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歌舞伎町の由来話とDNAについて [その他]

歌舞伎町一丁目の真ん中に弁天様がある。中央通り脇、ラーメンの神座のところを入っていくと11チャンネルの並びにある。弁天様は水の女の神様で、その下に11チャンネルがあるという構図がなんとも歌舞伎町らしい。

 

弁財天の縁起と歌舞伎弁天の由来

弁天様は佛教以前に賢者聖人の信仰厚き 宇賀神と稱する天地創造乃神のお一方で 佛教能始祖は天部の神登し佛教の守護神として崇がめられた尊神である 宇賀神はもと淨流水源等水を司る神で妙音天と云われ又美音天とも稱せられた文化神で 信仰すれば知恵が授かり芸術に長ずると古ろから 弁才天登云われ更に戝寶が授かる霊験のある処から 才乃字が戝能字に替り弁財天と云われるようになった而して天部の神が垂れ賜う博愛を 美麗なる弁天のお姿で表現せられ信者は 弁天様乃愛稱で合掌する福の神様である

歌舞伎町は昔大村乃森と云われ広大な沼があって沼の邉りに 弁天様が祀られてあった 淀橋淨水場の建設に当り其の残土で沼は埋められ 峯島家で現在の場所に 弁天様は祀られ 大正二年堂宇の改築再建に当り不忍弁財天より現在安置乃 御本尊を勧請して九月巳の日に盛大な祭典が行われ爾来九月の巳の日を 歌舞伎弁天の祭日とせられた 大正十二年に至り町内有志の発議により 峯島家 尾張屋銀行 町内篤志家乃淨財で大改装がせられたものであったが昭和二十年四月の大空襲で本堂及びお守家も罹災した 其の時熱心な信者の一人岡安たか子氏は苛烈な空襲下に於て 弁天様の厨子を脊に奉戴し堂守の梅原氏が付添ひ笹塚に避難しアパートの一室に安置をした間もなく岡安氏は 弁天様が峯嶋家に移り度いとの御告げがあったので梅原氏夫妻に挓して峯嶋家にお移し申した 混乱した戦災時に於けるこの記録は信者乃田中次郎吉氏に依って明らかにせられたものである 而して昭和二十一年復興協力會では全町戦災した歌舞伎町の計画建設に当り区画を整備せられた際 弁天様の敷地は寸尺も変更せず以前のま〃を保存し復興協力会々長鈴木喜兵衛氏は街建設に魁がけて仮殿を建設し峯嶋家に安置せられてあった 御本尊をお移し申し現在に至ったものである此の度 有志相寄り 弁天堂再建奉賛會を結成し大方の淨財を以て 永久不変の耐火構造に依り 御本堂を再建し 境内の改装を行ひ面目を一新して この霊験あらたかなる 歌舞伎弁財天を当町及び近隣の 守護神として永遠に崇め奉らんとする次第である

鈴木喜兵衛謹書

昭和三十八年四月 歌舞伎町弁天堂再建奉賛會建之               

奉賛會々長 藤森作次郎

建設委員長 小松太良八

これを読みながら、ふとこの街のDNAについて考えてみた。

歌舞伎町という地名は、戦後についた地名であり、それ以前は三光町とか角筈だったという。もともと屋敷町だったようだが、もっと古い歴史を紐解くと、鉄道の駅が開業したのは120年前の明治18年(1885)年。駅の周辺にはまだ武蔵野の田園風景が広がるばかり。新宿駅の北東、現在の歌舞伎町辺りには、元九州長崎の大名であった大村家の別邸があったとか。当時このあたりは湿地帯で格好の鴨場だったそうです。その後、尾張銀行の元頭取峯島家のものになり、森林は伐材され平地に。鴨場の周辺は“尾張屋の原”と呼ばれた。明治26年東京の市民に飲み水を提供する淀橋浄水場が建設された時にその残土で残っていた鴨場の池が埋め立てられ、さらに大正9年には現在のコマ劇場の辺りに東京府立第5高等女学校ができ、徐々にこの歌舞伎町あたりはひっそりとした住宅街になっていった。
太平洋戦争末期昭和20年4月13日の米軍の空襲によって新宿駅周辺は焼け野原になってしまう。終戦を迎え、当時淀橋区角筈一丁目北町会の会長だったのが鈴木喜兵衛。疎開先からこの地に戻った鈴木氏は、家や家族を失いつつも散りじりになっていた当時の住民たちを訪ね、「復興協力会」を結成。戦後復興の鍵は観光にあるとして、地主・借地人・居住者をまとめ、区画整理をし、道義的繁華街をつくるというまちづくりの計画を立てた。劇場を中心に、映画館、演芸場、ダンスホール、ホテルなどを建設するという計画。占領下にあって存続が危ぶまれた伝統芸能を守ろうと、演劇関係者らが発起人になり菊座という名前の歌舞伎劇場建設も計画された。折から、新興文化地域にふさわしい町名を、との声が起こり、都の石川栄耀都市計画課長が提案した歌舞伎町に決まった。昭和二十三年のことで、「語呂もよし感じもよく、この町の建設目的にもピッタリとして居るので」と、鈴木氏はその著「歌舞伎町」(昭和三十年)で回想している。

