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パヴァロッティの足跡(2):王様に.. [パヴァロッティ]

3大テノール 世紀の競演  1961年とデビューは遅かったものの、その声と体格の良さで、あっというまに人気オペラ歌手に。一流スターのマネジメントに実績のあるハーバート・ブレスリン("王様と私"の著者)がマネージャーとなり、アメリカでの活動が中心になります。1970年代には、アメリカ全土、世界各地でリサイタルを行い、宣伝,広告によりパヴァロッティの商品価値はどんどん上がって行きました。度を越した劇場外での活動はディ・ステファノからも「我々オペラ歌手は、広告だのマーケティングによって人気を得るべきではない.....」と苦言を呈されるほどでした。
 彼のオペラ出演の「ホーム」もヨーロッパではなくNYメトに移り、35年間で356公演(1968.11.23ボエーム〜2004.3.13トスカ)。メトデビューがほぼ同時期のドミンゴが、現在までで588公演(1968.9アドリアーナ・ルクブルール、指揮を除く)ということですから、この数字でもパヴァロッティが、オペラ以外での活動が多かったのか一目瞭然。ウィーンでは、パヴァロッティ55公演(1963〜1997)、ドミンゴ211公演(1967〜2003)となっています。
 リサイタルの合間に、オペラにも出演して、オペラ歌手としての対面を保ち、パヴァロッティのオペラは、なかなか見られないというので、ますます人気が上がるというブレスリンの戦略だったんでしょうか。メトではパヴァロッティの人気は絶大なもので、ライバル意識を燃やしていたのはドミンゴの方だったようです。ブレスリンはドミンゴの宣伝,広報も引き受けていたそうですが、ドミンゴは、オペラよりコンサートで稼ぐという彼の戦略には乗ってこなかったそうです。
 1980年代に入ってから、「邪道」と言われるような活動を減らし、オペラの公演にも熱心に取り組み、1981年の《イドメネオ》は高く評価されました。
 1990年の《三大テノール》のコンサートによって、人気は世界的なものになり、オペラに関心のない人たちも《三大テノール》は知っているという、《三大テノール》現象が起こり、その後の野外コンサートでは何十万もの観客を動員するほどでした。私生活の影響もあったのか、1997年頃から、オペラの舞台から遠ざかるようになり、2004年、メトでの《トスカ》が、ラストパフォーマンスとなりました。
オペラ、コンサートの公演(主にNYメトとミラノ・スカラ座)
1968年 NYメトデビューまではこちら→パヴァロッティの足跡:王様になる前まで

1969年 ローマ《ロンバルディ》初役 スコット、RR共演 CD
1969年 サンフランシスコ 《仮面舞踏会》初役
1969年 スカラ Maag マスネ作曲《マノン》初役
1970年 NYメト《ランメルモールのルチア》(1970〜72/6公演) RR共演
1970年 NYメト《椿姫》 3公演
1970年 ビルバオ マスネ作曲《マノン》フレーニ共演
1970年 ビルバオ《愛の妙薬》フレーニ共演
1970年 スカラ 《愛の妙薬》
1971年 イタリア歌劇団《リゴレット》初来日
1972年 NYメト《連隊の娘》(1972〜95/26公演)メトでの人気を不動のものにした
1972年 NYメト《リゴレット》(1972〜90/19公演) RR共演
1973年 スカラ 《ファヴォリータ》
1973年 NYメト《愛の妙薬》(1973〜98/49公演)
1973年 シカゴ・リリック・オペラデビュー《ボエーム》
1974年 《ルイザ・ミラー》初役
1975年 《トロヴァトーレ》初役
1975年 スカラ《ボエーム》
1975年 NYメトと来日《ボエーム》NYメト日本公演
1976年 スカラ《ルイザ・ミラー》
1976年 NYメト《清教徒》(10公演)
1976年 NYメト《ばらの騎士》(15公演)
1976年 NYメト《トロヴァトーレ》(1976〜89/26公演)DVD
1978年 シカゴ《トスカ》 初役?
1977年 スカラ 《仮面舞踏会》アバド指揮
1977年 単身来日リサイタル
1977年 サンフランシスコ 《トゥーランドット》カラフ初役
1978年 NYメト《ファヴォリータ》(6公演)
1978年 NYメト《トスカ》(1978〜04/60公演)
1979年 スカラ 《愛の妙薬》
1979年 サンフランシスコ《ジョコンダ》初役
1979年 スカラ《ボエーム》クライバー指揮  DVD
1980年 スカラ《トスカ》小澤指揮
1980年 NYメト《ファヴォリータ》(6公演)
1980年 NYメト《仮面舞踏会》(80〜97/31)映像

