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引き寄せるべきか寄り添うべきかそれは問題か。「ホテル・ルワンダ」と「朝鮮人虐殺」について [たまには真面目に語ってみる(コラム)]

BigBangさまより以下のようなエントリーのTBをいただいた。

「引き寄せずとも寄り添えるのではないか。-----ホテル・ルワンダと関東大震災を結ぶ視点」

上記エントリーには私なりの返答をコメントしたが、以前書いた記事とあわせることにより、ある程度私の立ち位置がみえてくるように思えたので、つけたコメントを記事として作成することにした。コメントそのものをコピペしたのものではなく多少は変えている。コメントしているので、該当エントリーにはTBしない。

『TBありがとうございます。瑠璃子と申します。
思うところがあったので、何点か記します。長文になります。ご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願いします。

まず職業倫理と家族愛(便宜上用います。家族を救いたいというただそれだけの感情ですね)という映画の見方ですが、私は映画そのものを見た場合、管理人さんがおっしゃるとおりの読み取り方になると思います。ただ私が実際にルセサバギナ氏の講演を聴いた限りでは、ルセサバギナ氏ご本人は非常に職業倫理の強い方であると思われました。なぜならあの虐殺事件があって亡命して三週間後にはホテルに戻られているそうですから。お掃除をなさったそうです。(ルセサバギナ氏はルワンダ人としてははじめてあのような副支配人というホテルマンとしての地位を得られたそうで、そういう意味で彼はその部分に誇りと矜持をもっていて当然だろうと思われます)もちろん映画ではそこまで語られてませんから(おそらくは監督の意図としても職業よりも家族愛を優先したと思われます)管理人さんの記事のような感想になるとは思います。そういう前提条件があるということをまず提示してから以下に話を続けます。

私が気になっているのは「町山さんが韓国系日本人であるから朝鮮人虐殺を恣意的に取り上げている」というブログ記事が多いことです。恣意的というからには、関連性がないことを無理やり一緒にしているという例を提示するべきである、ゆえに、例題として関東大震災における朝鮮人虐殺がふさわしいかふさわしくないか、で語るべきであると考えてます。韓国系だから朝鮮人虐殺をとりあげたという論調には依拠する根拠がなければ差別的なニュアンスという風に受け止められるのではないでしょうか。特にブログ記事内にその理由を記載してない場合はよけいに差別的文言として感じられてしまう恐れがあります。(町山さんは日本人にアイデンティティがあると述べられているわけですし)昨今の民主党における堀江メールではないですが、申し立てた側に反証責任があると私は考えます。

ではなぜ町山さんはパンフレットにおいて「関東大震災における朝鮮人虐殺」をとりあげたのか。

映画の中で非常に象徴的なシーンが登場します。フォアキン・フェニックス扮する記者が「結局ディナーの話題で終わるだけだ。こわいね、ああそうだね、って」と告げる部分です。この映画が訴えたいのはもちろん「ディナーの話題で終わらせるな」つまり「いまここ」で起こるかもしれない出来事である、ということではないでしょうか。(もちろん管理人氏はそんなことは先刻承知で釈迦に説法でしょうが、あえて書きました。失礼があればご容赦を)ではディナーの話題ではなく「いまここ」で起こりうる出来事としてとらえるにはどうしたらよいか。その方法論として、管理人さんのおっしゃられる「アフリカの現状に寄り添う」ということと、町山さんの書かれた「日本でも似たようなことが起きたんだよ」(イコール日本でも起きた近似する事例を元に「いまここ」で起こる可能性を連想させる)があると思うのです。つまり管理人さんの主張と町山さんの記事は、「A」というテクストを前にして「B」という方法論をとるか「B'」という方法論をとるのか、という選択肢の相違という風に私には見えました。自分を相手の現状へ身をおくか、相手の現状を自分の身にひきつけて考えるか、その差ではないでしょうか。

私はどちらの方法論も有効だと思います。

管理人さんのおっしゃる方法論は結局分析することによって具体的にアフリカの現状、それを囲む世界の現状を相対的に考えることができます。ただやはりそれにはアフリカの民族形成状況、植民地統治国との関係性、歴史などを学ばなければなりません。残念ながら、そうした「学習」を億劫と感じてしまう人もいるという現実もまたあります。(「ホテル・ルワンダ」試写後のルセサバギナ氏を招いたパネルディスカッションにおいて、私の周囲にいた参加者がかなりの数で寝ていたことを思い出します)
そういう「億劫」と感じてしまう人々に対しては、町山さんのとった方法論は有効ではないかと。ディナーに終わらせようとしても、日本で実際に「同じような」事例が起きていることを知れば、「いまここ」の問題として捉えることができる、遠いアフリカで政治状況も違った自分とは関係のない出来事とは思えなくなると思います。しかし、管理人さんのおっしゃるように、結局は似た例を提示しているだけで、根本的なルワンダの現状を見据えることにはならない、というご指摘もごもっともです。

この問題はどちらの方法論を選択すべきか否か、またはどちらが適切でどちらが間違っているか、ではなく、どちらの方法論を取得するにしろ、その先―想像力と知識をきちんと得る努力をする、ということではないでしょうか。その点で、発端となった方は、知識不足の問題は否めないと思います。どちらにしろ大切なのは「いまここ」で起きている問題と捉えることであると私は考えてます。』


