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No345 笠岡市の高島と高島宮 [日本の歴史]

笠岡市の方に失礼ですが、笠岡市を知っておられる方は少ないのではないかと思います。まず、場所を書きます。岡山県ですが、広島県との県境で、福山市から直線距離で14km。倉敷市から南西に直線距離で28kmのところにあり、瀬戸内海に面しています。
出来ればWEBの地図をだして眺めてください。
海の方に目を移してもらいますと、神島(こうのしま)という字が見えます。曲がりくねった道は、古代からあった道と思われます。その上の真っ直ぐな道は干拓によって出来たところです。神島の真ん中あたりに、福浦という地名があります。現在は本土と神島大橋によって結ばれています。神島の周囲の道は、海岸にへばりつくように走っていて住むこともできませんし、船を停泊させれるところは限られています(神島外浦)。しかし、干拓されたところは内海のようになっていて、かつては、多くの船を泊めることが出来たと思われます。福浦・福良・福江はアマテラスから神武天皇に至るまで、中国の江南地方から、苗族を入植させたときの補給基地になったところです。今回と関係ありませんが、ついでに竜王山があるのも頭に入れてください。
神島外浦というところに神島神社があります。この神社の真正面に高島と明地島の狭い水道の向こうに三角形の形の島の鳥島がみえます。三角形の山は、古代に目印にするために、人為が加わったと考えられます。近づきますと、もっとはっきり分かるように鳥居が立てられていたと思われます。鳥居がある島で、鳥島とよばれていたのではないでしょうか?
神島神社は、沖にある高島に向いて建っています。神社略記によりますと、創建は奈良時代(726)神亀3年と伝えられていますが、創建はもっと以前にあったと思われます。神社は延喜式に載っていますから、式内社です。式内社は藤原氏に支配された神社ですから、奈良時代には、天皇家から藤原家に支配が移動していたことが判ります。先ほど書きました。竜王山は、中国系の人たちが好んでつけた山の名前だと思っています。祭神は、興世姫命、神日本磐余彦命です。神日本磐余彦命の日本磐余彦の部分は、古事記では「倭伊波礼毘古」と書いてあります。この神社もはじめは神伊波礼毘古命と書かれていたのが、式内社になったときに書き換えられたとおもいます。
神島外浦港から島民にとって、バス代わりの船に乗りますと、高島につきます。この高島と神島は、天皇家にとって重要な島でしたから、古事記の作者は、「国生み」のところで、最後から二番目に、「次に両児島を生みき」と書いています。
古事記に書かれている国生みは、神話であってどのように国が生まれてきたかが書いてあると思われていますが、神話ではなく、イザナギとイザナミが日本を順次支配していった様子が書いてあります。
はじめに出来たのは、淤能碁呂島です。次はよく判りませんが、「水蛭子」と書いてあります。これは葦船にいれて流したと書いてあります。次は淡島を生みました。これらは子の例に入れませんと書いてあります。これはイザナギとイザナミが自身で開発したところで、「これらは子の例に入れません」と断りました。高天原を開発する前から基地にしていたと思われます。
従いまして、その後に書かれている島、例えば、淡道の穂の狭別島は子に入ります。
このように見てきますと、国生みに書かれている国や島はイザナギとイザナミによって、開発されたところです。
神武天皇は高島宮で八年過ごされたことになっています。
ある本を読んでいましたら、このようなおかしなことは無い。大阪までもうすぐなのに、わざわざ八年間も戦の準備をしなくても、さっさと出陣すれば良いのにしていないから、おかしいと。だから、神武東征はたしかに、北九州に多かった漢鏡が、近畿で発見されることが多くなったので、九州の豪族が奈良に移動したことは確かであるが、それを神武という人の名前を使って古事記や日本書紀に仕立てたと結論づけておられました。
確かに、奈良を攻めるのに、日本書紀に書いてあるように、「船を準備し食料を蓄えて一挙に天下を平定しようと考えられた」のであれば、三年でも長すぎると思われます。
このときには、岡山にはまだそれほど漢人が多かったようには思えませんが、多くの漢人の平定に時間がかかったのだと思われます。

古事記に書くことがなかったということは、作り話であるという考え方も間違ってはいません。しかし、その後、古墳時代に入りますと、天皇級の巨大な古墳が岡山県に造られています。これは、岡山に天皇とおなじくらいの豪族がいただけでは説明になりません。
例えば、多くの材料があるとなんでも分かるのかと言いますと、古墳の数は現在、狭い日本だけで、10万基は越えると言われています。神社の数も10万社どころではありません。皆目分かっていません。
もう少し、数が少ないものを取り上げてみます。銅鐸・銅矛・銅剣は結構な数があるのに、誰が何のために持っていたのか、殆ど祭祀に使われたといわれています。そりゃそうでしょう。あんな大きな銅矛・銅剣を振り回すぐらいなら、弓矢の方が武器とすれば、優秀です。では、どのような祭祀を行っていたのか誰にも説明出来ません。
銅鏡は、中には年代が入ったものもあるのに、その鏡がなぜ、あちこちの県から出土するのか。此れなどは、それぞれの県で作られたにしては、成功に出来ています。
誰かが、誰かに与えたというのが、無理がありません。有名なのは、魏の国の年代がはいった鏡があります。卑弥呼がもらったという鏡です。これははっきりしています。100枚与えたと書いたものがあったからです。ところが、100枚を越えて見つかっています。そりゃ、真似をして日本で作ったのだ。
えらい脱線をしてしまいました。高島宮のことを書くつもりが、古墳や銅鐸・銅矛・銅剣や漢鏡のことまで話が進みました。それぞれのものは、神武東征のころはあったものや無かったもの、それぞれですが、歴史は連続しているものです。前後、全部説明がつかないものは、歴史になりません。
私としましては、神武東征があろうが無かろうが、なんら困りませんが、やはり、古事記に書かれている高島における八年間が、納得できませんと前に進むことはできません。
古事記に書かれていることが、正しいとしますと、記紀にかかれている高島宮は、笠岡市の高島ではなかろうかになります。

では、高島は、どのように重要だから、高島宮に選ばれたのかを次回にを記します。


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