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ルールはママのためにある。 [わたしモノがたり]

私はモノを頭でわかっても、身体や心ではわかっていないことが割と多い。

例えば、パパからスキーを教わる。
言われた通りにやっているつもりなのに、「違うだろ~」「えっ?やってるよぉ」「違う」。
で、3年くらいしたまたある時のスキー場で「あ、わかった!」と思う。
「ねぇ、3年前のあのとき言われたことが、今、わかった」とかいって苦笑されるんだけどね。

特にスポーツをやっていると、これが顕著で、バスケットボールとか、後輩の練習に参加して、「あの~、こういうときってどうやればいいんですか?」「あれ、どうやってやってるんですか?」とか聞かれたときとか、練習後のミーティングで一言、なんて言われると、わからないのよ。
何を言って良いのやら。で、当たり障りのないことを言って、おしまい。
それが、数日経って「あ、あのときのことは、自分はこういうことでやってるから、こうやって教えてあげればコツが伝えられたのに!」となる。

ちなみに、英会話もそうだ。
いざ、話すときには、あれもいいたい、これもいいたい、って伝えたい内容は山ほどあるのに、どうやって話せばいいのかわからない。
で、そのシチュエーションがさって、2日くらいしたとき、「あぁ、こうやって説明すればわかったんだなぁ・・・」ってわかる。

頭で理解したことをそのまま実行に移して、そして反省して修正を加えて進歩していけるパパとは違って、私はスポーツならば、まず感覚が理解するので無意識にできるようになり、頭がそれからついてくる・・・し、他のことだと、頭でっかちになっていると、頭ではそうしているつもりでも、実は行動が形式的にそのようにはなっていても本当の意味ではなっていなくて、だから、効果が薄れてしまう、または、効果が現れない、という形になるように思う。または、失敗が怖くて(http://blog.so-net.ne.jp/mamaru/2007-02-02)、しり込みしてしまってできない。だから、英会話がいつまでも上達しないんだけど・・・。

ちょうど、ここ最近の子育てで「叱る」(怒ったり感情のぶつかり合いではなく、なぜ駄目なのかを伝えたい)とか「気づかせる」(教える、ではなくて、気づいてわからせたい、理解してもらいたい、と思っているから)のコツがつかめた、というのが、まさにそのことで、これまでは、それっぽくはあったのだが、本当の意味でそうではなかったので、自分の中でもどかしさや不安が消えなかったのだ。

おかげさまで、長男を産んでから次男を産むまでの間は周囲のサポートもあり、また、長男自身も、たぶんいろいろな人たちから吸収したモノでいい形で成長してきているのだろう。「魔の2歳児」も、日々の取り回しも、さほど、苦労を感じたことはなかった。

病気やそういった心配ごとはあっても、手をかけてのんびり一緒に暮らしていく、ということは決めていたから、手がかかるのも、なかなかできないのもストレスにならなかったし、大人の足で徒歩5分の道のりに1時間半かかっても、つきあおうと決めていたから、「いやー。笑っちゃうよねぇ」とかいいながらも、仕事や家事の時間を工夫することで、とにかく、ゆっくりと、こどもの時間に寄り添って生活することができていた。

ところが、次男を産んで、時間的にも物理的にも、すべてにつきあえなくなってくると、次男のタイミングに合わせて動いてほしい、とか、もう少し自分でできるようになってほしい、という要求が芽生え、それに伴って、一番やりたくなかった急かすこととか、自分でできないことに対する不安や苛立ち、などがむくむくと沸いてきたのがわかった。

そうなると、「気づかせる」というより「教える」方法を考えてしまうし、「叱る」のではなく「怒る」になってしまう。ということが、振り返ってみて、今ならよくわかる。

子どもは自分で育っていくし、子どもなりのペースを見守ればいい、ゆっくり生きて、寄り添って、時には支え、時にはヒントをあげればいい。

いつもそう想っているつもりでも、ステージが変われば、知らぬうちにやりたくない方法に陥り、そうありたくない自分になっているんだなぁって。

でも、そうやって、いらだったり不安になったときって、それは、子どもと自分を見つめて自分が変わりなさい、もう一呼吸置きなさい、発想の転換、ちょっと考え方を変えなさい、ペースを工夫しなさい、ってサインなんだなって想う。

