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いじめは必要悪? [時の話題]

 元々このBLOGでは、等身大の自分が地に足を付けて考えたことを書こう、時事問題や社会問題には余り触れずにおこうと思って始めたのですが、いじめの社会問題化についてはかねてから思うことがあり、禁を破って書かせていただきます。

  今までいろんなところで書かれていることとはやや観点が違い、当然反対意見もあろうかとは思いますが、私自身これについては定見を持つところまで行っておらず、ご意見等があれば是非ともコメントくださるようにお願いいたします。

 

  いじめの社会問題化の根本原因は、少子化による物だと考えています。

 兄弟を持った子供たちが少なくなり、本音での喧嘩や、兄弟間でのいじめや、いじめられたりといった、同年代どうしでの人間関係をつくる経験が決定的に不足した子供たちの増加が問題の発端ではないでしょうか?

  親の側に昔より余裕が出来たことにより、休日などに親子で出かける機会が増え、また隣近所に子供が居なくなり、子供が友達同士で遊ぶ機会が極端に減ったことも拍車をかけているかもしれません。(親の目の届かない外で遊ばせるには、治安も悪くなりました)

 

  いじめは絶対無くなる物ではありませんし、昔からあったことです。

 「日本の品格」で有名になった藤原正彦さんの「遙かなるケンブリッジ」を読むと、英国留学中一緒に連れて行った子供が英国でいじめにあった事例なども書いてあり、日本だけの問題でもないようです。

  そして、いじめによる自殺も、今のようにマスコミが大々的に取り上げることはありませんでしたが、昔からあったと認識しています。(今にして思えばそうだったかもしれぬと思えるような事例を、子供時代に近隣で耳にしたことがあります)

  また、社会に出れば理不尽な人や陰湿ないじめなど、それこそ山のようにあり、いじめに耐えられない社会人なんて物の役には立ちません。(私自身いじめは、30数年前いじめられる側でもいじめる側でも経験し、それを克服したことが社会人になった自分の糧となっています。)

 

  家庭で経験できなくなった喧嘩やいじめを、社会に出る前に学校で経験させることは、一人前の社会人を育てるという観点からすると、むしろ必用なことに思われてなりません。

  私見ですが、学校で何より必用なことは、子供たちどうしの社会の健全な醸成であり、先生や親の目の届くところで様々な人間関係を学ぶことだと思います。

  元々そう考える様になった切っ掛けは、昔に比べ今の方が「親は子供に係わる」ようになり、「真面目な先生が増えている」(私の育った30数年前より、理不尽な先生の絶対数は明らかに減っています)にも係わらず、悲惨ないじめ事件がなぜこれほど多く発生するのだろうか?と疑問を持った事からです。

 

  同年代の子供たち同志のせめぎ合いこそが必用であり、家庭で出来るのは、兄弟を一人でも多く産んでやることと、子供の緊急避難港として子供を守ってあげることしかできません。

(決して親としての責任逃れで書いているわけではないつもりです。自分の子供の自己防衛にしか成り得ないと言う意味です。また、保護する者と保護される者とで構成されている親子関係で補うことは不可能な部分でもあります。)

 また、いじめの克服という観点では、すべての親がいじめを問題視し解決すべき課題だと考えている意識の高い大人ばかりであれば良いのですが、現実はそんな人ばかりではなく、子供に手をかけない親に育てられた子供の回りで様々な問題が起こっているようであり、「いじめはダメだ!」との躾を如何にしようとも、そうでない親が半数居ればいじめは無くなりません。

  よく躾けられた真面目で素直な子供が、実際にいじめの被害者になり自殺するようなケースも耳にしますし、むしろそんな子供がいじめのターゲットになる場合すら有るようです。

 

  社会の歪みである少子化のツケを学校で払えと言っているようなもので、先生方には酷な話で本当に恐縮なのですが、現在の家族構成で構成されて居る社会では、その部分を学校にゆだねるしか方法がありません。

(心がけとしては、むしろ親が子供たち社会に必要以上に干渉しないと言う対処の方が正しいのでは?:もちろん優しく見守っている必用があります)

 

  決して「いじめ撲滅」や「みんな仲良く」なんてスローガンで解決がつく問題ではなく、いじめの存在を子供たちが成長するための必要悪と認め、それを如何にコントロールするのか?と言う観点で取りかからなければ解決する問題ではないように思えて仕方ありません。

  そして親の側も、誤解を恐れず言えば、ある一線を越えないようによく子供たちに目配せしつつも、学校と、子供たちの自己解決能力を信じて、優しく見守る事も必用だと思います。

(どこがその一線なのか?の見極めが難しいのと、「親がどこまでも守ってあげる」という姿勢で見守られることでいじめの克服が出来る場合もあり、実際の対応は子供によって千差万別になるのかもしれません。)

  ボランティア活動やスポーツを通して、自力で健全な子供社会を作ろうと努力している人たちを何人か知っており、自分に出来ることは何なのか?を考えて、自分を含めた地域社会として実践してゆかねばならない事なのかもしれません。

 

 頭の中が完全に整理されておらず、まとまりのない文章を 長々と書いてしまいました。

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました!

 PS.

 まだ子供が学校に行っていないので、いざ自分がその立場になったときでもそう思えるかは今ひとつ自信がありませんが、体罰はOKだと思うし、いじめは当然ある物でいじめたりいじめられたりを繰り返して子供は成長する物だし、場合によっては理不尽な先生が居てもそれによって理不尽な人との対処法を経験できるのならば必要悪(社会に出ればそんな人は山のようにいます)だと思っています。


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アキラ

こんにちは
私は転校続きで、ともすればいじめられっ子になっていたはずです。
しかし、私は子供の頃から気が強く、それを跳ね返す「力と知恵」を持ち合わせていました。
昔から、親や教師の目の届かないところでの「いじめ」はありました。
いじめたからといって、又はいじめられたからと言って、一々親に言ったり教師に報告する物ではありませんでしたから、いじめられてる子はしょっちゅうやられていましたし、私自信はどちらかと言えばいじめっ子の側に居たと思います。
現在この問題においては、一番いけないのは『マスコミの報道』ではないかと思いますが・・・
by アキラ (2006-11-01 10:45) 

まる

はじめまして。
私もいじめについて同じような記事を書きました。

「いじめはあったんですか?なかったんですか?」
テレビのワイドショーなどでよく耳にする言葉。 
・・・この感覚がすでに間違っていると私は思います。
いじめはどこにでも存在するものです。
by まる (2006-11-01 11:16) 

nina

こんにちは。
イジメは私が子供の頃もありましたし、おそらくもっともっと前から存在していたでしょう。
熱帯魚を飼っていますが、魚の世界でもそれはありますからね。
イジメがなくなればそれは嬉しい事でしょうが、「イジメはある」という前提で、そこからどうするかという事を考えて欲しいと思います。
「弱い者イジメをするやつは卑怯者だ。人として恥ずかしい事なんだ」と小さい頃から教え込むだけでも少しはマシになると思うのですが。

マスコミは叩きやすいところを探して袋叩きにし、それで視聴者の安っぽい正義感を満足させているように感じます。
by nina (2006-11-02 01:05) 

たいせい

 アキラさん、nice! &コメントありがとうございました。
 人生の大先輩に対して失礼かとは思いますが、強い!子供時代のアキラさんが目に浮かぶようです。

 「いじめ=悪」という単純な図式に当てはめて、悪いもの探しをするマスコミ
 そして、本来自分たちにも落ち度があったはずなのに「悪いのは先生」(もしくは自分以外の○○君)というロジックで自己弁護をはかる「子供たちとその親」
 子供たち第一で考えられるべきなのに「自己保身」に走る「学校」や「教育委員会」

 マスコミがどのような報道をしようとも、地域社会の中にきちんと物事を筋道立てて考えられる大人がいれば動ずることはないし、逆にそういったコメントがマスコミを通して流れるもののようにも思います。(また、恥ずかしくて、マスコミもそんなステレオタイプの価値観を掲げることは出来ないのでは?)

 ただ、子供たちに自殺という選択肢があるのだと言うことを伝えることになりますので、マスコミの報道姿勢には十二分の注意を払って欲しいものですね。
(アキラさんもこ、ういった趣旨のことを仰りたいのではないかと思っています)
by たいせい (2006-11-02 10:17) 

たいせい

まるさん、初の書き込みありがとうございました。
まるさんのBLOGも、読まさせていただきました。

私は、校長先生が自殺するくらいだから、子供なりの社会の中では追い込まれれば当然子供が自殺することもあり得ると思っています。
まるさんのBLOGで書かれていたように、いじめは大人社会になればなるほど更に強力で陰湿な形でせまってくるもでもあるわけで、自殺した校長先生の場合でもマジメで一生懸命考えている人であったからこそ、自殺してしまったのでしょう。(当然、第一義的には死は単なる逃避で、大人のすることではありませんが....。)

そして、今回議論すらされていないのが『親の責任』
「どうして、毎日顔を合わせているはずの自分の子供の変化に気がついてあげられなかったのか?」という点
先生や、いじめをした同級生を糾弾するのではなく、それと同等以上に自らの責任を考えるべきではないのか?と思えて仕方がありません。
自分の子供がいじめに遭っていることがわからなかったのだから、数十人の面倒を見ている先生が、それを見つけられるわけが無いではありませんか?