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わらばー@見ッチェル

相手に寄り添う、引き寄せるという2つの方法論があるということですね。言語の例を取れば、ある英単語を(翻訳できないニュアンスを考慮して)そのまま使うか、それとも(外来語ではわかりにくいから)日本語に翻訳するのか、という問題があります。決してどちらかが一方的に有効だというわけではありませんが、やはりわかりやすくなるのは翻訳、すなわち引き寄せるほうではないでしょうか。これがルワンダであれアイルランドであれパレスチナであれ、我々今現在の日本で起きていることでないのだから、100%同じ事例を求めるのは難しいでしょう。そしてもちろん、100%同じような虐殺がこれまでなかったと安易に考えてしまっては、この映画をディナーの話題にするだけ、に終わりかねないのではないでしょうか。
ルワンダの事例と関東大震災の事例は当然様々な点で異なる部分はあるでしょうが、それでも不適切な事例とは言い難いと思います。
by わらばー@見ッチェル (2006-03-01 11:58) 

BigBangお

こんばんは。お邪魔します。当該のコメントに関して拙ブログで返しましたので多くは語るべき言葉はありませんが、ちょっと違う話をします。

町山さんのスタンスを見るにつけ、やはり「在日n
by BigBangお (2006-03-02 02:42) 

BigBang

#ごめんなさい。途中で押しちゃった。
by BigBang (2006-03-02 02:44) 

BigBang

町山さんのスタンスを見るにつけ、やはり「在日の方」の立ち位置の難しさは痛感しますね。このあたりはカンサンジュさんあたりが、散々おっしゃっていることではありますが。
by BigBang (2006-03-02 02:45) 

南郷力丸

 差別の構造を作るのは「上」の人だけど、実際にするのは「下」の人ということがよく言われるわけです。
 それで、寄り添うにしても、引き寄せるにしても、離れた事件の、どの人たちに、自分が寄り添うかということです。例えば「カサブランカ」を観て、私は、ボガードやバーグマンの夫じゃなくて、警察署長に寄り添ってしまうわけです。
 脇道にそれますが、そうなると「戦争」とか「テロ」という問題は、この映画の制作者の立場やナチの立場と全く、違う視点が産まれるわけです。「将来、日本が戦争に」という話になり、「カサブランカ」を引き寄せても、その時の日本は「ビシー政権」なの「ドゴール軍」なのという前提が不可欠になってしまうんですね。
 閑話休題。
 何か、元になった人の場合、映画の中で、殺される側に寄り添うのはいいが、引き寄せちゃうと、自分の位置への妄想が崩壊しちゃう不安みたいなのを感じて、引き寄せたくないのか、そんな気がします。
by 南郷力丸 (2006-03-02 05:18) 

Mudaidesuvic

こんにちは。TBありがとうございます。私からもさせていただきました。

>私が気になっているのは「町山さんが韓国系日本人であるから朝鮮人虐殺を恣意的に取り上げている」というブログ記事が多いことです。恣意的というからには、関連性がないことを無理やり一緒にしている

自分のとこでも書いたんですが、朝鮮人虐殺を取り上げるのは妥当もなにも超普通だと思うんですけどねえ。というか、何を連想するかなんて人それぞれだし、誰がパンフレットにどんな文章を寄稿しようが勝手だろう、とか元も子もないこと思ってます。「有頂天ホテル」のパンフレットに、「朝鮮人虐殺」の話書いてたら「はあ?」ですけど。

なんかいろいろネガティブに、それこそ「恣意的」に解釈する方が多いなあと。気持ちはわからないでもないんですけどねえ。そういう思考の方が興味深いです。いや、昨今の状況を考えると、別に驚くことではないんですが。なんでもかんでも「日本への攻撃」と感じちゃうのか、被害者意識が強すぎるような。心配しないでいいよ、大丈夫だよ、と声をかけたくなります。
by Mudaidesuvic (2006-03-03 03:01) 

マルボロ

本筋ではないのですが、というか、本筋についてはみくしに書いたので、「職業倫理」や「家族愛」についてちょっとひとこと。
と、その前にリンク先のBigBangさんのコメントにながなが感想書いてしまったのですが
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2006/01/post_92b6.html
ぼくはルセサバギナ氏の行動を、「職業倫理」に由来するものとも「防衛本能」に由来するものとも感じませんでした。混沌とした状況のなかで唯一すがることのできたのがホテルの格式でありホテルマンという職業的仕草であった、というのが映画を観たときの素直な印象でした。その際、象徴的な仕草にすがるというのは、「家族を救う」とか「生き残りたい」という目的のために用いられる手段などではなく、そのような象徴を通してしか正気でいられることができないというような、もっと切実なものだと思います。それゆえに、あくまでもホテルマンとして振る舞うなかで、「家族への心配」といった個人的な関心領域からは逸脱した行動が生まれてきた、というような。ここには人道的動機だとかいう人間主義的なものはないが、より根本的な次元での人間的なものが現れているのでは、という風に感じます。
それでは失礼します。
by マルボロ (2006-03-03 05:00) 

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