SSブログ

没後70年 北野恒富展 [アート]




没後70年 北野恒富展
「画壇の悪魔派」と呼ばれた日本画家
11.3_12.17
千葉市美術館
kt01'.jpg
北野恒富(1880-1947)は金沢の生まれ。はじめ新聞の版下彫刻を手がけますが、17歳で大阪にでて絵師に転じ、まずは新聞小説の挿絵で名をはせました。華やかな美人画ポスターでも人気を得ますが、明治43年(1910)の文展で「すだく虫」が初入選、翌年の同展でも「日照雨」が三等賞となり、日本画家としての地位を確立します。大正3年(1914)再興第1回院展に「願いの糸」を出品、以後は同展を主な舞台に、東京の鏑木清方、京都の上村松園と並ぶ、大阪を代表する美人画家として活躍を続けました。高い技術と自由な発想をかねそなえ、また最初期は妖艶な女性像に挑んで「画壇の悪魔派」と呼ばれ、大正中期には「淀君」に代表される内面表現の深化を見せ、昭和に入るとモダンかつはんなりとした清澄な画風に到達するその多彩さも、他の画家にはない、独自の光を放ちます。
本展は北野恒富の没後70年を記念し、官展や院展で発表された名品に加え、門下の作品や関連資料も網羅する久々の大回顧展です。妖艶と清楚、聖と俗の交錯する、恒富の魅力に迫ります。

北野恒富(つねとみ)の名前は全然知らなくて…
でも、「画壇の悪魔派」というキャッチ・コピーに釣られて、行って来ました(笑)

再興第1回院展に出品した作品
kt04'.jpg
「願いの糸」 大正3年(1914)

「画壇の悪魔派」と呼ばれたのは、明治末から大正にかけての初期の作品です
kt02'.jpg kt03'.jpg
(左) 「暖か」 大正4年(1915)  (右)「鏡の前」 大正4年(1915)
確かに、日本画にしては妙に生々しい
通常、着物を着ると体のラインは消えてしまうのだけど、恒富の絵では着物が体にまとわりつき一体となってとても艶やか、朱色も強烈です

恒富の画風は次第に変化、女性の内面を追究するようになります
kt05'.jpg kt06'.jpg
(左) 「淀君」 大正9年(1920)  (右)「星(夕空)」 昭和14年(1939)
落城寸前の大阪城に立つ淀君は、白い手を胸に当てて死の覚悟を全身からにじませます
まあ、ただの不機嫌そうな年増の女性と見えなくもないですが(笑)、絵のサイズのデカさ(204.3×85.0)には圧倒されます
なお、会場にはこの作品の下絵(木炭・墨画)も展示、さらに淀君の可憐な幼少期「茶々殿」もありました

kt11'.jpg
《夜桜》 昭和18年(1943)
構図に凝った大型作品、二曲一隻の屏風絵です

以下は、ポスター原画
kt07'.jpg
「菊正宗」 大正4年(1915)

kt09'.jpg kt10'.jpg
(左) 「東山子規」 明治末・大正前期  (右)「朝のクラブ歯磨」 大正2年(1913)
「朝のクラブ歯磨」には、ちょっと感動してしまいました
女性の瞳が円らで、しかも二重まぶた…
大正2年には、日本にも二重の女性が出現していたようです

今日の1曲
Cha Cha Cha 「チャ・チャ・チャ」/ Finzy Kontini 1985年
https://www.youtube.com/watch?v=DBEqcEWqeyE
fkccc'.jpg


コメント(0) 
共通テーマ:音楽

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。