なにか、マスコミを含めてすべての論点がおかしいように思えて仕方がありません。
(いじめは当然あるものだという論点からスタートしていないので、すべてが間違ってしまっているのでしょうか?)

結局、親としては、自分の子供の自己解決能力を信頼し、子供社会での自分の子供の立ち居振る舞いに必要以上に干渉しないようにしつつも、子供のSOSのシグナルを見落とさないようにするしか方法はないのかも....。
by たいせい (2006-11-02 10:54) 

たいせい

 ninaさん、いつもコメントいただき本当にありがとうございます。

 藤原正彦さんあたりの本を読むと、子供には『卑怯』を教えなければならないと言うことが書いてあり、私も大きく影響を受けました。
 ただ、「遙かなるケンブリッジ(新潮文庫)」では、藤原さんの英国留学中のまだ若かりし頃、一緒に連れて行った子供が実際にいじめに遭い、「卑怯」を教え、喧嘩の仕方を教えたにも係わらず、結局、さらなるいじめに遭遇して、悪戦苦闘している様が書かれたりもしています。
(子供の性格やキャラクターによって対処法は千差万別なのかもしれません。)

 家庭教育や学校での道徳教育の一環として多数で一人をいじめることの『卑怯』を教え、『弱きを助け強きを挫く』との価値観が子供たちの過半数に浸透すれば、或いは学校の状況は大きく変わるかもしれません。
(十人に一人でもそういった考えを実践できる強い子供がいれば、かなりの確立で防げる可能性は広がるように思います)

 そして先生は、やはり『強く』あっていただかなくては成りません!
 昨今見聞きする学校の状況では、友達の視線で一緒に遊べる先生の方が評価されている様にも感じます。
 親子関係についても同様だと思いますが、先生や親が強いからこそ、子供は最終的には頼るのであり、最終避難場所として、子供たちを導く者として、機能することが出来るわけで、弱い保護者には誰も相談すらすることはありません。
(自分が親になってわかったのは、友達のような関係の方が"楽"だと言うことです)

 結局は、体罰やいじめなどの様々な問題に減点法で評価する地域社会やマスコミが、学校や先生を弱くしていったに違いありません。

PS.
 この記事を書く前に、いじめについて書かれたいくつかのBLOGにコメントしていて、「学校の機能」と言うことについて考えさせられています。
 具体的には、「学校は教養を身につける場」なのか?「社会人としての常識を身につける場」なのか?ということです。
 考えがまとまりましたら、いずれ新しく記事を書いてみたいと思っています。
by たいせい (2006-11-02 11:29) 

たいせい

俺 さん、nise!ありがとうございます。
BLOGの方も見させていただき、教育についていろいろ考様子を見て取ることが出来ました。
この記事に関しては、出来るだけ沢山の方のご意見をお聞きしたいと考えていますので、もし機会があれば、是非ともコメントいただければと思います。

また、他の方でもいろいろな意見をお持ちの方がいらっしゃると思います。
何か感じられることがありましたら、引き続きご意見くださいますようお願いいたします。
by たいせい (2006-11-02 11:51) 

みゆう

初めましてです。
「いじめ」問題は私にとってとてもタイムリーで関心のある問題です。
なぜなら、我が家は転勤族であり子供が上の子が小3、下が年長なのです。
札幌に来て2年近くなりますが、来春東京に戻る予定です。その時は、上の子(女の子)が小4で難しい年頃になります。それで、とても心配しております。

確かに、昔から「いじめ」はありました。私の小学校高学年でとってもひどいいじめが有りました。先生の居ないところでやられていました。でも、いじめられた子と話したり仲良くしたりしていても同時にいじめられたことはありませんでした。

マスコミの報道は、いきすぎてるところが有ります!また、くだらない質問も有ります。いじめ報道が始まって依頼加熱しているようにも思えるし、連鎖しているかのようにあいついで自殺している子が多いです。とても悲しいことです。
からかい始めた先生は論外ですが、いじめている子もいじめられた子も周りの子もいじめられた子の親にも責任があると思います。
たいせいさんがおっしゃるようになぜ親がいじめられていることに気が付かないか。いじめられているなら学校を休ませるのも手じゃないかと思います。私ならそうします。
by みゆう (2006-11-02 18:41) 

はじめまして。記事を読み、どうしても意見を聞いていただきたく、
書き込ませていただきます。
少子化が、いじめに対応する能力を下げている、というのには、一理あるとおもいます。
そして、これは私見ですが、幼稚園の自由保育なる代物が、子供の自由を尊重するといえば聞こえはいいものの、逆に一部、時には我慢を必要とする社会生活への適応能力を落としているように思います。
このことで、もともと一人っ子で甘やかされていた子供が、さらにわがまま放題に育ち、一年生の学級崩壊にもつながっていると思います。
そこで、本題のいじめ、です。
実際、いじめはいつの時代でもあったでしょう。
私もいじめられた記憶があります。
そして、いじめはきっと無くなることはないでしょう。これにも同意します。
しかし、現代の子供のいじめ自殺に対して、いじめは必要悪などと言っていいのでしょうか?
私は、いじめられたとき、もし親にいうと、学校にも通えないのかとがっかりされるのが怖くて、相談もできませんでした。
登校拒否になりかけても、親の前では明るく振る舞っていました。
先生は何もしてくれないことが分かっていたので、言いませんでした。
実際には、なんとか卒業までもちこたえましたが、その後、私の中にトラウマとして他人への不信感が長く存在しています。
いじめは、いじめられた子には深い心の傷を作ります。
そして、今の社会では学校へ通うことが当然なので、親、先生へは相談しにくいでしょう。
いじめていた子は、特に罰せられることも無く、うまく生きていきます。
そうやって、生きていった人が理不尽な大人になったりするのではないでしょうか。

私が言いたいのは、社会ではもっとひどい人もいるから、学校でのいじめは試練だと思え、というような、また、あたかも、それに耐えられなかったら社会人として足りない、と言わんばかりの発言は、少し違うのではないでしょうか。
私は、このままでは日本の社会全体が、間違った方向に流れていくのではないかと危惧しています。
いじめを受けた子だけではなく、いじめた方の子の心のケアも重要ではないでしょうか。まともな大人になるために・・・。
どこに責任があるとか、そういうことを議論するよりも、子供たちの心の問題をまず第一に考えなければいけないとおもいます。
長文、しかも偉そうに言いまして、すみませんでした。
by (2006-11-03 01:54) 

たいせい

みゆうさん、コメントありがとうございました。
我が家ではまだ直面しているわけではありませんが、やはり3歳の娘と1歳の息子が近い将来学校という場に行くようになるわけで無関心ではいられませんし、自分自身も当事者として考えなくてはいけないことだと感じています。(特に長女は引っ込み思案なタイプで心配しています)

いざ自分の子供が当事者になった場合にどういう対応が取れるかまだ自信がありません。

心配しつつも、自分の子供の自己解決能力を信頼して、子供のSOSサインを見逃さないように注意しつつも、子供社会に必要以上に干渉しない自分でありたいと思っています。
(そのあたりの対応は、おそらく女房と役割分担をしながら、薄氷を踏む思いで進めていくことになるのでしょうが....。)

道はなかなか険しそうです....。
by たいせい (2006-11-03 10:00) 

たいせい

mikyaさん、コメントありがとうございます。
BLOGも拝見させていただきました。そして、少し考え込んでおります。
(そして、同時に意見を書くことの難しさにも思いを馳せました)

表題の「いじめは必要悪?」と言う表現に違和感を感じられているのではないかと思いますが、「いじめは必要!」と書いているのではなく、あくまでも"必要悪?"と書いていると言うところをご理解ください。

そして一つ誤解を解いておきたいのは、
「社会ではもっとひどい人もいるから、学校でのいじめは試練だと思え、というような、また、あたかも、それに耐えられなかったら社会人として足りない」
と言うことを書きたいのではなくて、
「いじめは絶対に無くならないし、社会に出てももっと陰湿ないじめも有り、理不尽な人もいる。それに対応し、乗り越えられる大人を増やすためにはどうすればよいか?」
と言うことが書きたいのだという点をわかっていただけたらと思います。


個人的には、今の状況は少子化による同年代間の接触経験の不足が根本的な問題だと考えていますので、学校や地域社会などの大人の目の届くところで健全な子供社会を作って接触経験の絶対量の不足を補う事が一つの解決法だと思い書かせていただきましたが、

