうと、セクシーダンスを踊っていようと、
厭なものは厭なわけです。
そして、ケンの目を通すことで、
〝全部の男性がそうじゃない〟ということも主張しています。
健全な人たちが、つまりはケンの側が多数ならば、
このレイプ事件は起こらなかった。

しかしラスト、当時のアメリカでは「六分に一人」の割合でレイプ被害者がうまれ、
そのうち四件に一件は複数犯だというテロップが流れます。
女性には危機感を抱かせ、
男性には理性を求める、
たぶんそういう意味で、先進的な映画だったんじゃないかなぁ。

それにプラス、
キャサリンという、サラと正反対の女性を出すことで、
女性による女性蔑視への警鐘も、語られていると思います。

1988年の映画なので、現状とは相違点も多いですが、
観る価値のある映画だということは間違いないです。

ちなみに、今作に比べると、
同じジョディ・フォスターが主演で強盗被害者をテーマとした2007年「ブレイブ・ワン」は、
かなり〝違うんだよなぁ〟感が強いです。


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