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207 【上級】文法 [上級]

Bagi masyarakat pedesaan, suasana saling _____ dan solidaritas sosial masih bisa kita rasakan, meskipun sudah mulai berkurang akibat virus materialisme yang dibawa arus globalisasi.

A. tolong-tolong
B. tolong-menolong
C. menolong-tolong
D. menolong-menolong

解答:B
村社会において、助け合いの雰囲気と社会的連帯を、我々はまだ感じ取ることができる。グローバル化の流れがもたらした物質主義のウィルスの結果、それはすでに減り始めてはいるけれども。

tolong-menolong は「助け合う」という意味である。
動詞 menolong から派生するくり返し語は tolong-menolong だけで、残りの選択肢はすべてダミー。

me- 動詞をもとにしたくり返し語には、次の2種類がある。
① tolong-menolong タイプ:「おたがいに~し合う」という意味
  tolong-menolong 「助け合う」
  pukul-memukul 「殴り合う」
  tukar-menukar 「交換し合う」
  tarik-menarik 「引っ張り合う」
  surat-menyurat 「文通する」

② melihat-lihat タイプ:「たくさん、くり返し」という意味
  melihat-lihat 「あちこち見る、見物する」
  mencari-cari 「探し回る」
  memaki-maki 「ののしり続ける」
  memanggil-manggil 「呼び続ける」
  mengejar-ngejar 「追いかけ回す」

最後の2つの例のように、②では、鼻音化する(me- によって基語の最初の音が変化する)場合、後ろも変化した形になります。
(*memanggil-panggil ではなく、memanggil-manggil)

このような動詞のくり返し語は、私の知る限り、イン検ではまだ直接出題されたことがありません。バタオネ本にも詳しい説明はないようです(だから出題しないのでしょう)。大事な内容だと思いますので、(イン検対策ではなくてご自身の勉強のために)①と②のちがいを整理しておきましょう。

問題文中、
solidaritas 「連帯」(英語:solidarity)
materialisme 「物質主義、唯物論」(英語:materialism)
どちらも、インドネシア語ではよく見かける外来語ですが、日本人には難しいですね。


コメント(9) 

コメント 9

sandy

saling tolong-menolongは、para guru-guruみたいなもので、重複してしまうのでbahasa Indonesia yang tidak efektifといいます。tolong-menolongか(saling無しで)、またはsaling menolongかにするのが望ましいですね。まぁ、インドネシア人でもよく間違えますからね。Saudara-saudara sekalianなんてみんな言うし。。。
by sandy (2006-01-28 00:32) 

jaman

いつもありがとうございます。
この文章は、Suara Merdeka から、そのまま取りました。
ご指摘の点は、私も気づいてました。直そうかどうか迷ったのですが、saling が残っていた方がヒントにもなるかと思って、そのままにしました。解説で書こうと思っていたのですが、忘れてしまいました。
"saling tolong menolong"はなんと 10,200件もヒットします。"tolong menolong" は 52,100 件です。この比率を見ると、"saling tolong menolong"が「誤り」とは言えないように思います。

あと、"saling tolong menolong" と "para guru-guru" は、はたして同じ現象(どちらも望ましくない表現)なんでしょうか?
日本語で「おたがいに助け合う」は自然です。「おたがいに」=saling, 「助け合う」=tolong-menolong と考えれば、問題ないかもしれません。

ところで、日本語で似た現象として、
?「会社に入社する」 ?「車に乗車する」
等があります。しかし、修飾語をつけたり、言いかえたりして
「貿易会社に入社する」「タクシーに乗車する」
等は自然で、問題ないと思います。いくら規範文法家でも、
「タクシーに乗車する」はおかしい。「タクシーに乗る」が正しい。
と言う人はいないと思います。

私の立場は(おわかりだと思いますが)、Pusat Bahasa の考える「正しいインドネシア語」ではなく、実際に用いられる「自然なインドネシア語」を出題したいと思っています。ですから、記事から取った問題文は、(明らかなつづりミスとかは別として)できるだけそのまま出します。もちろん、議論になる点については、できるだけふれるつもりです(今回はふれるべきでした)。これからもよろしくお願いします。
by jaman (2006-01-28 00:59) 

sandy

ごもっともです。
その現象は、文法用語で(majas) pleonasmeまたはpleonastisといいます。私が指摘したのは、実はずっと前からインドネシア語文法家が指摘するところなのにいまだに使われていることに対する指摘です。中学校から高校までインドネシア語の授業で習ったし、当時で云うebtanas(全国一斉卒業試験みたいなもの)にも出題されるのに。もちろんjamanさんに対してではありません(笑)参考として、このサイトです。http://www.indomedia.com/intisari/2001/Sept/briket_bi.htm