たぶん、誰かに対して、苛立ちを感じるとき。
それは、自分が何かで無理していたり、自分らしさをどこかで失っているときなんじゃないだろうか。

無理に頑張ったり、無理にやろうとしてもいつまでも苛立ちは消えないモノ。
そういうときって、たとえ、相手がこどもであっても、その甘えを受け入れ、許せるゆとりがない。

それともう一つは、自分の中で、何か核になるモノが揺らいでいるとき。
それも苛立ちに繋がるんだな、と想う。

テレビのルールについて書いた「ウルトラマンメビウス☆」(http://blog.so-net.ne.jp/mamaru/2007-02-07-1)のコメントに、私はこんなことを書いている。

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そういえば、こういう「ルール」は実は親のために必要なんじゃないかと思います。

子どもに制限するため、というよりも、闇雲に怒るのではなく、叱ったり、諭したりするには、必ず「根拠」がいる。
根拠があるから、こどもも納得するのであり。

毎日同じように駄目なことは駄目っていうのもあるけど、同じ出来事が良かったり、悪かったりすることもあって、そういうときに、「今日はお誕生日だからトクベツ」とか、説明できるということがとても大事だよね。

今まで気がつかなかったけど。
私が人を叱れないなぁってずっと思っていたのも、そういういろんなシチュエーションに関するルールが自分の中に確立してなかったからだな。

なるほど、ということは、パパが叱り上手なのと、優れた審判なのは、理由が同じだったのか・・・歩くルールブック、だもんなぁ!納得!
---

子どもにはこうあってほしい、とか、子育てにおいて自分はこれが大事だと思う、とか、こういうルールでこういうシチュエーションに対応していこう、とか、そういう核になるものが、子育てには必要であって、自分自身わかっているつもりで、できていると思っても、ちょっと何かで揺らいでいるとき。

たぶん、私は苛立ちが生まれるのだと思う。

そして、その揺らぎも、わが子かわいさであったり、わが子の成長で当初核を設定した時点とはやや根拠が異なっているケースだったり、いろいろなのだが、たぶん、当然のことで、核、というのは、変わらず常に求める「将来像」と、日々の生活やその中での対応の基準となる「指針」の二種類があって、「指針」のほうは実情にそぐわなくなってきたら、ふと立ち止まって見直していけばよいのだ、ということに気づいた。

確かにスポーツのルールは普遍に見えるけど、実は毎年かなりの改定が加えられている。
そういえば、パパはその年の試合を元に、ルールを見直し、また記憶し、自分の基準とするところに修整を加え、そして、試合の現場ではそのときどきの条件(相手の審判の方とか試合のチーム、会場、などなど)を加味して、その試合の「ルール」を体現する、というのを日々やっているのだ。

彼がよく、「何をやっても、芯がぶれなければ大丈夫」と私に言っていたのはこのことだったのだ。

そういう意味ではスポーツも家庭生活も一緒だ。
夫婦関係も、子育ても。
ルールがあって、微妙に修正しながら生きている。
あ、社会だってそうだよね。

そして、両親も、私のやっていることに時々、「いいのかなー」と思っているようだが、「いずれわかるだろう」と思っているらしい。

たとえば、http://blog.so-net.ne.jp/mamaru/2007-02-01-1で書いている、おもちゃの買いすぎとか・・・パパも両親も、「ずっと言ってたジャン。やっと気づいたの?」とか「そういってたんだけど、あんたがおもちゃ好きで買いたいんだよねぇ、いずれ気づくだろうねぇって言ってた」ようで。

みんな、こんなつたない私のことを信頼して、一生懸命見守ってくれているんだな。

そう思った瞬間、ぽろっと一粒涙がこぼれた。

みなさん、見守っていてくれてありがとう。


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みやじー

つまりですね、mamaruさんは天才肌なんですよ。感覚でできるようになるって言うのはまさに天才そのもの!
ただ、後になって説明できちゃうところがかなり特殊かと…。普通は感覚で身につける人は他人には説明できないものですけどね…。

mamaruさんのブログを読んでいると感覚派の匂いはあまり感じないのに(笑)。
by みやじー (2007-02-08 17:52) 

mamaru

あー、天才かどうかは不明ですが、相当感覚派ですよ☆

一応、いろんなことを内部に蓄積していくけれども、頭で理解する、というよりも、あるとき、そうやって蓄積したモノがぱっとひらめくというか、つかめる、というか。「こうだったんだ!」となるわけ。