家庭や学校での道徳教育により、「大勢で一人をいじめることの”卑怯”」や「弱い物いじめの”卑怯”」を教えることも、また別の解決法だと思います。
(いじめの克服には「乗り越える」という方法しかないわけではありませんので、「やり過ごす」「かわす」や「耐える」だって全然問題ありません。もっと別の方法も沢山あろうかと思います。)

そして、いじめが起こり、追い込まれてしまった子供たちに対して行う、おそらくmikyaさんが考えられBLOGでの呼びかけなどで実践されている「メンタルケア」もその解決法の一つであろうと思います。

その為には、なによりも「いじめは無くならない」と認識することが前提条件であり、いじめをどこにでもおこる物だと認め、それをどうやってコントロールするか?と言う観点で取りかからなければ、発見する事によって初めて成り立つメンタルケアすらやりようがありません。
(実際に行われているようですが、手法的には、外部からカウンセラーを入れるなども有効そうですね)


いじめた子のケアについては、全く同意します。
ただ、自分がいじめた子が自殺まで追い込まれないにしても、いじめた子供たちの方も、それなりのキズを負っているのだと言う点は、わかっていただきたいと思います。
自分の経験で言うと、いじめた子供も自分がいじめたことを十分に認識しており、それなりの罰を受けることにより救われたがっています。(叱られたりげんこつの一発でももらって、楽になりたいと考えていました)
もちろんそうでない子供も居るようであれば、しかるべく対処しなくてはなりません。


例によって。冗長でわかりにくい文章になってしまい申し訳ありません。

ただ決して、他人事のように考えて書いているわけではなく、自分自身もいじめられた経験を持っている自分が、数年後に自分の子供を通して直面する問題として捉えて書いているつもりです。
(単なる批評家ではありたくないので、等身大の自分が何を出来るか?については模索中です。)

また、ご意見がありましたら遠慮なさらずお書き込みください。

PS.
幼稚園の自由保育。
難しいですね....。
まだ考えがまとまりません、これについてはいずれ「学校の機能」と言う記事の中で書いてみたいと思います。
(「子供の創造性を引き出す」という部分と、「躾け」「社会人としての規律」のかねあいが、自分の中でよく整理できていません)
by たいせい (2006-11-03 16:08) 

まい

>表題の「いじめは必要悪?」と言う表現に違和感を感じられているのではないかと思いますが、「いじめは必要!」と書いているのではなく、あくまでも"必要悪?"と書いていると言うところをご理解ください。

そして一つ誤解を解いておきたいのは、
「社会ではもっとひどい人もいるから、学校でのいじめは試練だと思え、というような、また、あたかも、それに耐えられなかったら社会人として足りない」
と言うことを書きたいのではなくて、
「いじめは絶対に無くならないし、社会に出てももっと陰湿ないじめも有り、理不尽な人もいる。それに対応し、乗り越えられる大人を増やすためにはどうすればよいか?」
と言うことが書きたいのだという点をわかっていただけたらと思います。<

言いたい事は理解できますが、<いじめは必要悪?>は確かに論議する
題名には適するでしょうが、こういう考え方すること自体問題だと思えます。

過度の競争社会で子供社会、大人社会でいじめは無くなりません。
「如何に苛めに対して対処するか?」を論議した方が宜しいのではないでしょうか?
by まい (2006-12-04 16:25) 

たいせい

まいさん、コメントありがとうございました。
いじめについて、これまで議論されている事への問題提起という意味もあり、「いじめは必要悪?」という題名を付けさせていただきましたが、この部分で引っかかりを感じる方がいることが解り、題名について果たしてこの題名で良かったのか?と言う点については、正直言って今の時点では迷いを持っております。
(ただしこの題名と本文をもってコメントくださった方も多数いることでもあり、誤字脱字ならばともかく差し替えるつもりは今のところ有りません:批判は受け入れるしか仕方ありません)

そして、決して「いじめは必要悪であるから、ほかっておけば良い」というつもりで書いているのではないと言うことは、読んでいただければご了解いただけるのではないかと思います。

「如何に苛めに対して対処するか?」と言う点につきましては、本文&コメントで書かせていただきましたように、マクロ的にはいじめはなくすことが出来ないとの前提に立って「大人の目の届くところでの、子供達社会の健全な育成」、個別には「自分の子供の自己解決能力を信頼して、子供のSOSサインを見逃さないように注意しつつも、子供社会に必要以上に干渉しない」と言うことが対処法だと考え、触れさせていただいているつもりで居ます。
(私も人の子の親であり、他人事としてではなく自分自身にそれが出来得るか?が試される質の問題だと、覚悟しています。)

どうかご理解いただくようお願いいたします。
by たいせい (2006-12-05 11:02) 

不動

はじめまして、お邪魔します。

「いじめは必要悪」
なんとも情けないあきらめですね。

日本人の精神性を高めるためには、やはり「いじめ」「いやがらせ」は克服すべき課題ではないでしょうか。

ちなみに、これらの諸問題による社会的損失を考えると、決して放置できるものでも無いと考えさせられます。いかに多くの人材を失ってきたのか、考えさせられます。

もしかすると、「いじめ」克服を理由とした各種反撃が容認されるようになりわが国の社会はアルマゲドン・モードでの生活を余儀なくされるようにもなるのかもしれません。一人前の社会人になるための必要な戦いであれば誰も非難しなくなることでしょう。いや、訴訟社会になるべきかもしれません。

社会人同士による「決闘法」も整備することも必要かと思います。

いずれにしろ、他者への理不尽な振る舞いは「ただではすまない」のではないかと思いますが。
by 不動 (2007-07-25 19:43) 

たいせい

 不動さん、他の方の付けていただいたコメントへの私の返事も含めて読んでいただければ解っていただけると思いますが、本記事で書いていることは決して諦めではありません。
 そして当然現在の状況をなんとかしなければならず、「克服すべき課題」です。

 あくまでも、人間の成長段階の適切な時期に、適切な人間関係を経験させ、一人前の大人として成長させるための道筋が必要だと言っているつもりです。
 少子化によって減った、兄弟同士や隣近所の子供達との同世代の接触・人間関係の絶対量をどう補うか?と言った観点でかからないと、実効性を確保できないとも見ています。

 少なくとも「いじめの撲滅」という「旗印」を掲げて、数年実施された結果が現況であり、サラリーマン化した教師による「虐め隠し」や、陰に隠れた形への「いじめの陰湿化」が起こっているではありませんか?
(もちろんそうでないケースの法が多いと思います)

 その点、いじめは必ず起こるという前提に立って、どうそれをコントロールするか?、適切な年齢できちんとした人間関係を学ばせる、という観点が必要だと感じて書いた記事ですので、ご理解下さい。
by たいせい (2007-07-26 10:59) 

不動

>あくまでも、人間の成長段階の適切な時期に、適切な人間関係を経験させ、一人前の大人として成長させるための道筋が必要だと言っているつもりです。

  子供達に教えるには少し難しいのではないでしょうか。理屈どおりに理解できない野生の人間とも言える未成年が果たして頭で理解できるのでしょうか。ちなみに、適切な人間関係と呼べるようなものを経験するには、子供達が心身を伴って理解できていなければ実行できません。たとえ親であろうともそれを教えるのは困難なことです。親は子供に生活の全ての時間に付き添うわけではありませんから、守り抜くことも出来ません。  

>少子化によって減った、兄弟同士や隣近所の子供達との同世代の接触・人間関係の絶対量をどう補うか?と言った観点でかからないと、実効性を確保できないとも見ています。

 少子化は果たして関係あるのでしょうか。私は校内暴力と受験地獄の世代ですが、今も昔も全く変わりないように肌身で実感しています。私たちの世代でも子供時代に克服できなかったテーマでもあるのです。いえ、どの世代でさえも克服できなかったからこそ、現在までも温存されてしまった課題なのでしょう。ちなみに私の世代におけるいじめ克服法は、極めて原始的ではありますが、「金属バットによる正面突破」もしくは「有力な人間を仲間につける」でしたが、いつ自分がいじめられる側に回ってしまうかわからない戦国学生世界ですから、同盟することによるメリットを提示する義務がありました。要するに「実力を証明すること」ですね。誰も弱いやつと組むことはありえないということですね。私はそうやって下克上を成り上がっていきました。もちろん、ランキングの上位に達したからといって、他者をいじめたりはしませんでした。少なくとも高校まではこのような小さな戦国世界に身を置くことになるのがこの国です。当然、こんなことを続けさせてはならないと思っています。

>少なくとも「いじめの撲滅」という「旗印」を掲げて、数年実施された結果が現況であり、サラリーマン化した教師による「虐め隠し」や、陰に隠れた形への「いじめの陰湿化」が起こっているではありませんか?
(もちろんそうでないケースの法が多いと思います)


