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スプートニクの恋人 村上春樹 [読書]

a weird love story
*weird
とても奇妙な、ミステリアスな、この世のものとは思えない、

22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。
恋に落ちた相手はすみれより17歳年上で、結婚していた。更につけ加えるなら、女性だった。それがすべてのものごとが始まった場所であり、(ほとんど)すべてのものごとが終わった場所だった。
『ノルウェイの森』に見られる村上作品初期のストレートな魅力と、『ねじまき鳥クロニクル』の複雑なミステリーとが絡み合う作品。   ラブ・ストーリーであり、失踪小説であり、探偵小説でもある。―Amazonより引用

     

ずっと積読状態だった
『スプートニクの恋人』を読んでしまいました。
感想をひとことで言うと、大好き。
すみれを取り戻すことができたから。
村上春樹の本の感想なんて、うまく書けるはずがありません。
気持ちが動かされるのだけれど、
それを言葉として捉えることがとても難しい。
ふわふわしたものをつかまえるのにとても苦労してしまう。

ものすごく素直な感想。
姿を消したすみれさんが戻ってきてよかった。
彼女を失った後に残された「ぼく」の孤独感が
あまりに強く切実に感じられたので。
冴え冴えとした真空の空間に浮かぶ
スプートニクのイメージが心に残ります。

…これではこの物語のどこに魅力があるのかさっぱりわからない。
本を読んで、その時どんなふうに感じたかを書き残したいという
ブログを始めた目的にもそぐわない。
でも、やっかいだな。
中途半端なミステリーより謎めいていて、
注意深く読んでいかないと、謎は解けない。

『スプートニクの恋人』では、次の長編小説のための準備みたいなことをしておこうと考えたわけです。野球でいえば、シャープな単打を狙っていこうと。長距離を狙うんじゃなくって。僕はそのためには、まず文体の整備をしてみたかった。具体的にいえば、これまで僕が使ってきた文体の総ざらえみたいなことを、ここでとことんやっちまおうと。そういう実験的なことをするには、あれくらいの長さの小説って絶好の場所なんですね。僕は「中編小説」って位置づけているんだけど、短編では入れ物として短すぎる、でも本格的な長編まではもっていけない、というあたりの長さ。だからね、あの『スプートニクの恋人』という小説は、物語という以前に、文体のショーケースみたいになっている。文体の問題をどこまでもぐいぐい追求していったら、こういう話になりましたみたいな。
『海辺のカフカ』についてのインタビュー。新潮社サイトより引用。

『スプートニクの恋人』は
過去の村上春樹の作品ではおなじみのモチーフが
惜しげもなく出てきます。(井戸はないです)
でも、ラストの感覚が全く違う。
以下、覚え書き。長文です。
しかもうまく書けない…理解しているとも言い難い。

     

ミュウのオフィスで働く前のすみれはほんとうに可愛い。
まっすぐなかんじ。
彼女に出会ったら、
髪をくしゃくしゃっとしてしまいたい気持ちに私もなると思います。

すみれの頭の中は書きたいことがあふれていた、
小説家になるのだけが自分の進むべき道だと考えていた。
それなのに、身なりをきちんとして
恋するミュウのところで働くようになった途端に、
何も書けなくなってしまう。
書きたいという意欲そのものを失ってしまう。
そして、ミュウと一緒に出掛けたギリシャの島で、失踪。
消えてしまった、煙のように。
ミュウに呼ばれ、ギリシャにやって来た「ぼく」は
すみれのPCに残された文章を読むことになる。
そこには、すみれの見た夢と、
ミュウの14年前の不思議な体験が書き留められていた。
すみれの夢は「あちらの世界」に去ろうとする母を止めることができずに、
虚無の空白の中に、ひとり取り残されるというもの。
ミュウの体験とは「あちら側の世界」と「こちら側の世界」に
引き裂かれてしまったこと。
いまここにいる自分は
かつてのわたしの影にしかすぎないとミュウは言う。
そしてそれは自分自身の空白がつくり出したことなのかもしれないと。

 「ぼく」はすみれが「あちら側の世界」に行ったのだと考える。
すみれは自分を受け入れてくれる
あちら側のミュウに会いに行ったのだ。

ギリシャの山の上の音楽に誘われ、
「ぼく」も不思議な体験をする。
〈なにか〉に生命を持ち去られそうになる。
「ぼく」は「いつもの避難所」に逃げ込み、
「意識の海の底」の「大きな石に両腕でしがみついた」
「ぼく」はこちら側の世界から出ていくのを
望まなかったわけです。

