博士の愛した数式 小川洋子

静かで美しい物語。誰も傷つけることのない、
いたわりに満ちたお話です。
人が人を無条件で慈しむ。それを見ていると幸福になります。
だからこの物語がいとおしい。

「僕の記憶は８０分しかもたない」
背広のあちらこちらにクリップで留められたメモ用紙の数々。
「それらは衿、袖口、ポケット、上着の裾、ズボンのベルト、
ボタンホール等など考えつくかぎりの場所に張り付いていた。」
博士は息子の帽子を取り（タイガースのマーク入り帽子）、
頭を撫でながら、本名を知るよりも前に、
彼にうってつけの愛称を付けた。
「君はルートだよ。
どんな数字でも嫌がらず自分の中にかくまってやる、
実に寛大な記号、ルートだ」
「新しい家政婦さん　　　と、その息子１０歳　√」

「博士にとってやはり私は、
いつまでたっても数字の右手でそろそろと握手する相手であり、
息子はただもうそこにいるだけで、抱擁すべき相手だった。」

博士は幼い子供に純粋な愛情を注ぐ。
ルートもそれに応えるように
尊敬と愛情を持って博士を理解している。
「博士は心の準備、ってものができないんだよ」
「博士にとってはどんな出来事も突然に起こるんだ。
あらかじめ計画が立てられないんだからね。
毎日、僕たちの何倍も緊張していなくちゃならない」　　　
それがどんなに悲しく孤独なことか・・・

博士は６４歳の数論専門の元大学教師。
数学の美しさを語る博士。
「数式を前にして彼が発する驚嘆のため息や、
美を讃える言葉や、瞳の輝きは、
それだけで意味深かった。」
４Ｂの鉛筆で彼が書く数字の形は、
「４は丸みを帯びすぎてリボンの結び目のようだし、
５は前のめりになって今にも躓きそうで、
どれも整っているとは言い難かったが、どことなく味があった。」

 「ルートのためにはいつでも無制限の時間が用意されていた。
何であれ彼から質問されるのを喜んだ。
ただ単に正確な答えを示すだけでなく、
質問した相手に誇りを与えることができた。
ルートは導き出された答えを前に、その答えの見事さだけでなく、
ああ、自分は何と立派な質問をしたのだろう、という思いに酔った。」
こういった文章がとても好き。
愛情に満ちた思いをこんなふうに表現できるなんて素晴らしいです。

 博士の記憶は１９７５年で止まっている。
阪神のエースピッチャーである江夏豊しか記憶に残っていない。
（トレードに出されたことを知らない）
江夏の背番号は２８。完全数を背負った選手だった。
ラジオで野球中継が聴けることさえ
ルートに出会うまで知らなかった博士にとって、
野球とは新聞のスポーツ欄に載る記録と
カードの中にしか存在していなかった。
クッキーの缶に丁寧に収められた野球カードのコレクション。
江夏のカードだけがビニール製ではなく
プラスチック製のクリアカードで大事に守られている。

野球に関するエピソードがとても印象に残ります。
これはこの時代にナイターを見ていた
（父親に見させられていた）人間の思い入れのせいかな。

数学の論文の表紙
～永遠に愛するＮに捧ぐ　あなたが忘れてはならない者より～
未亡人の言葉「義弟は、あなたを覚えることは一生できません。
けれど私のことは、一生忘れません」
こうまで確固たるふたりの愛情とはどんなものだったのだろう・・・

博士との生活は唐突に幕をおろします。
８０分のテープは壊れてしまった。
施設で暮らす博士のシンボルは首からぶら下げている野球カード。
ふたりがプレゼントした江夏のプレミアムカード。
「縦縞のユニフォームの肩越しに背番号が見える。完全数、２８。」

私がイメージする博士は、伊藤雄之助。
（渋すぎる選択で画像があんまりなかった）

コメント 2

また 〔インデックス〕から やって来ました♪
小川洋子さんの さらっとした でも温かい文章が 大好きでした。
野球に関するエピソードに近い体験が なく （父が相撲ファンだった
から…!? ）、実感が分からず、ちょっと 寂しかった私です。^^;
この作品の映画は、ご覧に なられたのですか？！
当方の過去記事 本＆映画の感想を ＴＢさせていただきました。m(__)m
かなり以前の感想に なってしまいますが…。(^_^;)ゞ
by KANAchanMaMa (2006-09-04 19:42) 

＞KANAchanMaMaさん
『博士の愛した数式』と『夜のピクニック』の感想をどこかに書きたい
というのもブログを始めた理由のひとつでした。大好きなんです。
私は昔の相撲、くわしいですよ～父が相撲も好きでした。プロレスも＾＾；
映画の感想も書いてます。
http://blog.so-net.ne.jp/miyuco/2006-01-30
nice!とコメントありがとうございました♪
by miyuco (2006-09-04 20:13)