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お玉稲荷(日本橋北部) [江戸の風情]

お玉が池跡地界隈は、幕末の頃には、佐久間象山「象山書院」、東条一堂「瑤池塾」、大窪詩佛「詩聖堂」、千葉周作「玄武館」、磯又右衛門の柔術道場(天神真楊流)といった文武が学べる場所で、それらを学ぶ者達で賑わったと言われる。
お玉が池は、江戸初期の湿地帯であった頃、埋め立て開発で生まれた池で、不忍池よりも広い池だったというが、幕末の頃には埋め立てられて、ほぼ無くなっていたという。
名は、神田松枝町のお玉が、池に身を投げたという古事から付いたとされる。
現在お玉が池を偲ぶものは、お玉稲荷だけである。

桜ノ池(お玉が池と呼ばれる前は、こう言われた)に身を投げたお玉の霊を鎮める為に建てられたといわれるお玉稲荷。
水天宮通りから細い路地に入ったところにあるのだが、これまた見落しやすい。

鳥居は、石造りの鹿島鳥居。
鹿島鳥居は、丸柱と丸笠木、丸柱を貫通する角貫から構成される鳥居である。
鹿島鳥居は額束がないのが特徴だが、ここの額束は針金で固定されているので、元はなかったと考えていいだろう。
ただ転び(柱の傾斜)がややあるので、厳密には、鹿島系鳥居といったところか。

お玉が池種痘所跡の石碑と説明板。
蘭方医達が幕府に働きかけ、資金を出し合って開設したのがこの種痘所である。
その後下谷に移転、万延元年(1860年)には幕府直轄となり、文久元年(1861年)には西洋医学所と改称された。
これが現在の東大医学部である。


タグ:神社
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