  旗印のみで、実際は何もしなかったのが現状ではないでしょうか。果たして、何か具体的な取り組みが実施されたのでしょうか。少なくとも公務員は何もしないのです。民間人、特に父兄が取り組むべき課題であっても、当事者意識を持てるのは、被害者側の父兄のみでしょう。当然、少数派ということになります。


>その点、いじめは必ず起こるという前提に立って、どうそれをコントロールするか?、適切な年齢できちんとした人間関係を学ばせる、という観点が必要だと感じて書いた記事ですので、ご理解下さい。


  いじめは必ず起こるというのは我々も認識しています。しかし、他人、特に未成年という未熟な人間を、いかにしてコントロールするのか(いじめのコントロールとは、事象ではなく、人間のコントロールに繋がると思います)。これが極めて難しいのです。大人と違い、必ずしも説得に応じるということは期待できません。「意味もなく、なんとなく、他者を攻撃するのが子供のいじめ」ではないでしょうか。

 いずれにしろ、「人間関係」自体が誰もが、生涯をかけても難しいと感じるテーマだと思いますので、他者、ましてや子供(適切な時期とはいつでしょうか)に教えるのは至難の技ではないかと思います。

 いじめとは、実に原始的で人間存在の根源にさえ迫る難しいテーマなのだと思い知らされますが、中途半端な知識や考えで、あたかもいじめの存在を認めたり受け入れたりするような安易な態度では、他者はともかく自分だけ納得して自分に降りかかる艱難のみをを避ける程度の知恵にしかならないと思います。

 「シカタガナイ」は他者にまで要求してしまう性質があります。あきらめきれない人間達も多く存在しているということを知っている私としては、個人としての処世術ではなく、やはり国家社会の問題として克服すべきテーマであると考えます。

 長文駄文御容赦ください
by 不動 (2007-07-26 18:10) 

たいせい

 不動さん、この辺りの認識は分かれるかもしれませんが、子供にとっての人間関係は「教え理解させる物」ではなくて、「実体験を通して身につける物」だと考えています。
 その部分で親が関われるのは、子供の自己解決能力を信頼してやや離れた立ち位置から見守ること、そして子供の変化に気づいてあげ、必要なときには必要な措置を断固として執ることぐらいだと思います。」
(私も含め、親が子供に関わりすぎる事による悪しき影響もあるようにも思えます。)

 いわゆる「いじめ」のみが問題視されていますが、現実には子供社会のいびつさが顕在化し表面化しているのが「いじめ」であり、抜本的には健全な子どの社会の形成以外に方法がないのではないでしょうか?

 幾つかのコメントの中でも書いたような気がしますが、具体的には子供達の頭の中に「いじめられたらどういう気持ちになるか?」「仲間はずれにされたらどんな気持ちになるか?」「いじめ続けた結果としての後味の悪さ」など、同世代間の人間関係で身につけておくべき重要な創造力が欠如しているから起こるのではないのでしょうか?

 我が家には幸いな事に二人の子供がいますが、年齢差がありますので長女は三歳くらいの段階ではオモチャの取り合いや、親がらみの順番争いなど常に優位に立って我が物顔で振る舞っていました。
 それが、保育園に通ったり、親戚の子供などと集団で遊ぶことを何度か続けた結果、自分よりも年上の子供との取り合いでは勝てないことと、負ける側の気持ちを知り、弟の気持ちを想像できるようになった結果か弟に対し思いやりの心を見せられるように成長しました。

 恐らく一人っ子のまま育てられていたのでは、小学校入学などの多人数社会に入る際にもっとドラスティックな体験をすることになったでしょう。

 これが私の言うところの、少子化による兄弟や隣近所の子供の減少による「子供の同世代間での接触体験の欠如」であり、育てる者と育てられる者という立場の違う人間関係では教えられない「実体験を通して身につけなければならない物」です。

 恐らく不動さんは私とちかい世代ではないかと拝察しますが、いじめる側としても、いじめられる側としても、それなりに体験は積んできたつもりです。(逃げる、立ち向かう、仲間を作る、長いものに巻かれる、避ける、乗り越える。様々な対処をした記憶があります。)
 ただし、いじめの厳しさという面では、先生なり両親成りが曲がりなりにも存在していた学生時代よりも、社会人になってからのいじめの方が、遙かに陰湿で厳しく、辛かったと感じています。

 これに耐えられ今の自分があるのは、結局の所、子供時代や学生時代に様々ないじめを体験してきているからだと思われてなりません。

 「いじめの撲滅」と言うスタンスでは、さらなる「いじめの潜在化・陰湿化」があるのみで、子供達どうしの同世代間の人間社会を如何に構築するか?が、やはり一番の着眼点ではないのか?というのがこの記事の趣旨です。


 「いじめ被害者の救済」と「平均値の向上」は別の着眼点であり、しいて言えばこの記事では「平均値をどう向上させるか?」を考えているのであり、「被害者の救済」については別のアプローチになると思います。

 また、前のコメントに重ねて書かせていただきますが、決して「シカタガナイ」でも「諦め」でもありません。

PS.
 本来は地域社会が追うべき機能なのでしょうが、地域社会が崩壊しつつある昨今、これを期待できなくなっていると感じています。
 そうなると子供達が多人数社会を経験する場は、学校と言うことになってしまい、国家社会の立場での取り組みも当然必要です。

 ただし、その取り組みの結果が早く出るのならばよいのですが、うちの子供の成長に間に合わない場合、スポーツや地域活動の名を借りて私個人でこれを(子供が同世代での接触経験が出来る場)私的に作る覚悟もしています。
 
by たいせい (2007-07-27 17:43) 

不動

>  また、社会に出れば理不尽な人や陰湿ないじめなど、それこそ山のようにあり、いじめに耐えられない社会人なんて物の役には立ちません。(私自身いじめは、30数年前いじめられる側でもいじめる側でも経験し、それを克服したことが社会人になった自分の糧となっています。)

 「いじめは必要悪?」というテーマでの御意見は私自身も大変興味の在るものです。

 ただ、上記のように、「いじめに耐えられない社会人なんて物の役に立ちません。」というような考えがどうやったら芽生えてくるのか、人間性を疑います。私自身もいじめられたことはありますが、いじめた記憶はありません。人間としてあまりにも卑怯だからです。当然、いじめを必要悪だなどと考えたり、他人に対し物の役に立たないなどという傲慢な態度は許せるものではありません。中途半端に許してしまうから、いつまでもこんな世の中しか創れないのがわが国なのかもしれません。日本語「シカタガナイ」は欧米では蔑視されているように聞いております。日本人は理不尽を容易に受け入れてしまう。さらに性質の悪いことに、他者に対してさえ強要してしまうことも多い。

 たいせい様の言わんとするところは理解できる部分が多いのですが、最初に投稿された文章についてのコメントに対し、後から後から追加で何かおっしゃる。あまり気持ちの良い印象は受けておりません。


 ついしん

 子供及び青少年達は、地域での顔と教室での顔は必ずしも同じではありません。大人(教師でさえも)には感知できないところで本性を出すことも多いのです。私どもも様々に取り組んではおりますが、一番現実的なのは、被害にあっている当事者の話に真剣に耳を傾け、関係する人物達に正々堂々と話し合いをさせるのが効果を出しているように思います。たとえ子供であっても、他人を説得できないような言い訳(いじめる理由)は、こちらが大人であっても正面から非難し、人間社会の厳しさ(他者への理不尽な言動は決して許されるものではないということ)を早期から見せることが大切ではないかと思います。いかなる加害行為も許さないという社会を子供に対しても確実に示すのが我々大人の責任ではないかと思います。

 
by 不動 (2007-07-27 20:00) 

たいせい

 不動さん、学校の機能をどのように考えていらっしゃるのでしょうか?
 私は第一優先で考えねばならないことは、「学力の向上」でも「大過なく過ごすこと」でもなく、「大人として社会の中で通用する力を育てる場」だとの考えを持っています。
(どこか別の記事でそのような趣旨を書いたような記憶があります。今見つけられませんでしたが。)

 理想論は別として、現実の社会で起こる様々な事象に対応出来るスキルを子供達に身につけさせておくには、「必要悪としてのいじめ」をどこかで経験させておくことが欠かせないのではないのか?との考えは今も変わってはいませんし、仮にいじめの撲滅が可能であったとしても、純粋培養ででもあるかのように「みんな仲良く」「いじめなんてどこにも無い」「建て前と本音の世界があるのだ」で育った、希薄な人間関係しか経験しない子供達の行く末に対して大きな不安すら感じています。
 子供自身が悩み苦しみ解決へと結びついた経験のみが、将来、子供達にとっての血肉となっていくのでしょう。
(喧嘩はいけませんが喧嘩は無くせませんし、喧嘩を全く経験せず喧嘩一つ出来ない社会人にはなって欲しくないというのと同義です。)


