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権利としての自由と、強者の放縦という意味での自由 [政治・経済]

 新自由主義とかネオリベラリズムと言う言葉が、流行っていますが、これらは本来の自由とかリベラルという衣をかぶって、実は反対のことを言っているのだと考えます。

 本来、権利としての自由というのは、個人の思想信条、信仰、言論、移動などの自由であって、その自由を保証するために、支配者、国家、大企業、団体に制約をかけるものです。ところが、新自由主義というのは、国家や大企業のフリーハンドを増大し、個人の自由と同列に置く欺瞞がある。

 国家、大企業などと、個人とを同列にみなすのは、一見、平等に見えて、実は公正ではない。はじめから対等でない、強者と弱者を平等に扱うのは、それこそ形式的平等で不公正であります。労働契約法というのは、まさにそれを具現化したものです。

 同様に、信教の自由は、万民に保障されるもので、それゆえに、一人の民の自由と、内閣総理大臣小泉某の自由とは、同じではない。公職にあるもの、権力の座にあるものは、信教の自由を制限されて、始めて万民の自由を保障できるのです。宗教法人靖国神社の自由は、政府からの干渉を撥ね付ける意味では自由ですが、個人に対しては、靖国神社を信仰するかしないか、祭祀するかしないか、は、個人の自由が優先するものです。

 報道の自由も、政治からの自由、影響力を持つ特定団体からの自由を保障されているもので、弱い立場の人民からすれば、個人の内心の自由、移動の自由が優越すると考えます。

 ネオリベラリズムは、これらの自由の概念をひっくり返して、強者の自由と教弱者の形式的平等を説く、不自由不平等主義、というのが、本質だと思います。私は、それを、プシュード(偽)リベラリズム、偽自由主義と呼びたいです。


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コメント 2

yamamoto

私も,批判側がなぜ「新」「自由」主義,などという美名で呼ぶのかいぶかっていました.で,ちょっと前から「新放任主義」と呼ぶことにしています.
by yamamoto (2005-10-26 20:43) 

yamamoto

昨日の西日本新聞にR・ドーア教授の論説がありましたが,「放任主義」という言葉を使っていました.なるほど,シュードリベラリズムもいいかもしれませんね.いつもコメント,TBありがとうございます.
by yamamoto (2005-10-26 20:43) 

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