日本語でも言いかえたりしてその重複現象を避けますよね。私がよく耳にするのは、「頭痛が痛い」とか。あと、インドネシア語ではturun ke bawahとかnaik ke atasとかもpleonasmeですが、日本語では「下に下がる」とか「上に上がる」などはどうでしょう。
by sandy (2006-01-28 01:48) 

jaman

「下に下がる」は問題なくOKでしょう。たぶんそれは、漢字が同じになっただけなので、「したにさがる」とひらがなで考えれば、違和感はないはずです。(でもそれなら「頭痛が痛い」もOKのはず?)
しかし、?「下に下降する」は不自然な気がします。和語と漢語(訓読みと音読み)が関係しているかもしれません。

関連して思い出したのですが、むかし、正確な文は忘れましたが、
Burung terbang di langit. (鳥が空を飛ぶ)
みたいな文を書いたら、「di langit は不自然。だって鳥が飛ぶのは空に決まってる」と言われた覚えがあります。

あと、朝鮮語を学んでいる友人が、
「彼は年が若い」
と(朝鮮語で)言ったら、「年が」は不要だと先生に笑われた。
と言ってました。いずれも、日本語ではきわめて自然ですが、おもしろいものですね。

少し話がそれますが、
Meskipun ......, tetapi ......
Karena ......, sehingga ......
のようなものも pleonasme とされることがありますが、そういう批判はホントくだらないと思います。だって、前半の従属節が長くなったとき、tetapi が入っていれば、どこまでが meskipun なのかがわかりやすくなります。あった方がわかりやすいのに、「理屈」でダメだと言う。それこそ、私がいつも言っている、「ことばのいのちを破壊しようとするインテリども」です。

日本の古典には、
かぐや姫言ふやう、「われ月の都の人なり」と言ひけり。
(かぐや姫が言うことは、「私は月の都の人間です」と言った。)
みたいな表現があります。
読むのではなく聞くことを前提にしていれば、前後に「言う」という表現があったほうがわかりやすい。それを、近代人が pleonasme だと言って批判するのは、まったく的はずれだと思います。
by jaman (2006-01-28 02:34) 

sandy

日本語のpleonasme(重複現象)をいくつか見つけました。
「馬から落馬」、「食事を食べる」、「日本に来日する」、「上に上昇する」、「一番最初」、「まだ未解決」、「内定が決まる」、「右に右折」、「詳しい詳細」などの言い方はよくみかけます。また「いま現在」、「後で後悔する」はおかしくないとされているそうです。
Burung terbang di langitは、言われてみればそうかもしれませんが、di atas kepalaku、di antara bangunan-bangunan tinggiとかも言えるんじゃないかと思います。
by sandy (2006-01-30 00:37) 

jaman

>日本語の pleonasme
ハハハ。おもしろいですね。

以下、日本語ネイティブとして、私の判断を書きます。たぶん日本人によって判断はバラバラでしょう。参考までに。

1. * さむらいが馬から落馬した。
2. ? もう食事は食べましたか。
2a. もう夕食は食べましたか。(適格)
3. ?* 有名な歌手が日本に来日した。
4. * 飛行機はゆっくりと上に上昇した。
5. √/? 一番最初にもどって考えよう。(適格または?)
6. まだ未解決の問題が残されている。
7. √/? やっと一社内定が決まった。
8. ?? そこの角を右に右折してください。
9. ? 詳しい詳細については資料をご覧ください。
10. いま現在は調査中です。
11. 後で後悔しても知らないよ。

√/? 印は、話しことばとしては問題がないと思いますが、書きことばの場合は直す、というものです。
?? 以上は、話しことばとしても不適格だと思います。
by jaman (2006-01-30 01:00) 