 どうしてみんなこれほどまで孤独にならなくてはならないのだろう、ぼくはそう思った。

ぼくは目を閉じ、耳を澄ませ、地球の引力を唯ひとつの絆として天空を通過しつづけている
スプートニクの末裔たちのことを思った。
彼らは孤独な金属の塊として、さえぎるものもない宇宙の暗闇の中でふとめぐり会い、すれ違い、
そして永遠に別れていくのだ。かわす言葉もなく、結ぶ約束もなく。

 村上春樹の作品は、ここで終わっても
不自然ではないかもしれない。
でも、終わらない。すみれは戻ってくる。
そこが「スプートニクの恋人」を好きな理由です。
戻ってくるためには【何か】がなくてはいけない。
小学校の教師をしている「ぼく」と
教え子の「にんじん」のエピソードが
何だか異物のように挿入されている。
これが【何か】につながるということでしょうか。
心に抱いている思いを子供に率直に語りかける、
そしてにんじんはそれを受け入れてくれる。
子供に手をさしのべるなんて、
以前のムラカミハルキらしくない成り行きです。

すみれは本当に戻ってきたのか。
わたしは戻ってきたと考えます。

「ぼく」はすみれが戻ってきたと確信している。
(これから先、もしかして実際に触れ合うことはないかもしれないけれど)
確信しているのであれば、戻ってきたすみれは、
幻であったとしても幻ではないものです。
「ぼく」は抜け殻にはならない。

『海辺のカフカ』の「僕はあなたをゆるします」という言葉に驚き、
村上春樹の立ち位置の変化を感じた後なので、
すみれを取り戻すラストに違和感はありません。
「ぼく」は急ぐ必要がない。
「ぼくには準備はできている。ぼくはどこにでも行くことができる」
「ぼくらは同じ世界の同じ月を見ている。」

両方の手のひらの血のあとを探す。
「それはもうたぶんどこかにすでに、
静かにしみこんでしまったのだ。」

そして私はこの“血”とは何のことだろうと、
またこの本を読み返したりするわけです。
「いいですか、人が撃たれたら、血は流れるものなんですよ」 
血は流されなくてはならない。

スプートニクという言葉のロシア語の意味
「旅の連れ」
ミュウは二度と旅の連れに会うことが叶わない。
それにしても、ぬけがらのようにして生きていく
ミュウの姿はあまりにも哀れです。 

a weird love story.
すみれが「ぼく」にとって、
どれほど大事でかけがえのない存在であったかと
くり返し語る言葉が好き。

「すみれは彼女にしかできないやりかたで、
ぼくをこの世界につなぎ止めていたのだ。」

スプートニクの恋人

スプートニクの恋人

  • 作者: 村上 春樹
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2001/04
  • メディア: 文庫


タグ:村上春樹
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コメント 7

sknys

恐らくmiyucoさんの方が真っ当な読み方なんでしょう。
男女を問わず読者の95%は、このような感想を持つと思います。
でも、残りの5%の疑り深い読者は
〈スプーキーな恋人〉のように読み解く。
もしボルヘスが生きていて英訳版『スプ恋』を読んだなら、
「ぼく」の1人2役説を断乎支持するでしょう。

miyuco説に疑問が2つ──〔1〕ラストで「すみれ」が
「ぼく」の許へ戻って来たとは到底思えないこと。
むしろ幻の「すみれ」が「ぼく」の中へ還って来た(人格統合された!)
と解釈すべきでは‥‥。
〔2〕ギリシャの島からの失踪した「すみれ」の消失事件(トリック)を
説明出来ないこと(男装して脱出したのだ!)。

謎を解く鍵は「すみれ」が実在したかどうか?‥‥
「すみれ」が実在の女性の場合は問題ありませんが、
「女装した同性愛の男」だとすると、ミュウも「男性」という
超キモい関係(男3人の三角愛?)になってしまいます。
「ぼく」が小鳥遊練無クンのように女装してミュウに恋したとすれば、
ウィアードな主人公の倒錯した同性/異性愛を同時に満たせる訳です。

