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「父親たちの星条旗」 [映画レビュー※ネタバレ注意]

まず、クリント・イーストウッドのアイデアに称賛を送りたい。もしこれが日本側の物語が「遺族、戦争の英雄たちの戦後」を描き、アメリカ側が「激戦の地で我々はどう戦い抜いたのか」を訴えるものなら、凡百の「9・11後のアメリカ国威高揚映画」の片隅へ小奇麗に収まる作品となっていただろう。アメリカ人にとって見たくない部分ーー英雄は英雄足り得ず、ジャップという名の黄色い猿にも家族があり、勇猛に戦って悲壮に死ぬーーを描き出すことによって、日米双方にとって納得のいく作品とすることができたと、私は思っている。「納得」の行き着く先はもちろん「戦争」に対する「戦後のわたしたち」の意識である。戦後はいつ終わっていたのだろうか、ということへの問い掛けである。

注意しておかなければならないのは、この作品が決して「アメリカ人」に対して第二次世界大戦の認識を改めるように迫るだけではなく、勿論「敗戦国」日本人の溜飲を下げるだけの物語ではないことだ。映画はそんな安易な落としどころを超えて、もっと普遍的な部分に立脚している。

「父親たちの星条旗」で描かれるのは、「アメリカの銃後」である。不勉強な私はこの作品で初めて知ったのだが、当時アメリカの国力は疲弊しており、厭戦気分が蔓延していて米財務省は国債購入に四苦八苦し、戦争を続けることが難しくなっていた。そこで財務省はこの「硫黄島の英雄」に目をつけ、彼らを国債購入のマスコットとして全国行脚のツアーにだす。旗を立てたのは6人だが、生き残ったのはそのうち3人だけだった。衛生兵と伝令兵とアメリカ先住民族出身の兵士。3人はそれぞれの「戦後」を抱えながら、「英雄」としての立場をまっとうしようとする。戦地でなくなった戦友のために。

(既知の人にとってはなにをいまさらだろうが)硫黄島の激戦は日米双方にとって大変重要な意味があった。日本側にしてみれば、ここを落とせば本土空襲が容易になり、アメリカ側にしてみれば補給地点が出来るので本土攻撃を成し遂げるためにも是が非でも落とさねばならないまさに天王山であった。そうなると、通常の映画なら(プライベートライアンという「駄作」の場合など特にそうだったが)ここぞとばかりに「アメリカ側から見た」戦闘場面に力を入れるのだとは思うが、今回、そういったシーンは3人が花火をみたり、なにか連想するものに遭遇したときのフラッシュバックとして想起される「記憶」の中だけであり、その構成が見るものにまるで不意打ちのような鮮烈な印象を与える。このあたりポール・ハギスの脚本は見事としか言いようがない。彼は「クラッシュ」でも多民族国家における多重構造の差別について描いていたが、その視点は今作でも生かされており、あの有名な硫黄島に星条旗を掲げる6人のうち一人だけアメリカ先住民族出身の兵士がおり、彼は硫黄島攻略の英雄に祭り上げられながらも、決して「名誉白人」にはなりえない現実を突きつけられることになる。では残りの二人の「英雄」はその後「順調な」人生を歩んだかというとそうではない。結局戦後を生き抜くためには戦歴よりも兵士になる以前どうであったかが重要となってくるという事実が厳然と聳えていた。そのため一人は安泰な人生を送れたが、あとのふたりは。そこで「われわれは君たちを見捨てない」という軍上層部のかけた言葉の残酷さが問われてくる。もっともその言葉の意味は繰り返し映画の中で問われてくる。硫黄島に向かう船団の上を戦闘機がすれすれに通り過ぎていく、これから行われる戦いの高揚もあり興奮した兵士たちは艦隊のへさきだのによじ登り歓声をあげるが中の一人が海中へ落ちてしまう。すぐに浮き輪を投げるが届かず、周りの兵士は「船が止まるだろ」と悠長に構えているのだが、速度が落とされることはない。そのまま戦艦は進み「兵士を見捨てないっていうのは」と新兵がポツリと呟く。残酷な現実が口をあけて彼らを待ち受けている。

しかし戦争の真実とはそれだけではない。私がプライベートライアンを見て感じた違和感はなにも黒澤からの引用が多すぎるとか最後がまるっきり西部劇の騎兵隊だ、とかそういうことではなく、ある一面からの真実しか描かれていないことに由来する。つまり「戦争ってこんなに残酷なんだよ」という側面のみ見せ付ける点である。「父親たちの星条旗」がそういった紋切り型映画と決定的に違う点は、そこを一歩踏み込んで、死ぬことも生き残ることも、本人と家族へ多大な傷と悲しみを背負わせることであり、そこに対する大衆の無理解さ、不寛容を表現したことにあると私は思う。いままで「一兵卒」の観点から描いた戦争映画は数多いが(プラトーンしかりフルメタルジャケットしかり)、「英雄」の観点からみた映画は本作が初めてだろう。畏怖すべき(そして忌むべき)彼らの観点から語られた「語られない戦争」の真実。国は兵士を見捨てるが戦友は見捨てない。映画の中で語られるこの言葉の意味は大きい。では見捨てたのは軍上層部だけなのだろうか。