>子供及び青少年達は、地域での顔と教室での顔は必ずしも同じではありません。大人(教師でさえも)には感知できないところで本性を出すことも多いのです。

 だからこそ、大人が全てを見ることは不可能ですし、子供達どうしの社会の中で大人が関わらない形で自己解決出来るような「健全な子供社会」を目標にしなければならないと思いますし、大人の介入は必要最小限でなければならないとすら思える場合もあります。

(不動さんは、そういった緊急事態の場合の人間関係の再構築をしていらっしゃるのだと拝察しますが、それを否定しているわけではありません。火事が起こったら、耐火建築にせねばならないとか、湿度が低く乾燥しているとか、出火原因は?とかの理屈をこねている場合ではなく、とにもかくにも全力で火を消さねばなりません。)

 いわば子供は「親なり周りの大人が育てるもの」ではなくて、「自分自身の力で育つもの」であり、親や周りの大人は「子供自身の『育ち』を邪魔しない」「方向が大きくずれた場合に、軌道修正の働きかけをする」というかかわり方が私にとっての理想型です。
(放っておくのではなくて、軌道修正には時として強権を発動します)

 これらを「諦め」「シカタガナイ」と言っていると捉えられていらっしゃるのかと思いますが、私も二人の子供を持つ親でもあり(それも引っ込み思案で、いかにもいじめの対象となりそうな性格の子供達です)、
現実世界の中では直接的な介入以上に「忍耐」が必要で「親としての悩み」も大きく、子供の挙動の変化に気を配らねばならない、苦しく大変な作業になると言う自覚を持っています。


PS.
>最初に投稿された文章についてのコメントに対し、後から後から追加で何かおっしゃる。あまり気持ちの良い印象は受けておりません。

 基本的には、記事を書くにあたり頭の中にはその何倍かのバックボーンがありますので、コメントいただいた事柄に対して表現を変え、或いは別の方向から説明させていただいているのみで、「後から後から追加で何か書いている」と言う認識はありません。

 この記事を書くに当たっても、当初はこの数倍の文章量があった物を、自分なりに論点整理・記事の圧縮をして、一つの記事としてアップしています。
 記事の一部分についてご理解いただけない場合は、当然バックボーンである頭の中身を説明させていただくしか無く、一つのコメントに返事を書かせていただく際にも、どう書けば解っていただけるか悩み、これも説明せねば、あれも書かねば、との思いでかなりの時間を掛けてそれなりに真摯に書かせていただいているつもりであり、それをこう言われてしまうと私としても立つ瀬がありません。
(根本原因は、伝えたいことを端的に書くという文書運用力が私に欠如していることで、この点についてはお詫びさせていただきます。)

 またこの記事自体が半年前に書いたものでもあり、当然の事ながらその後、より思索を重ねてもいますし、本質に於いて変わりがないつもりですが、微妙な変化も起こっています。
(別の記事で、この記事の延長線上や周辺を書いた物もあります)


 「いじめは必要悪?」という表題が与える印象もあったのではないかと思いますが、前にどなたかのコメントにお答えしているはずですが、本来私の伝えたかったことを書くのにあまり適当な題名ではなかったかもしれぬと感じています。

 ただし、この題名と本文をもってコメントくださった方も多数いることでもあり、誤字脱字ならばともかく差し替えるつもりは今のところ有りません。
(批判に耐えられぬと判断したら、直ぐに修正するBLOG等も現実にありますが、ハッした言葉は後でどれだけ後悔しようとも取り消すことが出来ないのと一緒で、題名ないし本文の変更を私は「見苦しい」と感じています。:批判は受け入れるしか仕方ありません)

 実名BLOGで、自分の考えやバックボーンなどをかなりしんどい思いを持ってここまであからさまにしている事に対して、むしろ評価いただきたいぐらいです。(リアルの世界でも、私の身の回りでこの記事については議論が巻き起こりました)


PS2.
 不動さんはコメントを読む限り、いじめ問題について何らかの形で関わっていらっしゃる方だと思いますが、現実のいじめに対する対処法として不動さんの仰ることに異論はありませんし、評論だけではなく実際に行動していらっしゃるという点に敬意の念を持っています。
by たいせい (2007-07-28 12:02) 

不動

 正直申しまして、数回に渡るメッセージのやり取りに嬉しく思っています。なにかと議論を避け、うやむやにして済ませてしまう風潮は社会の発展には寄与しないと感じていたところでした。

 私とたいせいさんは、やはり最終的には考え方が違っているのだということはわかります。

 私どもはリアルの世界で、まさに当事者達の間で具体的な活動を(自らが求めているわけでも無く、必要に迫られて始まったのが現状です。)しているうちに、父兄や青少年の間において、明らかに「正義」や「理性」が不足しているという現実を知ることができました。たいせいさんもおっしゃるように、大人社会においてもさして変わらない人間社会が存在しているのも確認しています。しかしながら、現実の世界において、日本社会で生活しているとにわかに信じられないかもしれませんが、「被害者側が正々堂々と渡り合えば、卑屈な人間はすぐに折れてしまう。」という事実を知るに至りました。人間の恐ろしさは、むしろ理不尽な言動をしてしまう人物のほうが骨身に染み込ませる結果になるという真実です。例えば顧客に対してちょろまかしをしてしまった経営者は、予想以上の報復を受けてしまうことになります。そして忘れてはいけないのは、人間は人間を殺害してしまう可能性も否定できないということ。学校を卒業した後も人生は続くわけですから、私の心配は「いじめている側の人」の身の安全に対する部分も大きいのです。大人になっても恨みは忘れないかもしれない、むしろ機会を待ち続けるような人物になってしまうのかもしれないのです。当然、日本社会への影響は計り知れません。たいせいさんもおっしゃるように、学校とは、勉強も大切ですが、人間を知り、人間関係を築くということはそれ以上に大切だと思います。このへんは私も同感です。大切なのは、卑屈な人間関係ではないというところです。現実がどうだとか言ってそれにあわせて逃げるような態度で人生を送ってしまうと、必ずいつか限界が来てしまうし、自律など夢です。なんだかんだといって、最後は原則を求められてしまうのも人の人生です。卑屈がバレずに死ぬことが出来た人もいたかもしれませんが、死んだ後に汚名をかぶせられてしまう人も多いのではないでしょうか。

 我々は、理想論どころか、現実における実践論を進化していくしか無いという、まさに真剣勝負の世界に身を置いているのだという自覚を持っています。実質的な子育てがこれからだというたいせいさんにはまだ予想がつかないのかもしれませんが。

 わが子や親しい人の子供がいじめにあわず、無関係でいられるのが順調だと感じるかもしれませんが、その実「見て見ぬふり」「保身のためにいじめる側にまわっている」という可能性からは逃れられないのです。教室で過ごすとはそういうことなのかもしれません。無関係を許さないのが教室という小さな空間なのかもしれません。

 いろいろと長い文章を投稿させていただいておりますが、今回で最後にしたいと思います。(御要望があれば何年でも継続して結構ですが)

 ちなみに、たいせいさんは御自分の信念で子育てをなさっても結構だと思います。私はそのようなことに対する注文があるわけではないのです。ただ、同じようなことを言っていたお父さんが、結局は現実の問題をクリアできなかったのを記憶しています。「まさか自分の子が」というのが現実であるかと思い知らされていたようです。「個人的な考えなど吹き飛ばされて理不尽な世界へと巻き込まれて翻弄されるのが現実」なのかもしれません(これは知人の受け売りですが)。

 最後に老婆心ながら・・・
 ・会社を経営していくのであれば、人材を育成するという重要な責任があります。人材に対して簡単な見切りをつけてしまうのではなく、相手の話をしっかりと聞いて、ポテンシャルをしっかりと引き出すような努力が必要になってくると思います。人材は思うよりもシビアなものです。経営者を裏切るどころか、敵にさえ回りかねないのが現実です。人間の取り扱いには十分な配慮が求められます。ぜひとも、「大人のいじめや他人に対して理不尽な人間のいない会社」を造ってください。人的崩壊や内部崩壊は、資金では補えません。

 長らくお邪魔しました。
 楽しかったです。
 お元気で。
by 不動 (2007-07-28 16:27) 

たいせい

 不動さん、議論がうまく噛み合っていなかったのではないか?といのが私の率直な印象です。
 幾つかの投げかけていただいた疑問点に対し、本文中でご理解いただけない点を、どう頭の中の思いを紐解いて説明させていただこうか?そんなことで頭を痛めた数日間でした。
 不動さんの方からすると、コメントにお書きいただいた内容から判断するに「いじめに関する現場」を持っていらっしゃり、眼前に展開する様々な事例などから「こんな甘っちょろい発想がどうして出来上がっているのか?」という点で、この記事に反応されたのではないかと思いますし、
 私の方からすると、個々の現場の話ではなく「大枠としてのいじめ・子供同士の人間関係」について書いていたつもりだったので、何やら違和感を感じつつ返事を書いていた様に思います。