1981年若い歌手のコンクールをフィラデルフィアで創設

1981年 サンフランシスコ《アイーダ》初役
1982年 NYメト《ルイザ・ミラー》(1982〜91/13公演)
1982年 NYメト《イドメネオ》(7公演)大成功で本来の形に戻ったと評価された 映像
1983年 映画版《リゴレット》シャイー指揮 DVD
1983年 NYメト《エルナーニ》(10公演)初役 好評 RRと共演 DVD再発売
1985年 スカラ 《アイーダ》マゼール指揮 映像
1986年 NYメト《アイーダ》(1986〜01/10公演)
1986年 北京・天橋劇場《ボエーム》(ジェノヴァ歌劇場招聘公演) DVD
1987年 スカラ《仮面舞踏会》
1988年 サンフランシスコ 《ボエーム》 映像
1990年7月7 ローマのカラカラ ワールド・カップ前夜祭の《三大テノール》コンサートを開催
これにより 『世界のパヴァロッティ』となり、野外コンサートに積極的に取り組む。
《三大テノール》コンサートの発端:
このコンサートは、マリオ・ドラディ(エージェント、マネージャー、プロデューサー)の発案で、カレーラスの復帰祝いと、白血病の財団創設のための資金集めのチャリティーとして、テレビ、レコード会社と共同で企画した。ドミンゴとパヴァロッティもそれに賛同して、協力したイベントで、世界の8億人以上がテレビを見て、大成功をおさめた。しかも、このコンサートのCDの売り上げは、クラシック音楽のジャンルでは驚異的な記録となった。

1991年 ロンドン、ハイドパーク《野外コンサート》 観客動員数約15万人
1991年 NYメト《こうもり》(1公演)
1991年 演奏会形式《オテロ》ショルティ指揮 シカゴ、カーネギーホール
1992年 スカラ《ドン・カルロ》 ムーティ指揮 初役(準備不足で失敗) DVD
1992〜2003年 《パヴァロッティ & フレンズ》モデナ
1993年 ニュヨーク セントラルパーク《野外コンサート》 観客動員数約50万人
1993年 パリ エッフェル塔広場《野外コンサート》 観客動員数約30万人
1993年 横浜アリーナ《野外コンサート》

1993年 NYメト《ロンバルディ》(1993〜94/11公演)
1993年 NYメト《愛の妙薬》来日公演
1994年 NYメト《パリアッチ》(2公演)ドミンゴの《外套》とセット公演
1994年 ワールド・カップ《三大テノール》ロサンゼルス
1996年 NYメト《アンドレア・シェニエ》(11公演)
1996年 ウィーン《アンドレア・シェニエ》(5公演)※ラストパフォーマンス
1996年6月東京国立競技場で「三大テノール日本公演」
この頃から、私生活のゴタゴタが表面化する
1997年 NYメト《トゥーランドット》(6公演)
1997年 NYメト《トスカ》(1978〜04/60公演)来日公演
1998年 ワールド・カップ《三大テノール》パリ
1999年 東京ドームで「3大テノールニューイヤーコンサート」
2002年 ワールド・カップ《三大テノール》横浜

2004年 NYメト《トスカ》※ラストパフォーマンス
自由な動きができず、共演者の支えで立っていたり、撃たれて死ぬところも椅子の上という状態だった

2005年10月12日(誕生日)の引退コンサートに向けて、世界各地で「ファイナル・ワールド・ツアー」スタートさせると発表
日本では、2004年3月31、4月6日(東京国際フォーラム)、4月3日(サントリーホール)と三日間開催
指揮者兼ピアノ伴奏者兼親友のマジエラさんに支えられながらの登場、椅子に座っての歌唱
「ファイナル・ワールド・ツアー」が終了するはずの70歳の誕生日を迎えてもツアーは続けられた
2006年2月11日トリノ冬季五輪の開幕式の大トリで、《誰も寝てはならぬ》を歌う
2006年4月〜《さよならツァー》再開、ボスニアを皮切りに、ウィーン、スイス、フィンランド、ヘルシンキ、イギリス各地、ハンガリー
2006年7月 膵臓腫瘍の摘出手術、《さよならコンサート》ツァー中断
2007年9月7日 永眠

パヴァロッティのレパートリーは約30といわれている。

《ボエーム》《リゴレット》《イドメネオ》《愛の妙薬》《蝶々夫人》《椿姫》《夢遊病の女》《カプレーティとモンテッキ》《連隊の娘》《清教徒》《友人フリッツ》《ロンバルディ》《マノン》《ルチア》《ファヴォリータ》《ルイザ・ミラー》《ばらの騎士》《ジョコンダ》《マノン・レスコー》《トロヴァトーレ》《トスカ》《仮面舞踏会》《アイーダ》 《演奏会形式オテロ》《ドン・カルロ》《パリアッチ》《アンドレア・シェニエ》《トゥーランドット》
参考資料:メトデータベース、ミラノ・スカラ座公演記録、ウィーン国立歌劇場公演記録、雑誌「現代の巨匠たち」、ブラヴォー・ディヴォ、スカラ座の名歌手たち、Wikipedia等
※DVD等があるものは、Orfeoさんとedcさんのブログをリンクさせてもらいました
関連記事:
パヴァロッティの足跡:王様になる前まで
訃報 ルチアーノ・パヴァロッティ(1935.10.12〜 2007.9.6)
「パヴァロッティ退院」略歴、ライモンディとの共演等まとめ
あのジョーン・サザーランドをかつぐ.... 1971年リゴレットVidoClip
ミルンズ、サザランド、パヴァロッティ、RR《リゴレット》
デタァ!パヴァちゃん&マジエラさん《冬季オリンピック開幕式》
RRと指揮者(12-a)クラウディオ・アバド"Verdi Requiem"