または、最初からできていることは、人に聞かれたり、自分でどうしてできたんだろ?と時々想うことがあり、そうすると、考え初めて、後で、「こうだったんだ!」と腑に落ちる、ってかんじかな。

なので、最近、ブログの記事は、その「こうだったんだ!」というのが訪れてからなるべく書くようにしています(笑)。
そうしないと、自分の中で確定してない要素を語ることになって、後で後悔するといけないから。

昔、村主章枝選手にインタビューしたときに、「努力に勝る天才はなし」とおっしゃっていたのが印象的でした。その後、彼女の活躍を見ると、その言葉をまさに体現しているので感動したものです。

一方、私はどうかと問われたら、どっちかっていうと努力はあまりできません。例えばバスケットボールに取り組む姿勢でも、私は、試合は好きだけど、練習はあまり・・・地味な練習になればなるほど、正直、あまり好きではありません。

高校生のときには「あんたは、運動会で走るのは速いけど、普段の練習のダッシュは・・・」と先生にため息をつかれ、そのときに初めて、自分が全力を出して毎日やっていなかったんだ!と気づき、改心し、大学生のときに、フットワークや地道な練習の「意味」がわかって、ようやく意識しながらできるようになった・・・という・・・。

うちの旦那様(←突然尊敬ぎみ(笑))は、そういう努力ができる人。
V字腹筋を自主的にやるとか、私には絶対にできない努力を積み重ねて、生きている人です。

なので、運動神経はたぶん私の方が初期値は高いので、例えば新たに球技を始めると私の方が最初はできるの。でも、ある時に彼に絶対に追い越される。バレーボールだって、バドミントンだって、あれ?私の方が上手だったのに!って悔しくてね~。まぁ、体育の先生と張り合ってもしょうがないんですけど、彼は、教え子にも教わることができるすごい人。

ま、わかんない!って誰にでも聞ける、というのは私も同じくできることですが、それを積み重ねて、何かを克服する、というのは、根が自分に甘い私にはなかなかね~。
by mamaru (2007-02-08 20:57) 

ayaking

なるほどぉ、納得した部分もあれば逆に納得したくないって部分もあり興味深い内容でした。
いつも「子供時間」で過ごすようにはしてるけど、「大人時間」で過ごさないといけない日もあるそんな日はつい「早く」とか「急いで」とか怒り口調で言ってる自分が「ダメダメ」って思いますが・・・やっぱり大人として遅刻は許せない!って固い頭があるのでしょうね。
根拠の説明もするようにしてるんだけど、「なんで?」「どれが?」「は~い」の堂々巡り・・・そんなときこそ笑顔でいられる母でいたいもんですよね。

そう思った次の日くらいは実行しなくては!
by ayaking (2007-02-08 22:25) 

あっこ

私も、「芯がぶれなければいい」派なので、とても共感しました。

もちろん、どこまでも子供につきあってあげたいんだけど、
世の中のスピードも理解できる子にしてあげるためには、
時間やルールで区切る事も大事なことじゃないかな?
と思うわけです。

あんまり親の考え方がコロコロ変わっても動揺させちゃうかな、
っていうのもあるんだけど、
融通が利くってことも大事。

ある程度、どちらも教えて、後はそれぞれの子供の個性
のなかで自分に合うようにアレンジしていってくれればいいかなと
思ってます。

まあ、放任主義ともいう笑
by あっこ (2007-02-08 23:50) 

mamaru

私は遅刻は嫌なので、息子につきあう代わりに、何でもすごーくすごーく早めに動きます。急かさないから、「おでかけするよ~」って言うのはおでかけする時間の15分くらい前から言ってるし(笑)。
のーんびり、あーだこーだいいながら支度をする息子とつきあう感じ?