 私はこの件に限らず、基本的に「現場」を持っていらっしゃる方のお話を尊重しているつもりでいます。
 仕事でも何でもそうですが、「現場」には修羅場があり幾つかの現場で実際に対処を行って行くにつれ数多くの「経験則」や現場での対処の「原理原則」も生まれてきます。
 そして、その「現場」を経ることによって実際に救われた人たちが存在捨ているわけで、それは尊重するしかありません。

 このBLOGの他の記事も読まれていらっしゃるようなのでお解りいただけているかと思いますが「理屈をこねるだけでは何も生まれない」しそう言う人はあまり好きになれず、「自分で出来ることを自分でやる」というのを大切だと感じており、
一個人やるという点では敵を作るばかりで全く割の合わない「選挙時の公開討論会」という「現場」を自ら作り出したり、業界のためになっても自社のためにはほとんど報われない「地震被害についての情報発信」を行ったりもしています。
 「いじめ」に関しても、不動さんに比べればささやかなものなのでしょうが全く「現場」を持っていないわけではありません。(実際に発生している悲惨な事例にどう対処するかという局地戦の話になってしまうのが嫌で、あえて触れるつもりはありませんでしたが)

 また、「健全な子供たちどうし社会」は、前にも書かせていただいたように可能であれば「学校」や「地域社会」にそれを担って欲しいとは思っていますが、それが出来ない場合に「地域社会」の一員として私的にそれを担える「現場」を持つ覚悟もしています。
(恐らくこの方法が、いじめ被害者の保護者以外も「いじめも含む健全な子供社会の醸成」に関わらせられる唯一の方法だとも考えていますので..。)

 そして、記事本文末尾に自ら書いているように、不動さんにご指摘いただくまでもなく、「まだ子供が学校に行っていないので、いざ自分がその立場になったときでもそう思えるかは今ひとつ自信がありませんが」(本文末尾引用)との自覚も持っています。


 当然の事ながら、様々な「現場」を経験され実体験を通して「いじめ」を語られる不動さんの考えや行動を否定しているわけではありませんしむしろ尊重していますのでその点はご理解下さい。
(もちろん、私の考えを強要するつもりもありません。)


PS.
 稼働日数の少ない8月を控えていたのと、今週の出張の準備などで、私にとっては今回のコメント対応は時間的にかなりしんどい物でした。
 ただし、それなりに深い話が出来たと言うことについては、不動さんに感謝しています。

 私の子育ての基本方針は、「人と違うと言うことにプライドを持てる子供」「優しさや思いやりを持った子供」にしてゆきたいとの考えを持っており、すでにその路線で幼児教育を始めています。
 そして「いじめ」については、ここで何度も触れているように「同世代の健全な人間関係の醸成」という枠組みの中で捉えており、実際に自分の子供が被害者となった場合に(加害者とはならないように育てているつもりではありますが、果たしてどうなるか?)、この考えが通用するのかどうかを問うてみたいとの意味もあって書き記した記事でした。

 不動さんとの一連のやり取りを通して、結局「悲惨ないじめ」が発生した場合の対処も、健全な人間関係をどう修復し再構築するか?と言う観点だとの確認が出来たような気がします。(私の深読みでしょうか?)

 惜しむらくは、私の方はこのBLOGを通してほとんど裸の自分を公開しているのに対して、不動さんのバックボーンなり考え方の真髄を読み取ることが出来ず、少し残念な思いは持っています。

 また気がついたことなどありましたら、どんどんコメントいただければ幸いです!

PS2.
 「最後に老婆心ながら...」と言う部分については、言わずもがななご指摘ではないかと思いますがいかがでしょうか?
 恐らくご自身に対する自負心は相当持っていらっしゃるのでっしょうが、一言多くて損をしていらっしゃるのではないですか?

 不動さんが社会的にどんな立場にお立ちなのかよく解りませんが、もし私と同様な立場にお立ちでしたらこの点を一言アドバイスさせていただきます。(私も子供みたいですね....。)
by たいせい (2007-07-30 12:45) 

読者

たいせいさん子供みたいですよ^^

ブログでご自分の意見や考えを遠慮なく発信していらっしゃるのだから寄せられるコメントが必ずしも同じ意見ばかりでは無くむしろ反対意見も多々あるだろうとは考えないのでしょうか・・・
コメント内容はあくまで訪問者の方々の自由なのですからいちいち反論したり理解を求める必要は無いと思いますよ。むしろ違う意見の中にこそたいせいさんにとって必要なことがあるかもです。

気にかかったのは、たいせいさんがどうして不動さんのついしんに対して過剰に反応し激怒してしまったのか・・・PS2のような言い方は無いように思いますよ。あまりにもイタイところをつかれた、図星だった、いろいろ伝わって来ますが、一言(いやそれ以上に)多くて損をしたのはたいせいさんのほうではないかという印象です。勉強するいい機会だったんですよ。

僕が社会人になりたての頃の部長の言葉を思い出しました。
「経験してから 人に意見しろ」


いちいちカッカと来るようならばコメント受付は承認制でもいいのではないでしょうかね。

僕も親切からの老婆心のつもりですが・・・信じてもらえるのでしょうか。

ご多忙の身でいらっしやるようですし、レスは不要ですよ。
(というよりも、罵られるのが怖いです)
by 読者 (2007-07-31 19:43) 

たいせい

読者さん、過去記事のコメントを追いかけて下さり本当にありがとうございます。
決して激怒してのコメントでは無かったのですが、今読み返してみると、確かにそうとも取られかねない表現になっており、読者さん、そして不動さんに対し率直にお詫び申し上げます。
by たいせい (2007-07-31 23:47) 

たいせい

(続き)老婆心ながら...の部分が余分だと感じ、それを喧嘩腰でなくあっさりした形で指摘しようと書きましたが、全くうまく行っていません。本当に恥ずかしい限りです。

不快な思いをさせて申しわけありませんでした。

PS.
読者さんもこの記事にお気軽にコメントください
by たいせい (2007-07-31 23:50) 

じゅぁき

いつもみうら様のところでお見かけしております、じゅぁきです、はじめまして。

イジメが少子化との関連があるかどうか?
確かに側面の一つとしてあると思いますが、これ一つかといえば、やっぱりそうではないと思います。

また、イジメが必要悪?というところですが、私はそもそも必要悪なんて大人の言い訳と思っておりますので、イジメは確かになくならないけど、例えば自殺に追い込まないようにはできると思います。

また、イジメの質、方法は昔とはかわってきてるのではないでしょうか?
個人的な情報収集をした結果ですけど・・・。
受け入れるべき価値観と、変えてはいけない価値観というのが本当はあると思うんですが、それすら持たない大人がやっぱり子供の社会を形成しにくくしてると考えています。

ある程度は共有しうる価値観、もしくは規則でもいいですが、ないとこういった問題は悪くなる一方ではと考えます。
by じゅぁき (2007-10-19 13:00) 

たいせい

 じゅぁきさん、この記事では、いじめの社会問題化(つまり方法や対処が昔と違うことに依る陰湿化・深刻化)の原因が、少子化により同年代間での接触体験の絶対的な不足によってもたらさらているのではないのか?と言うのが書きたかった事のつもりです。
 その意味では、じゅぁきさんの仰ることとさほどの違いはないのではないかと思います。

 この記事を書いてから多少時間は経っていますが、書いた当時の状況は、「いじめの撲滅」なることを教育界やマスコミが言い続け実際に実行されてきたはずなのにもかかわらず、統計数字では表れない現実のいじめが進行し、それが自殺などの形で実態が明らかになった時期でもあります。
 私自陣の体験などから、「いじめの撲滅」等という物は出来る物ではないと思っており、そんなスローガンを掲げてもいじめが陰に隠れて救いのない物になるだけではないのか?と言う疑問を持っていたこともありこの記事を書きました。(決して諦めではなく、事実認識の問題です。)
 また、自分自身が数年前に身近で見聞きした事件の中から、こういう問題について全く無関心な親の元で育った子供に問題が起こる場合が多いのであって、そんな子供達が切っ掛けとなって起こるいじめについては、私たちのようなこの問題に関心を持っている親は、せいぜい自分の子供を守ることしか手を下しようがないとの無力感も感じ、
何故いじめが陰湿化し・深刻化し・社会問題化したのか?という部分に考えを進める過程で「子供の同年代間での接触体験の絶対的な不足」という考えを持つに至ったわけです。

 いじめも、風疹や麻疹のように大きくなってから病気にかかったら大変なことになります。
 病気の場合も、病原菌の撲滅という観点で、対策を打つことは不可能ではありませんが、どのくらいの実効性があるかどうか?と言う点では大きな疑問があり、仮に病気にかからず成人したとしても、最近あったように上司のプレッシャーで自殺してしまう社会人になるのでは、ほとんど意味がないように思います。
 むしろ、陰湿化・深刻化などの極端な症状にならない適当な時期に同年代間での人間関係を経験させ、「人を思いやる心」「自己主張の方法」「いじめられる悲しさ」「いじめる後味の悪さ」「思い通り行かない場合の耐性の獲得」など、体験させておき免疫を付けておく必要があるのではないかと思える時すらありますが、いかが思われますでしょうか?

