ひとりひとつ? [僕の意見(人生観)]
発端は、ある作家さんなのですが。
その人が仰っていたことで、今までひとりひとつだったものが、これからはどんどんひとつでなくなっていくだろう、と。
まぁ今までの例で言えば、テレビとか電話とか、一家にひとつだったものがひとりにひとつになって、電話はひとりにひとつとも限らなくなって来ています。
靴だってそう。
車だってそう。
家だって人によっては。
さて、こんな話を知っている僕が、自分の経験の中でふと思ったこと。
大学に入ってからある時期、オンラインゲームをやっていました。
そのときに自分はゲーム内の名前があったわけです。
本名でやるほど度胸はないので…
そしてその世界でできた友達もいて。
その世界だけの関係だった人もいれば、お互いがゲームをやめても連絡をとったり(主にメッセンジャですが)している人もいます。
本名をお互いに明かしている人もいれば、本名を知らない相手もいます。
(ちなみに僕はそのゲームをやめて以来は相手を選ばず本名を公開していますが。)
それでも、相手との関係はやはり友人だろう、と思うのです。
それぞれやはり、人だし。
こういう関係に違和感を感じる人もいるかもしれません。
名前も顔も知らないのに、電話で話したことも会ったこともないのに友達なんて。
でも、リアルタイムでなにかを共有していると、拙い手段ではあれコミュニケーションをとっていると、相手の人格と言うものが見えてくる気がします。
もちろん、ある部分だけが強調されていたり(意識的であれ、無意識的であれ)、
オフラインでの自分にはない面を演じていたりするかもしれません。
だけどそれはオフラインでも同じでしょう。顔が見えたって、声が聞けたって。
脱線してますね。
その中で僕が感じるのは、相手の人格は、ゲーム内での名前に付属している、ということ。
慣れの問題もありますが、やはりその相手と話しているとその人(の名前)はゲーム内でのあの人、という気がするんです。
Webの上では名前を複数持つことはあまり珍しいことではありませんが、その複数の名前に、人格が付属していくのではないでしょうか。
名前や、人格も、ひとりひとつ?
あらびっくり。
これこそが私の卒論のテーマだったりしますよ。
by 社会学部生 (2006-10-11 05:32)
そうですね。本当にそう感じます。
かなり前からパソコンもなくて何にもしてませんが、『名前に付属する人格』は、たしかにそのとおりに感じてました。
それと、同じ空気や感覚を共有すると
人格の一部に触れられるのは
たしかに顔や名前をしってるかは関係無いことだとも 今でも 思います。
なんだか『色合い』だけでも感じられるような、そんな感じがします。
by まゆ (2006-10-11 12:20)
>社会学部生さん
ほぉほぉ。いろいろ聞きたいな。
やっぱり早めになんとか…
>まゆさん
だよね。
名前と人格の関係は、名前が変わった段階で相手に見せる人格の幅も変わる気がするし。
なんていうんだろう、僕がもう1つ感じるのは、オンラインって人格がすごく純化されて触れ合う場所だと思うんだよね。わがままな人はそれがさらに出るし、優柔不断さも強化されるし。
いつでも相手との関係を切れると思うからかな…。
『色合い』という言葉はすごくふさわしい気がするな。
by ナガサキ (2006-10-12 00:02)
2007年04月04日という未来の日記からとんで来てコメントすることをお詫びします。笑
たしかにひとりひとつじゃなくなってきたものは沢山あるし、これからもどんどんそうなりそう。で、これって、むしろ「人格」を沢山持ち得ることに伴って色んなものがひとりひとつじゃなくなってるのかな?って思った。ではなぜ「人格」をいくつも持ち得るようになったのか?それは、うーん...生活が多様化したからかな??
中途半端なコメントでごめんなさいm(__)m
by choko (2007-05-17 14:06)
>chokoさん
いえいえ、コメントありがとう。
その名前で通すのね(笑
いや、指摘通りだと思う。
ただ、僕は元々みんな人格はたくさんあったんじゃないかと思う。
それがその4/4の記事なのだけど、
それぞれいろいろな面を持っていてどこを外に向けるか、
というのがほぼ人格に近いのじゃないかな、と。
いわゆる解離性同一性障害は、その面と面が独立してしまって(させてしまって)、連続していない(つながっていない)状態なんじゃないかと僕は思います。
どうかな?
by ナガサキ (2007-05-17 22:11)