登場キャラの女装/男装は少女マンガの十八番ではないですか?‥‥
大島弓子作品にも「ジョカへ‥‥」「F式蘭丸」「7月7日に」
「リベルテ144時間」「パスカルの群れ」があります。
ご意見番けろろ軍曹さんの意見も訊きたいですよね。
by sknys (2006-02-17 20:14) 

miyuco

>sknysさん
まあまあ、お手柔らかに願います。
わたくしごときにsknysさんのお相手は荷が重いです^^;
「誤読というものはないと思う。私はこう読んだといえば、それが正しい読み方です」と村上春樹も言っていることですし。
↓朝日新聞のインタビューを書き起こした記事
http://blog.so-net.ne.jp/miyuco/2005-10-05
すみれは存在していたと私は思います。二人一役ではなくて。
意識レベルの「ぼく」=「すみれ」は理解できるのですが。女装までしているとは考えられないな。
すみれの失踪。ムラカミハルキの世界では消失をトリックとして解明することはできないと思います。あまり意味のないことなのでは。

>むしろ幻の「すみれ」が「ぼく」の中へ還って来た(人格統合された!)
「ぼく」はすみれが戻ってきたと確信したという事ですよね。これから先、実際に触れ合うことはないかもしれないけれど、戻ってきたと確信している。その確信は幻であったとしても幻ではないものではないですか。「ぼく」は抜け殻にはならないと思います。
ボルヘス…名前しか知りません。知識量が違いすぎるって(T_T)
sknysさんを論破しようなんて思いません。そんなのムリだし。
…もしかしてsknysさんの問いかけからズレてるかも…ああコワイ。
このコメントに書いたこと、本文に追加しちゃいます。
by miyuco (2006-02-18 16:51) 

sknys

miyucoさんの言う通り、「すみれ」が戻って来たという結果は同じです。
ただ「ぼく」が抜け殻かどうかの判断は難しいと思う。
ミュウだけが抜け殻という結末は余りにも切ないし、
「ぼく」とミュウも「旅の連れ」ということで
「ぼく」=抜け殻としましたが、
逆に充足している可能性も否定出来ない(それはそれで無気味ですが)。

丸谷才一氏が「『喪失』の研究」というタイトルで
『スプートニクの恋人』を書評しています(毎日新聞 1999/5/16)。

《つまり正当的な態度だけでは逃してしまふ、
無気味で奇怪なものがわれわれの現実にはあるといふ認識。
綺譚といふ冒険によつてしか世界は正確に把握されないといふのは
ボルヘスの短編小説の方法であつたが、
村上はあのラテン・アメリカの巨匠に学び、
長編小説といふ形式で敢へて綺譚を書かうとする。》

実は今初めて「書評」を読んだのですが、流石に丸谷氏は解っていますね。
「1人2役」と露骨には書いていないけれど、
「急所のところで派手な趣向を仕掛け、綺譚になる」と仄めかす。
『いろんな色のインクで』(マガジン ハウス 2005)に収録されています。今日、図書館から借りて来ました。
by sknys (2006-02-18 20:19) 

miyuco

「綺譚」の部分にこそ村上春樹の作品の魅力があるのでしょうね。
「ノルウェイの森」から読み始めた私が言うのもなんですが。
ミュウは本当に哀れです。ミュウにはなくて「ぼく」にはあるもの、それが「にんじん」のエピソード部分なのかなと思います。
sknysさん、〈スプーキーな恋人〉のトラックバックを送っていただけると嬉しいのですが。よろしくお願いします。
by miyuco (2006-02-20 09:55) 

miyuco

sknysさん、トラックバックありがとうございます。
by miyuco (2006-02-20 13:25) 

aquico

はじめまして&あけましておめでとうございます。

スプートニクの恋人を心地よく読んだのですが、
感想をまとめきれずにいたら内容まで度忘れした事に気付き、
あらすじを探してたどりつきました。

miyucoさんのおかげで思い出せました。
また読み返したくもなりました。ありがとうございます。
by aquico (2009-01-03 17:15) 

miyuco

aquicoさん、はじめまして。
あけましておめでとうございます。
この本はまさに「 a weird love story」でしたね。
私も心地よく読みました^^大好きな作品です。
コメントありがとうございました♪
by miyuco (2009-01-04 22:48) 

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