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Emotion Is Logical [Archives]

昨日、ある相手と口論になった。
突き詰めて話を聞いたら
「生理的にムカついた」らしい。

腑に落ちないので理由を尋ねると
「いちいち論理的な説明を求める
 その物言いが気に食わない」
とか言われて、余計に話がこじれた。

そして持ち出された次の一手が
「感情的なモノは説明しようがない」
でもホントにそーなのだろうか?

この主張には暗黙の前提がある。

    

デカルトが言うところの「心身二元論」だ。
①「肉体」と「精神」は別個の存在であり
②「霊魂」が精神を動かしているのだから
③「精神」の動きはいわば「神」の領域
だから感情は論理じゃ説明できないと棚上げにする。

確かに人間の感情には説明不能な部分がまだある。
でもだからって、このままでイイのかよ?!

俺は突き詰めれば「感情は論理的」だと思う。
人間の脳を「自然が作り出したコンピューター」
だと考えれば、大抵の事は説明可能だからだ。

最近はこうした考え方が医学や生物学、心理学の
研究者から提起された事で、「認知科学」という
新たなジャンルが生まれ、研究が進んでるのだが
俺が知る限り、多分この考え方の言い出しっぺは
この本だと思う。

スピノザの『エチカ』だ。

スピノザは「汎神論者」だ。
ものすごくおおざっぱに言うと…
①自然界のあらゆるモノは絶対神が作った!
②てゆーか自然そのもの、全てが神なのだ! 
③人間も自然の一部だから神の一部!
 だから神と人間は一体だ!

…と主張して“神様は絶対に間違いなんて
しないから自然界の全ての物事は起こるべく
して起こる運命にあるのだ!”みたいな
「決定論」を展開していく。

但し「神はいる」としつつ、マインドは数学者。
「神=自然の法則=論理的に説明できるモノ」
だってさんざん説明した上で
“神様が人間の為にこの世を作ったってのは
非論理的じゃねーか?
だったらなぜ暴風雨や地震で人が死んだり
するんだよ?”みたいなツッコミを入れる。

でもって「神=自然界で起きる全ての現象に
原因と結果はあっても目的はない」として、
“ユダヤ教やキリスト教の教義は大ウソだ”
と言外にほのめかす。

要するに神を都合良く棚上げして自然界の
全ての現象を論理的に説明しようとする
「唯物論者」であり、その意味で前回紹介
したドーキンスとも考え方がよく似てる。

で、そんなスピノザが書いた『エチカ』は
文章が「定理」と「証明」の掛け合いから
なる数学的体裁を取っていて、文末には
「Q.E.D.(証明終わり)」が連発される。

おかげでどーにも読みづらいのだが、
その中で面白いと思ったのはスピノザが
“人間の根本的な感情は3種類しかない”
と論理的に定義しようとする部分だ。

スピノザいわく1つ目の感情は「欲望」。
「自分を維持するのに有益なモノを求めよう
とする努力」って定義。食欲とか性欲がコレ
に入るんだろうか?

で、あと2つはと言うと「喜び」と「悲しみ」。
「喜怒哀楽」って言葉もあるのに、思い切り
2つだと断言しちまう。ここが斬新だ。

一見、かなり強引な割り切りに見えるけど
スピノザの主張は論理的でエレガントだ。

まずは「喜び」。
例えば、自分を好きになってくれる異性が
現れたとする。
「俺も意外と捨てたもんじゃねえなぁ!」
みたいに、自分が「大きく」感じられる。
この自分が「大きく」感じられるってコトが
「喜び」の正体だというのだ。
確かに欲しいモノを買ったり、うまいモノを
食うと、それまでは満たされなかった自分
が満たされて、自分が「大きく」思える。

逆に「悲しみ」ってのは、好きだった異性に
愛想尽かされたりして、
自分が思ってたより「小さく」感じられるって
コトだと定義される。
金が無くなったり、仕事で失敗してショボン
となるのも、自分が「小さく」思えるからだ。

さらにスピノザはその他のいろんな感情も
「喜び」と「悲しみ」、つまり自分がそれまで
と比べ「大きく」思えるか「小さく」思えるか
の差1つで次々と定義していく。

例えば「憎しみ」は…
「悲しみ」のベクトルが自分という「内側」
から他人という「外側」に向きが変わった
だけの変形バリエーションになる。
逆に「愛」は「喜び」のベクトルが同様に
外側向きになった変形バリエーションだ。

「恐怖」は…
“どうなるかハッキリわからないけど何か
悪い方向に転がりそうな気が”みたいな
「不確かな悲しみ」で、「希望」はその逆。

「ねたみ」は…
「他人の幸福を悲しんだり、他人の不幸
を喜ぶようにと人間を突き動かす憎しみ
(=悲しみの変形バリエーション)」で、
「同情」はその逆。

「自己満足」は…
“自分自身や自分の能力を観察してる時
に感じる喜び”で、逆が「謙遜(劣等感)」。
…とかいろいろ。

スピノザは300年以上前の人間だし
それが全て正しいワケじゃないけど
意外とこんな感じで整理してみると
大抵の人間の感情ってのは論理的に
説明可能じゃねーか?

要するに心の中にわき上がった怒り
や苛立ちは「霊魂」に操られた
肉体とは別物の精神の動きじゃない。
だから「感情的なモノは説明しよう
がない」ってのはおかしいと思う。

結局、腹立てたコトでアタマの回転が
鈍って、感情の「原因」と「結果」を
論理的に道筋立てて説明できないって
だけの話だと思うのだ。

昨日の口論相手の口から迸り出た
言葉は俺のアタマの中では論理的
整合性がつかなかったのだけど、
多分、俺の物言いのどこかが怒りを
掻き立て、結果として口論相手を
「小さく」感じさせたのだろう。

それは俺の非かも知れないし、
相手の心理的トラウマによるもの
かも知れない。俺はその根本的な
原因を知りたかっただけなのだが
腹を立てた人間にそう説明すると
納得どころか、さらに腹を立てる。

そして俺は「意味がわからない」と
問いつめては、輪をかけて相手の
感情を逆撫でする。しかもそんな
時に限って俺のアタマはフル回転
し始める。なんでなんだろ?

思うに、もしやこの手の口論は
俺にとっては自分自身を思ってた
よりも「大きく」感じさせてくれる
「喜び」なのではないか?

いつもながら、口論の後も全く
自分が「小さく」感じられる
ような自己嫌悪に陥らない事も
俺のこの仮説を裏付けている。

 

俺って根っから底意地悪いと思う。
そしてだからこそ確信している。
やっぱり「感情とは論理的」なのだ。


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