 当然理屈やルールを教えることが最終的には非常に大切になりますが、子供はもっと感覚的なものだと思われて仕方ありません。

 少なくとも、いただいたコメントを拝見する限り、「昔も今も、いじめはあった」「昔と違うのは、方法の変化による深刻化」だと言う部分ではじゅぁきさんと全く同じ考えで、問題なのは「陰湿化・陰に隠れるなどの質の変化をどう健全化するのか?」と言う点だという部分にも同意いただけているるように感じていますがいかがでしょうか?
(もし「いじめの撲滅が可能」だと考えていらっしゃるとすると、私とは考えが異なることになりますが....。)

 コメント、ありがとうございました!

PS.
 前にどなたかのコメントに対して書きましたが、「いじめは必要悪?」と言う表題自体に毒が含まれているようで、今にして思えば本来伝えたかったことを表現するにはあまり適当は表題ではなかったかもしれないと思っています。
 ただし、この表題も含めたこの記事に沢山のコメントをいただいていることもあり、あえてそのままにしておりますので、出来ればその点もご理解いただければと思います。
(同様の意味で、特にこの記事の私のコメントにはあまり適当でない物も含まれていると思っていますが、そのままにしてあります)
by たいせい (2007-11-07 15:44) 

じゅぁき

タイトルのつりの件はわかりました。

まず私との共通点は
1.いじめはなくならない
2.昔からイジメあった
3.イジメの方法が変化した
という点は確かに共通していますが、違う点もあげると

1.コミュニケーションに主をおくか、原理原則を主におくか
という一点だろうと思います。

確かに社会にでて、軋轢の中を生きていくわけですし、免疫力を養うという発想ならば大成さんの議論はわかります。
しかし、私はイジメそのものも含めて原理原則を教えられた子供達と教えられなかった子供達の差が現代社会において一番正す必要を感じます。

では原理・原則はなにか?
「基本的人権」です。
人と見た目が違うから軋轢を起こし、仲間を集い、集団で一人をさげすむ事が許されるか否か。
私は否という立場です。

こういった事を感覚であろうと、頭であろうと教え込むという事です。
教えてもなおイジメはなくならないし、人が集まれば軋轢は生じます。
が、教え込まれたもの達は限度を知っています、いや感じています。

そこを子供達のコミュニケーション能力に求めるのは、私は酷だと思います。
大変失礼かとは思いますが、マスコミや時代にイジメの原因、特に深刻化に関して少子化に責任を求めるのは責任転嫁としか感じません。

まずは基本的人権ありきの上でコミュニケーション能力だと思います。
だからといって現実へのアプローチがあるかといえば、そこを見出せずに考える日々なのも事実・・・。
現実へのアプローチの一環で大成さんのあげるコミュニケーション能力の低下、簡素化など問題点は確かにあります。
また、マスコミの問題も確かにあります。

それでもなお、原理原則である基本的人権をしつこく言うのは、その理念なくして現実へアプローチしても小手先に感じてしまからです。
おそらく見てる方向は同じでも、思考の原点が違います。

現実へのアプローチはおそらく似たような意見になっていくでしょうが、教育という立場になれば意見が違うのでしょう。
そんな気がしています。
by じゅぁき (2007-11-09 15:15) 

たいせい

 じゅぁきさん、ツリのつもりはありませんが一旦付けて公開した記事ですので、批判であるとすればそれはそれとして受け取らせていただきます。

 この記事で言いたいことは実は非常に単純な話で、原因は何かを見極め、原因が分かったらそれに対し対策を考えようと言うことにすぎません。
 かつては、いじめが今のように社会問題化していなかったわけですが、今は社会問題化している。
 では、何が大きく変わったのかと言うことを突き詰めたときに、私には「同世代間の接触体験の絶対的な不足」だと腑に落ちたと言うことです。
(「弱い者いじめの卑怯」「一人を多数でいじめる事の卑怯」を教えるなど、一時なるほどと思いましたが、教職者や普通の保護者は今でもそんな場面に出会えば当然そうした指導をしていますし、私の少年時代も取り立ててそうした指導を受けた記憶がありませんので、過去との違いという意味では、該当しないと考えています。)

 原因がそうであれば、対処法は単純で「同世代間の接触体験」を幼いうちから補ってやることが必要で、その為の方策を考えるというのが一番単純な解決法です。
 そして、じゅぁきさんのBLOGにコメントさせていただいたように、昔のような「強い子」が育つ環境とする必要があると考えます。
(私の子供の頃なら普通に乗り越えられたことが、真綿でくるむように育てられた今の子供には「容赦のないいじめ」と認識されているようですので)

 それを、出来もしない「いじめの撲滅」などとのスローガンを掲げる物だから、「陰に隠れたいじめ」を招いてしまったり、「直接行動を伴わない陰湿ないじめ行動」なったりと、複雑化してしまったのが今の姿でしょう。
 また、じゅぁきさんやここでコメントを下さった方については全く心配いらないのですが、現実にいじめに関わる子供の親御さん達は、この件について関心を持ってはおらずどれほど啓蒙活動をしようとも、本当に考えていただきたい方には、話を聞いていただくことすら出来ないとの無力感も持っています。
(実際にやって見ていただければよく解ると思います。:ただこれも、昔もそうであったと認識しています)

 私は基本的に、子供社会の年代に応じた成熟を信用しています。
 子供は親が手取り足取り教えて育てるものではなく、親は子供達が自ら成長するのを手助けする存在に過ぎず、子という存在を通して自らも成長する物です。
 脱線しないように目配せ(これが重要です)をしつつも、子供を信じて過度に干渉しないことの方が現代に求められている要件のように感じています。

 その意味でも、「健全な子供達どうしの社会を復活」することこそ、第一に取り組まなければならないことだと確信しています。
(この辺りの認識は共通していると思いますが、実践の場と行動規範は車の両輪であり、どちらも必要なことに間違いはありません。)

PS.
 もし宜しかったらこちらの記事も読んでいただくと、多少はご理解いただけるかもしれません。

子供のことは、子供達の社会にまかせましょう!(いじめ 昔の家族はこうだった?)
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2007-01-08

子供社会が成熟していました!? &鬼太郎ロード(水木しげるロード)
http://blog.so-net.ne.jp/kawaraya-taisei/2007-05-07

PS2.
 理性に支配されているはずの大人社会ですら、なかなか実現できない理想を掲げるのは困難だと思いますが、その辺りの認識は分かれるかもしれないですね。
 
by たいせい (2007-11-10 15:03) 

じゅぁき

啓蒙活動に関しては私もわかります。実際に興味の方向が違うため難しいですね。

私が大成さんに一番言いたい事は、原理・原則があるからこそ、社会的なアプローチがあるということです。
>まずは基本的人権ありきの上でコミュニケーション能力だと思います。
と書いたように土台を作ってからの論議という事です。

>私には「同世代間の接触体験の絶対的な不足」だと腑に落ちたと言うことです。
これは理由としてわかりますが、実際問題としてこの解決に見合う方法といえば3世代で住みで兄弟を多くすると言うことになりませんか?

私も一人っ子だったので兄弟が多いという事に賛成ですが、現実は違うわけです。
仮に兄弟が多くても私は今の現状を回避できたとも思えません。

>じゅぁきさんやここでコメントを下さった方については全く心配いらないのですが
まさにこれが示した通り、大人が変わらないと子供社会は成熟するなんてありえないと思います。
自分が子供を持って感じた中で、子供は親のマネをして新しい出来事に対処していくわけです。

過去、地域社会があったことでいろんな摩擦を回避してきました。
しかし、大人が楽を求めて地域社会を壊した結果、子供に影響したんだと思っています。

順番から言えば大人が変わってこそ、「同世代間の接触体験の絶対的な不足」は解消するものだと思います。

だから教育というものはあくまで原理・原則を教え込むという”前提”が必要だと思います。
私はこの”教え込む”事が宣誓も大人も甘いと考えています。
教えるのではなりません。徹底的に叩き込む必要を感じています。

過度に干渉する必要はないですが、過激に干渉する必要を感じています。
細かい事はどうでもいいので、人が生きていく「社会」になんの意味があるのか?
そのためにはどうするのか?
それを逸脱しやすい現状をどうやって変えていくのか?

