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ゆれる/西川美和 [邦画]

大体映画の感想は遅くても翌日には書いてしまうのだが、この映画は観てから一週間経ってしまった今、なんとか言葉を紡ごうとしている。この映画から受け取るものが多かったのか、私にとって大事な問題に抵触していたのか、多分両方だと思う。気に入った映画は大抵パンフを買うのに、まぁ邦画だから背景を知る必要がないというのもあるのだが、パンフも買わずふらふらと映画館を出てきてしまった。自分にとって大切な問題が他人の言葉によって表されることに本能的な抵抗感を感じたのだと思う。昨日たまたま読んでいた雑誌で西川監督のインタビューが載っていて、やっと少しまとめられそうな気がしてきたので、書いてみる。
西川監督は「奪われたことのない人間の脆さ」を描いてみたかった、というようなことを言っていた。「勝ち組」の弟と「負け組」の兄、と流行の言葉を使って登場人物の関係を説明していた。私は『ジョゼと虎と魚たち』という映画のことを思い出していた。要約すると足の悪い女の子を好きになった男の子が付き合ったあげく結局その子を捨ててしまうという話だ。私はいま一つラストが好きになれず(田辺聖子の原作では二人は別れには至らない)、しかし友人にこのように言われて非常に考えさせられたことがあった。「でもジョゼは別にラスト一人でも幸せそうだったよね。二人でいた時は一人じゃ何もできなかったけど一人で何でもやっていたし。自立してたっていうか。反対に恒夫は突然道端で立ち止まり泣き出したり、ジョゼのことを忘れられなさそうだった。障害者の方が強くて、健常者の方が弱い、そういうことがありうる、それをあの映画は言いたかったんじゃないのかなぁ」
私はそんな見方は全くしていなかったので非常に驚いたのだった。確かに恒夫は泣くが、一瞬泣いたからといってだからどうなのだという気がしたし、やはりジョゼから恋人が奪われてしまうことは許しがたいことのような気がしたのだ。人々の思惑とは関係なく恋愛を継続し続ける『オアシス』のコンジュのことが、あの映画の持つ寛容さ、豊かさへの賞賛が念頭にあった。
「健常者」対「障害者」、「勝ち組」対「負け組」、そんな図式はどちらにしてもどちらかといえば「健常者」が、「勝ち組」が作るものであって、その図式があることによって説話が貧しくなってしまうということは確かにあると思う。西川監督のこの映画にしても、『蛇イチゴ』以来の独特のあざとさは健在だし、オダギリジョー演じる弟が奪ってばかりの人生から改心するきっかけとなるのが昔撮った家族の映像だったというのも、ありがちすぎる。結局図式自体に何も新しいものはないのだ。しかし『ジョゼと虎と魚たち』より私がこの映画を評価するとしたら、『ジョゼ・・』ともしかしたら言いたいことは似ているのかもしれないが、結果的に言っていることは逆のような気がするからで、それは西川監督の力量によるものだと思うからだ。
私自身は奪うものは奪い、奪われるものは奪われ、それが一生変わらず人生が終わってしまう人も多数存在し、奪うものが一瞬泣いたり逡巡したりしたところで、だからどうなのだという風に思う。それが現実であり、でもだからこそ映画などというものが存在するのだろうなぁと思う。だからこそこの映画のラストのオダギリジョーと香川照之の表情はあんなにも人の心を打つのであり(館内でもすすり泣きが漏れていた)、多分優れた映画監督にしか作り出せない部類の夢であり、宝であると思う。


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