 

昭和23年4月1日、新宿に歌舞伎町が誕生する。しかし、GHQによる大規模施設の建築禁止令が出て、歌舞伎の劇場計画は中止になってこの計画はいまだに実現していないし今後もないだろう。

 昭和24年都電の終点が新宿駅東口から歌舞伎町の入り口に移転。さらに昭和25年産業文化文化博覧会の会場に歌舞伎町が名乗りをあげ、これが大成功。そして、昭和29年大規模施設の建築禁止令が解除され、産業文化博覧会用に建てられた施設を改築して映画館やスケートリンクが誕生、いまの歌舞伎町の原型が出来上る。昭和31年には、歌舞伎町の中心に新宿コマ劇場が誕生、当時の住民達の歌舞伎劇場誘致への想いが歌舞伎劇場ではなかったにせよ一つの目標達成だったかもしれない。映画館、劇場、スケートリンクを中心に多くの人たちがあつまった歌舞伎町には飲食店も増え、「大衆娯楽の街」として繁栄の時期を迎える。

昭和30年代は戦後生まれの若い世代がこの街に集まった。ツイストで踊り明かし、歌声喫茶で歌い、酒を酌み交わす当時の最先端の文化・流行発信の街として栄えた。

ビジネスチャンスも多く、戦勝国として利権を与えられていた台湾華僑は歌舞伎町の一等地を手に入れ盛んに商売した。一等地といえば、戦後の区画整理で鈴木氏のやりかたにすべての住民が賛成していたわけではない。ただ、その際に鈴木氏側についた人たちがいわば利権を手に入れた。今の靖国通り側や一番街通りに面したビルオーナーたちである。

その後の歌舞伎町の姿をみて鈴木氏はどう思うのだろうか。彼が目指した「道義的歓楽街」というコンセプトといまの歌舞伎町の姿。鈴木氏が与えたこの街のDNAが大衆娯楽の街だとしたら、もう一つのDNAはむしろ露骨な資本主義の側面をもった姿がある。ここの部分は、決して道義的とはいえない、むしろ儲かるならなんでもアリ、といったDNAである。そして華僑や半島系の人たちも多く関わり、多文化の共生した街という部分も併せ持つ、許容性の高い街へとなってきた。許容性の高さは同時に対立も生み、結果暴力団が介在できる余地を与え、ここらへんに暴力団をときに利用し利用される根深い構造がいまの歌舞伎町を築いてきた。大衆娯楽と許容性、これが歌舞伎町のDNA。

今の歌舞伎町のまちづくり、大衆娯楽の企画生産と消費発信の街といったコンセプトと暴力団のインフラの徹底排除は、ときにこの街のDNAである許容性という部分でぶつかるのかもしれない。暴力団員も一人になればただの人、そんな彼らもシノギがきつく最近は自殺するものもいるそうだ。ある寿司屋の社長がこんなことを言っていた。「ウチは上の連中しか来ないが、彼らは普段いきがってるから一人になると意外とウツなんだよ。拳銃もってるから、めんどくさくなっちゃうんだろうなぁ、つい自殺してしまうってのがけっこう多いんだよ。」

この許容性を失ったら歌舞伎町は歌舞伎町でなくなってしまうという人たちもいる。いまのまちづくりが完全に実行されればそれはまったく違う歌舞伎町になる。やや違法なものまで許容性のある旧態然の歌舞伎町のほうがいいのか、あるいは意志をもった許容性の範囲でのまったく新しい歌舞伎町のほうがいいのか、どっちに向かうのかそろそろはっきりしそうだと思っている。


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