自分だけでなく多くの価値観の共有が求められているんだと思っています。
前にも書いたように、アプローチする本質は同じでも、その前提が私にはあります。
ルールとは何か?
そこまで踏み込んだ事を考え、自分がそれを示せないといけないと思います。
だからこそ、自分が見本であるように頑張るしかないと思っています。
by じゅぁき (2007-11-12 11:08) 

たいせい

 じゅぁきさん、「啓蒙活動」ではありません。
 当然これには「実践」が伴いますし、自分自身に出来る行動をしなければ単なる批評家になってしまいますので、適時その現場を自分自身で作る覚悟もしています。
 地域社会が壊れてしまっていますが、それを補うべく学校現場でも父兄が中心となって地域の大人が主体となった「地域共育」「開かれた学校」への取り組みも始まっており、「同世代間の接触経験」を補う取り組みや「世代の枠を超えた人間関係の構築」は、その中でも非常に大きなウエイトを現実に占めはじめています。(私の住む地域でも、数年前から敬愛する先輩方複数が中心となって始めていらっしゃいます。)
 慶應義塾の附属小学校(だったと思います?)での成功した試みとして、小学校の高学年の生徒に低学年の生徒の面倒を見させるという試行をし、実際に成果を上げている事例なども見聞きしています。
 単なる「啓蒙活動」として受け取っていただきたくはありませんので、その点はご理解下さい。

 じゅぁきさんのBLOGでも書かれていらっしゃったような、昔はあった経験を今の子供にもさせ無ければならないという意味に過ぎません。
>私も”られる方”も”する方”もあった。
>もっともする方の時は意識はなく、その相手はもとイジメっ子だ。
>だから、子供の価値観で天秤にかけたら「イジメられたからイジメていい」という発想があった。
>が、すぐにやめた。
>相手から「お前がやってる事は俺がしてたとの変わらない」
という指摘のおかげだ。
>実際にはそのものに対し、暴力はふるっておらず、一般的な罪の量というものが存在すれば、自分はやられっぱなしに近い(笑)。
>けど、言われて気がついた事は、その通りであり、虚しいと感じたからだ。

 また、じゅぁきさんの仰るところの「原理原則を教える」と言うことを否定しているわけでもありません。
 「様々な原理原則」は子供を指導する側の常識として、当然教職員や保護者を始め現場にいる人たちの頭には入っており、今改めて問題視しなければならない必要性を私はそれほど感じていませんが、それとて単純に否定するつもりはありません。
 ただ、前述の地域教育を進めるグループで一時諸先輩方と一緒に活動していて感じたのは、「原理原則が頭に入っていない方」「建て前のみで原理原則を口にされ行動が伴わない方」(保護者・地域の大人・教職員も含みます)に、「原理原則」を広めることは大変な作業で(ほとんど聞く耳を持っていらっしゃいません)その方達に啓蒙が可能であるとすると、大変な効力があります。
(諦めているわけではありません、成功事例を目の当たりにさせることが出来れば、一定の方達の意識は変わるでしょう。)

 「過激に干渉」と言うことでは、その通りだと思います。
 私自身についても逡巡する気持ちをどう鼓舞するかが一つのテーマだと認識していますが、何よりも学校現場で頑張っていらっしゃる教職員の方々に「過激に干渉」させてあげられるだけの「権限」を渡してあげたいと考えています。

 恐らくこの辺りで議論は出尽くしたと思いますが、いかがでしょうか?

PS.
 「学校の持つべき機能」と言うことで記事を書こうと思考を巡らせていますが、未だ定見を持つところまで行っていません。
 「学校は学習の場」なのか?、「社会生活を学ぶ場」なのか?、「一人前の大人を送り出す場」なのか?、「学校教育・家庭教育・地域教育の棲み分け」はどうあっるべきなのか?、「教職員にどこまでを求めることが出来るのか?」、「地域の大人がどこまで関わるべきなのか?」など、考えるべき事は非常に多くあります。
 知人の教職員と話をしていて感じるのですが、プロ意識をしっかり持った教職員は今でも立派に頑張っていらっしゃいますし、意識の上でも素晴らしいと思える場合が多々あります。
 欧米などでは、学校は学習にしか関わらないなどの事例が耳に入る度に、少ない時間の中、ほぼボランティアで課外活動や生活指導までも一生懸命になっていらっしゃる先生方に、どこまでの要求が出来るのか?という迷いも持っています。
by たいせい (2007-11-12 15:40) 

じゅぁき

>恐らくこの辺りで議論は出尽くしたと思いますが、いかがでしょうか?
そうですね、どうやらお互いに書き足りない部分があったようで、今の視点では確かに同じところから出発してるようですね。

ただ、私はマイナス思考から常に出発し、その中で一番プラスを選択する生き方をしてきました。
よって、原理・原則が常に選択条件の必須になるように心がけています。

ただ、今に限らず原理・原則を勝手に窮屈を決めつけ、それを守らない事がいいというな変な理屈が漂っていて、それに汚染された大人がいくら子供に言ったところで説得力はうまれません。
つまり、子供に対して洗脳するしか方法がないように思えます。
何故なら大人は変わりようがないですし・・・。

>その方達に啓蒙が可能であるとすると、大変な効力
があるはずが、実質可能ではないですから。
そこで私のBLOGでは”意識改革”という事をいってます。

あきらめているわけではないという点が私には感じ取れない一番の疑問点だったため、今回のような展開になりました。

最後に
>小学校の高学年の生徒に低学年の生徒の面倒を見させるという試行を
>し、実際に成果を上げている事例なども見聞きしています。
これって私の小学校時代にも試験導入されました。
「縦割り班」という事で、1~6年で同じ組の同じ班で集合し、高学年が低学年の世話をするというものでした。

理由は不明ですが、結局2年ほどで私は卒業し、卒業後にやる事はなかったそうです。

一班が3~4人ですから24人以下の大所帯ですが、これってかなり効果があったのを憶えています。
前に自分のブログでも書いたのですが、どこに書いたか忘れてしまいました^^;;。

その効果のうちで一番印象的だったのは、不良といわれる人が、1,2,3年生の面倒をよくみるということです。
口では「面倒くせえ」「やりたくねぇ」などといいつつ、結局率先してやっていました(笑)。

このときに不良やいじめっ子などは、面倒見がいいんだと初めて知り、意外に責任を持たせると違う一面があるんだと感じた事があります。
そうですか、今でもやってるところがあったんですね。

>「学校の持つべき機能」
これに関しては、おそらく千差万別であり、価値観の違いが顕著にでます。
まとめる事は不可能にも感じ、むしろ自分の意見を言うしかないでしょう。
by じゅぁき (2007-11-16 17:53) 

たいせい

 じゅぁきさん、慶應義塾の附属小学校の事例は校長先生自らが取り組み学校ぐるみでやった事例として、私の記憶に残りました。
 先日読んだ田宮模型の本の中でも、たまたま交流が始まった青森県の六ヶ所村の小学校に、ふと思い立ってミニ四駆のキットと公認コースを贈ったら、これを生かさぬ手はないと学校ぐるみで「高学年の生徒に低学年の指導をさせる」という手法に取り組み、素晴らしい学年間の交流が生まれたとの話を読みました。
 これも切っ掛けは、たった一人の先生が自分のお金でミニ四駆のコースを買って、時間外に自宅で始めたミニ四駆レースだったそうです。(当初はオモチャを学校に持ってきてはいけないと言うことで、学校側の理解がなかったようです)

 おそらく、じゅぁきさんの経験された「縦割り班」については、学校に精力的な校長先生なり教頭先生が居て始められ(素晴らしい先生ですね)、転勤に伴って中止におなったのではないかと想像しますが、地域の大人がこれを地域ぐるみで行えば何時までも続く運営主体となりうるわけで、そんなことが出来たら素晴らしいと考えています。
(地域共育ということで、実際にやってらっしゃる方達は随分出てきているようです)

 啓蒙という部分では、遊びを切っ掛けにして子育ての意識のない人に来てもらうことを考えたり、ビッグネームの講師を呼んで話をしてもらう場所を作ったり、寸劇などで学芸会じみた催しを手始めに考えてもらえないか?など様々な手法を前述の先輩達は試みたようですが、いずれも失敗に終わったようです。
 意識の低い人たちに考えてもらうこと自体、本当にしんどいことですね...。

 コメント、ありがとうございました!
by たいせい (2007-11-17 11:30) 

じゅぁき

せっかくですので、縦割り班の事をもとに、自分の小学生時代を振り返った記事を書いてみました。
トラックバックさせていただきました。
よろしかったら遊びに来てください♪
by じゅぁき (2007-11-19 11:48) 

たいせい

 じゅぁきさん、トラックバックありがとうございました。
 また、ご意見等ありましたら遠慮無くコメントいただけると嬉しく思います。
(コメントのやり取りやトラックバックの交換などの双方向性が、BLOGのキモだと考えています)
by たいせい (2007-11-21 17:34) 

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