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宝くじは買わない [Archives]

ちょっと前に銀座か有楽町か歩いてた時の事。
駅前広場を塞ぐ長い行列を突っ切ろうとしたら
貧相なオヤジに「ズル込みするな!」とドヤされた。
宝くじの発売初日だったらしい。

俺は宝くじを買うつもりなど毛頭なかったのだが
俺がズル込みしたら「自分の運が逃げる」とでも
思ったのだろうか?
腹が立つとか立たないとか言う以前に
どーにも俺はそのオヤジを不憫に感じてしまった。
「こーゆー奴はいつまでたっても幸せになれない」
と直感的に思ってしまったのだ。

元々宝くじの高額賞金の当選確率は極めて低い。
でも今回はそんな単純な確率統計論を言いたい
のではない。結果として当たろうが外れようが
「宝くじを買う」というその行為こそまぎれもない
「ダメ人間」の証だと言いたいのだ。

なんてまたこんな事を言い出したのか言うと
きっかけとなったのがコレ。

伝奇集

伝奇集

  • 作者: J.L. ボルヘス
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1993/11
  • メディア: 文庫

アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの
『伝奇集』に『バビロンのくじ』という寓話がある。
またいつものクセで少々長くなるが、ストーリーを
説明しておこう。

むかしむかしバビロニアの国に庶民の遊びとして
「クジ」が作られた。よくある宝くじだ。
でも緊張感がなく、盛り上がりに欠けるというので
改革が行われる事になった。

当たると賞金が貰える普通の「当選番号」と別に
逆に“当たったら罰金を払わなければならない”
という「負の当選番号」が追加されたのだ。

この改革で国民はクジに熱中するようになり、
クジを買わない者は「臆病者」と見なされて
いつの間にかクジに参加する事が国民の義務
であるかのようになっていった。

終いにはクジの売り買いさえ面倒になったので
国民は全員腹に「入れ墨」を彫られる事になり、
その入れ墨で賞罰が決定される事になった。

だが、罰金を払えず投獄される者が続出した為
いつしか「負の当選番号」を引き当ててしまった
国民は有無を言わせず投獄されるようになって
「焼けた鉄で責められる」「舌を焼かれる」
などの細かな罰則規定がどんどん追加された。

さらにクジの仕組みはどんどん謎めいていった。
無限の権限を持つ「クジの主催組合」が絶えず
国内を監視し始め、国民は密かに行われたクジ
の賞罰を“自分でも気づかぬうちに”与えられる
ようになっていったのだ。

例えば運がいいと「再びめぐり会えるとは思って
なかった女」に“役人の手回しで”出会える反面、
運が悪いと事故に見せかけた“役人の手回し”で
足を切断されたり、殺されたり…という具合だ。

そして挙げ句には全てを取り仕切る「クジの主催
組合」の存在さえ疑問視されるようになった。
国民の中にはそんな組合は「かつて存在したこと
がなく、将来も存在しないだろう」と憶測する者も
あるという…

ボルヘスは我々が呼ぶところの「運命」ってモノを
「クジ」の概念を使って見事に説明してる。
そして「クジの主催組合」ってのは言うまでもなく
「神様」のことだ。

こんな神様がホントに存在するのかどうかは意見
の別れるところだと思うが、
確かに人間は運命という「クジ」に翻弄されている。
しかもその「クジ」が平等かどうかはわからない。
まさしく「神のみぞ知る」ってヤツだ。

ここから議論を進めると、宝くじを買う人間には
2つの心理が働いているのだと思う。
1つは「運を変えたい」って心理。
もう1つは「バビロンのくじ」と違って「罰則はない
のだから参加しないよりした方がマシ」って心理。

でも、実はここに大きな落とし穴がある。
宝くじでできる事と言えば、せいぜい当たりやすい
売場に足を運ぶぐらい。ロトやらナンバーズやらも
あるにはあるが分析可能な要素ってのは殆どない。
結局のところは「神頼み」。
「神頼み」に身を委ねるのはバカのやる事だ。

「運命」に関するボルヘスの考察は確かに鋭い。
でも処世術的アドバイスはしてくれてない。
だから俺がその続きをやってみよう。

例えばアナタが危機的な状況に陥って
「神様、どうか助けてぇ〜!!」と願をかけたとする。
でもよく考えてみてほしい。
そこでアナタを危機に陥れたのも、実は神様だ。

だって神様に森羅万象の法則を覆してアナタの危機
を救うほどの奇跡を起こす力があるのだとしたら、
そもそも神様はなぜアナタを窮地に追い込んだのか?
危機に陥ったアナタが「神様、どうか助けてぇ〜!!」
と願をかけるであろう事は神様も充分予測可能だった
はずではないのか?

こう考えると、危機に陥ったアナタが第1にすべき事が
「神頼み」ではないのは明らかだろう。

よく成功の秘訣は「才能」「努力」「運」だと言われる。
正直、俺もちょっと前まではそうだと思ってた。
でも今回『バビロンのくじ』を久しぶりに読み返したら
ちょっと考えが変わってきた。

「運」ってのは、言い換えれば「不確定要素」だ。
しかもそれがもたらす結果はあくまで「主観的」だ。

例えば恋人とピクニックに行く計画を立てたとする。
ところがその日、仕事で急用が入った。
これでピクニックには行けなくなった。
でも逆に、もしもピクニックに喜んで出かけていたら
乗った電車が脱線事故を起こして、アナタも恋人も
命を失ってたかも知れないのだ。

つまり、急用が入った事自体に運の良し悪しはない。
不確定要素がもたらした結果を本人がどう捉えるか
で「幸運」か「不運」かは決まるのだ。

だとすると本当に賢明なのは運の良し悪しに全面的
に身を委ねる事ではなく、「不確定要素」をできる
限り排除する事だ。

言い換えれば「不確定要素」がどちらに転んでもいい
ような対処を予めしておくという事なのだ。
最近の流行り言葉で言うと…

「想定の範囲内です」ってヤツだな。

株式投資も一種のギャンブルだ。
競馬や競艇と同じで、その時その時の出来事や状況を
あれこれ分析し、考えられる結果を想定して賭けに出る。
例え失敗しても「ゲーム感覚のスリル」が味わえたりも
するし、一応それなりの努力は認められる。

でも「宝くじを買う奴」は何を分析するわけでもない。
「この店で買うと一等が出る確率が高い」だとか
根拠のない確率に全面的に身を委ねる。
何の努力もせずに幸運が転がり込むと思ってる。
占いで「ラッキーアイテム」を信じ込んで、身につけてる
バカも同じ。そのふざけた性根が気に食わないのだ。

だいたいそんな「神頼み」で思考停止しちまったバカに
「幸運」なんか転がり込むハズもない。
全ての幸運は予め敷かれたレールの上に走ってくる。
何も考えてないから「俺は不運だ」とか嘆いたりする。
でもそれは「無意識の責任逃れ」に過ぎない。

とどのつまり「運が悪いのはオマエのせい」なのだ。


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