忘れてはならないのは、彼らは望んで戦地へ赴き、そして人殺しをしたわけではない。私たちのために、国のために、正義のために、他国の人間を殺したのだ。彼らを戦争へ駆り立てたのは私たちなのだ。国はそれ自体単独で成り立っているのではなく、わたしたちの共同幻想によって作り上げられている。そのことを忘れたとき、また国旗が掲げられるのだろう。傷ついて荒廃した新たな「摺鉢山」の上に。

おそらくこの映画のシーンで「硫黄島からの手紙」とクロスするのは二つ。一つは、主人公の一人である衛生兵が洞窟で自決した日本兵を発見する場面。かなりグロ画像のような状態になっているのだが、ひとりなにか手紙のようなものをかたわらにして拳銃自殺している。あれが栗林中将ではないかと思うのだがどうだろうか。(史実とは異なってしまうのでバロン西か別な日本側の登場人物かもしれない)もうひとつは衛生兵が壕の中に残してきた(チームを組んでいた)新兵が、そのまま日本兵の潜む洞穴へ引きずり込まれかなり残虐な殺され方をしている場面(死体そのものは映し出されずただ悲痛な衛生兵の顔立ちによってどれくらい悲惨な状況か伺えるようになっている)。ここが「硫黄島からの手紙」で日本側の視点として描かれると思う。とまれ「硫黄島からの手紙」が非常に楽しみである。二つの作品まとめてでいいから是非アカデミー作品賞を受賞して欲しいと私は思う。

私の叔父は北支(北部中国)で従軍していた。かの地で衛生兵と戦友となり、自分の妹と結婚させた。映画でも伝令兵が衛生兵に結婚式の介添えを頼む場面が出てくる。「故郷の友達とかいないのか?」と尋ねる衛生兵に対し、「いや…もう彼らとは何か違うんだ」と答えるくだりをみて、私は叔父たちを思い出した。彼らの絆は幼い私がみても何か別のものを感じさせた。父はその叔父から捕虜を斬首した写真を見せられたそうだ。それは彼が自分で撮ったものなので、対日工作用のプロパガンダ画像ではない。そういう現実はある。だが彼らも「誰かを守るために」戦っていたのだ。ありのままの戦争を見つめよう。最後に映画が語りかける言葉の意味を、われわれはもう一度見つめなおすべきだ。語られない戦争に目をむけ、私たちの「戦後」を終わらせるために。


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ken

書き出しこそ一緒でしたが、その内容はまったく違いましたね。
「戦争に目を向ける」ということが、この先リアリティを伴わない、
つまり「懐古」とならない時代が来る可能性は大いにあって、
そんな時代になったとき、戦争映画ははたしてどうなっているんだろう
と僕は思いました。
そんな想像はうすら寒いのですが、そうなったときに昭和30年代生まれ
の僕たちは一体何が出来るんだろう、と時にマジメに考えます。
僕も身内に(父)戦争体験者がいるだけに、どうしても他人事ではなく。
by ken (2006-12-04 01:29) 

瑠璃子

コメントとnice!ありがとうございます。実はkenさんのブログには「硫黄島からの手紙」の感想がUPされた後、まとめてコメントつけようと思ってました。正直、この「父親たちの星条旗」だけの感想をUPすることにたいして抵抗があったのですが、私としてはあまりにも面白かったのでついつい…。アンチプライベートライアン派の私としては、きちんと戦争を描いた映画にようやく出会えたと思ったんですね。なにせディアハンターもプラトーンも「ベトナム戦争」であり、あれはアメリカの内省的な問題となってしまっているような気がするので。どうも「いまここ」の「私たちの問題」とは捉えがたい部分があります。
最近思うのは、もしかしたら戦争映画が「いまここ」で起きた出来事を抽出する時代がくるかもしれないなということ。戦争が身近になる時代とリアリティを伴わない時代、どちらがくるのか。そして「どちらも」きてしまったとき自分はどうするのかということ。
そのときは「懐古」の時代を懐かしく思えるのでしょうね。本当に薄ら寒く恐ろしい光景です。硫黄島からの手紙、どれだけ迫っているのかちゃんと見届けようと私は思ってます。
by 瑠璃子 (2006-12-05 10:00) 

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