ine_go

どこの国でも、pusat bahasaのようなものを持っていると思います。日本でもそうでしょうね。「綺麗で、正しい」といわれる言葉というのは、おそらくレトリックな(修辞的)表現を探求して、相手に一番効率よくどのような表現の仕方をすればよいかということです。語用論の立場を踏まえての考え方だと思います。女子高生によるアナウンスは、一度、聞きたいですね。彼らの表現は、どれぐらい効率よく視聴者に届くかをも知りたいです。
 dia hanya diam saja. という文章は、おそらくPusat Bahasaの方に聞けば、間違い表現でしょう。実際に聞いたことがあります。最初は、jamanさんのように、それは無いでしょうって気持ちが強かったのですが、ただ、日本語教育論の中で、なぜ大学生などの若者があまり使わないのに、「です・ます」の表現を初級段階に教えるべきなのか という論争(みたいなモン)があって、でもやはり、「綺麗で効率のよい表現」を身に付けば、大抵の場合は、問題無し。宣教師は、つまりバテレンですが、日本にやってきた時に、地方語の研究を進めて、辞書まで編纂して、地方語をも理解しようという努力があります。しかし、宣教する時に、自ら何かを話す時に、京都表現を使っているんだそうです。
 pleonasme に関して、jamanさんが書いた通り、的が外れるのでは という感じがしないでもないのですが、アナウンサなどに成らなければ、そこまで考える必要が無いと思います。聞き手は話しを聞いている時に、言われたことは、音と共に消えて、一瞬の記憶に内容を入れようとするんですが、やはり、記憶の限界というものがあるので、印象をより強くするには、あえて、重複表現を使うのが効率が良いと思います。この点に関して、Pusat Bahasaの方は、文章重視か又は、コミュニケーション論を排除して、言語政策を進めるのでは?。インドネシアの優れている研究者は、政治や経済などに忙しいので、結局、Pusat Bahasa が出した見解をさっと流すだけなのかもしれませんね。
 後、教育現場から言いますと、同じ教科書をずっと使うことも恐ろしいことです。何回も何回も同じ教科書を使っている内に、文章に慣れてしまって、「これは、余計でしょう。」と思うことがしばしばありますが、でも、声に出してみれば、実は、自然に聞こえるのです。同じ文章を何回も何回も読めば、結局、目が耳寄り早いので、意味が重複する言葉を省こうと省こうとついついそういう風になってしまいました。ですから、授業を必要以上に準備することをやめました。耳をもっと頼らないといけないですね。
 
by ine_go (2006-01-31 14:42) 

jaman

ine_go さん

>>「綺麗で、正しい」といわれる言葉というのは、おそらくレトリックな(修辞的)表現を探求して、相手に一番効率よくどのような表現の仕方をすればよいかということです。語用論の立場を踏まえての考え方だと思います。

日本でもインドネシアでもフランスでも、そうではないでしょうね。もし、お上の定める「正しいことば」が、完全に「語用論」的観点から決められるのであれば、(個々の事例では私と考えが異なることは多いでしょうが)私は基本的に賛同します。でも実際は、「伝統文法」なるものを金科玉条のごとく振り回し、言葉狩りをくり返して優越感に浸ってるだけだと思いますけどね。

>>インドネシアの優れている研究者は、政治や経済などに忙しいので

以前、大学の経済学の教授から、「言語学にはろくな人物がいない」というふうな感じでからまれたことがあります。日本の言語学界を見わたしても、残念ながら、おっしゃる通りです(涙)
言語学者の最低限の義務は、教科書と辞書を作ることだと思います。
生成文法系の英語学者連中はたくさんいますが、最新の理論をもとにした、中学生向け英和辞典は出てますか? 誰も読まないような学会誌に、意味不明の樹形図や専門用語にあふれた論文を載せて喜んでるなんていうのは、単なるマスターベーションで、何の意味もないです。この気持ちを忘れないようにします。
by jaman (2006-01-31 23:31) 

ine_go

でも実際は、「伝統文法」なるものを金科玉条のごとく振り回し、言葉狩りをくり返して優越感に浸ってるだけだと思いますけどね。

全くその通りです。「効率よい表現」とは、母語話者が一番多く共有しているだろうという知識を元にして作られた表現だと思います。その・皆に何となく通じそうな知識とは、伝統文法です。アリストテレスのカテゴリ論(もしくはPlatoのイデア論を元にした言語名称目録観的な観念)は、伝統文法の中心部にあると思います。しかし、カテゴリ的な考え方は、理想主義で、実践的ではないのです。ですから、インドネシア語には、「主語」が無いと言っても良いのに、「主語」が省かれたと言わざるを得ないのですね。しかし、改めて、中学校・高校の教科書を見ますと、省き方そのものは、省かれた?。どのようなケースで、どのような場面で主語を使わなくても良いかは、少しマトモな教科書の場合でも、「それは、口語を使う時に主語を略しても良い」としか説明が無い。これは、結局、矛盾を生みますね。
 インドネシアで、インドネシア人向けの例えば「インドネシア語の知られざる仕組みSisi Bahasa Indonesia yang tidak Anda ketahui 」というタイトルの教科書を作ればいいのかもしれませんね。用は、感覚に近い説明・モデルが一番ですね。ただ、これは、jamanさんがなさっている作業と同様に困難極まり無いですね。
by ine_go (2006-02-01 14:08) 

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