ビルバオ(1)マジエラ氏、モデナから車でビルバオへ
ビルバオ(2)カップチッリとライモンディ
RRのエピソード:声楽授業(11)レオーネ・マジエラ
ミラノで最初の勉強(2)カンポガッリアーニ先生



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コメント 6

babyfairy

やっぱり堂々たるキャリアですね。オペラ歌手としての実績があるからこそ、邪道コンサート巡業等をして名前を落とす事が無かったんですね。オペラ公演の他にコンサート、リサイタル活動も多い某氏は、『自分と家族全員の生活が、この小さな声帯にかかっているんだ』だとインタビューで言っていました。確かに、不安定な職業だから、稼げる時に稼いでおきたい気持ちも判らないでもありません。ただ王者パヴァとなると、その『稼ぎ』のケタが違うでしょう。フローレスはそのパヴァからテノールの『王冠』(そんなものがあったとは知りませんでしたが)を譲り受けたそうですが、あんまり儲け第一主義には走って行って欲しくないなと思います。
by babyfairy (2007-09-30 22:25) 

峠茶屋の

余計なお世話で申し訳ないが、METのPerformers Reportによれば、パヴァロッティが387公演、ドミンゴが611公演となっておってkeyaki殿の記事の数字と微妙に違っておるのじゃが。
どちらが正しいのか爺にはよう分からんが、ご参照くだされ。
http://66.187.153.86/archives/frame.htm
by 峠茶屋の (2007-10-01 02:11) 

keyaki

峠茶屋の爺さま
余計なお世話大好きです....(笑
えぇっとですね、オペラの公演だけにしたつもりでしたが、間違って書いてましたので、356公演に訂正しました。
387という数字には、ガラコンとかヴェルレクも含まれていますし、トスカをキャンセルしてリチートラが代役で歌った公演にも、パヴァロッティがキャンセルした云々が書いてあるので、pavarottiで検索かけるとカウントしてるんです。そういうのも2,3ありますので、オペラの舞台は356のようです。
ドミンゴも、それに従って訂正しましたので、ちょっと少なくなりました。
ドミンゴは、日々増えていますよ。今、指揮をしているんですね。満遍なく卒なくこなすドミンゴは、日本では好きな人が多いようですが、あちらでは、強烈な個性のある人の方が人気があるんですね。

ご指摘して頂いたお蔭で、オペラ公演だけの総数に訂正できました。ありがとうございます。
by keyaki (2007-10-01 09:39) 

keyaki

babyfairyさん
フローレスも今後レパートリーをどうするのかわかりませんが、それほど増やせないタイプの歌手のような気もしますが、そうなってくると、やはりリサイタルは重要だし、ファンサービスでもあるとおもいます。

この「邪道」というのは、リサイタルのことではなく、パヴァロッティは、歌以外のことに時間をとられていた時期があるようで、ディ・ステファノもそのことを指摘しているようです。
リサイタルで会場を満席にするためのブレスリンのアメリカでの戦略ですよね。有名なすべてのショー番組に出演、雑誌の表紙になったり、なんかのパレードには馬に乗って先頭を行進したり、テレビコマーシャルには出るし、○○賞のセレモニー、あげくのはては、冬には雪かき、夏は、有名テニス選手とテニスに興じ......という具合だったそうです。
もともとパヴァロッティは、体育の教師になろうとしたくらいのスポーツマンですから、乗馬もテニスも得意だったんですよね。あぁ〜 それなのに、それなのに、ですね。
こういう宣伝活動の効果で、パヴァロッティのコンサートは、何千人収容の会場でも常に満席だったそうです。
by keyaki (2007-10-01 10:00) 

サンフランシスコ人

1977年 サンフランシスコ《トゥーランドット》初役

http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2007/09/06/MNM0K578G.DTL
by サンフランシスコ人 (2008-02-12 04:26) 

keyaki

サンフランシスコ人さん、さっそく追記しました。ありがとうございます。
カレーラスの伝記に、その頃、サンフランシスコオペラでパヴァロッティとよく一緒になって、幾晩も徹夜でポーカーをした話しがありました。リッチャレッリとかレナータ・スコットともよく一緒になって、パヴァロッティとリッチャレッリの「ルイザ・ミラー」チームと、カレーラスとスコットの「蝶々夫人」チームで勝負をしたとか.....
by keyaki (2008-02-12 23:04) 

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