まぁ、それでも、今朝も、「先に行っちゃうよ~、行かないならママと次男君だけででかけまーす!いってきまーす」なんて(笑)
しかも、今朝は次男が朝4時半くらいから授乳になり、終わってふっと寝た瞬間、5時過ぎに長男がなぜかトイレで目覚めて、そのまま起きてしまい、ママ、相当寝不足!

そういう日は、やっぱりママはいけないなぁと想いながらも自分でも不機嫌気味で、いやー、行きつ戻りつ、なかなかお釈迦様の境地で毎日生きていくわけにはいかんもんだと苦笑するのでありました。

早め早めに動きたくても、なぜだか起床時間が遅くて、せかさないと動けない日もあるからね。そういうときは、もちろん急かしますよ~♪
そうじゃなきゃ、ただのだらしない人になっちゃうもん(笑)

ちなみに、うち、夜なんか、来客が多いんだけど、そういうときにだらだらとつきあわせることはしないの。大人の時間だから、子どもはもう寝なさい、っていつも通りに寝かせます。私もそうだったからね。

昼間、彼らが起きていて遊んでいるときは彼らの時間の流れで過ごし、大人の時間を楽しむときには、子どもは子どもの世界でいてくださいね、っていう感じかな。
by mamaru (2007-02-09 09:54) 

mamaru

そういや、子どもって予想外のポイントで質問してくるよね。
絵本だと、擬態語の説明を求められたり・・・。

こないだは「ぱしゃん」って言葉があって、「なんで?」とか言われて、なんでって言われても・・・と悩み、「あ、後でお風呂に入ったら、ぱしゃん!って教えてあげるよ!」と言って、お風呂でぱしゃん!として、教えてみたら、納得した模様。でも、ほんと、説明できないものに対して説明しろと言われることもあって、日々緊張感が(笑)
by mamaru (2007-02-09 09:56) 

無閑マダム

うーむ、まさに納得!!オーストラリアへしばらく行っていて思いっきり子育てや今後の人生について揺らいでいた私。帰ってからこれからどうしようと、いろんなことを考えるのに忙しく、ついついいらいらっとしておりました。こどもに落ち着きがなく感じるのは自分の気持ちが通じているに違いない、とやっと昨日一息ついてみたら、お互いいらいらせずにすごせたなぁってところだったのでまさにタイムリー♪そうだね、ステージによってかわるんだからその都度軌道修正していかなきゃいけないよね。泣くとかおむつをかえるとかおっぱいあげるとかそういう物理的な欲求よりも高度なことでごねられるのってほんと大変だもんね。今までそれはひとりだけだったのにふたりになっただけでパニクっておりました・・・(恥)サインね、サイン、落ち着いて策を練るようにするわー。次のサインがきたらこの文章を読みに戻ってきます。ありがとう。
by 無閑マダム (2007-02-09 14:02) 

mamaru

オーストラリア・・・いつか行ってみたい土地!
メルボルンからおいでよ~って言われてるんだけど・・・子育て中でいけません。そして、ブラジルからも近いよ!って言われたけど、近くないよね(笑)。ニューヨーク、デュッセルドルフ、マニラ、香港・・・いろんなところから、おいでよと言ってくださる人がいるのに、いけない自分。
いつか、いつか、絶対に行くぞ!
とかいっているうちに、来いと言ってくれた人は忘れていそうです(笑)

いやー、ほんと。
子どもがおおきくなるに従って、そういう悩みは多くなるよね。
しかも、無閑マダムさんは、3つの異なるステージを抱えてるんだから。

サインの出方ってわかんないよねぇ。
私の今の悩みは長男が「あんよがイタイからだっこちて」。
保育園で散歩するときは言わないらしいのよね。
たぶん甘えているのだろうなと思う反面、ほんとうに足が痛いのだったら医者に行かなくちゃいけないし・・・。
智恵がついてくると、ストレートな物言いじゃなくなってくるから、真意を考えるのが難しいよね。かといって甘えだと思ってたら、ほんとうに痛いのかもしれないしさぁ・・・。
3歳児、おそるべき存在!(笑)

一緒に頑張ろうね!
by mamaru (2007-02-09 14:59) 

mamaru

そして、いつか、二人の子育てが落ち着いたときに、こんなこともあったねぇ、って、一緒にお茶飲みたいねぇ。
by mamaru (2007-02-09 15:12) 

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