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中井久夫『関与と観察』 みすず書房 2005年 書評 [Book_review]

                          

この書物は精神科医中井久夫の講演やエッセイのうち戦争や災害に関するもの、それに書評を収録している。

2004年末、中井が行った講演『日本社会における外傷性ストレス』p14~p40から:

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 中国戦線での戦争神経症者は被害よりも加害体験によるものが多いはずです。私はある詩人の子息のことを思い出します。彼は中国戦線から帰国後、座禅をもっぱらとしていましたが、毎晩、血なまぐさい悪夢にうなされていました。兵士として残虐な場面に無感覚になるために、訓練として中国兵士を銃剣で刺殺させられた原体験がありました。
 いわゆる南京の虐殺はその代表的なものです。直後に交替した軍司令官は「作戦一段階と共に軍紀風紀漸く頽廃、掠奪、強姦類の誠に忌はしき行為」の頻発を日記に記しています(『畑俊六日誌』1938年、1月29日、みすず書房、『続・現代史資料4』、1983年)。彼は天皇に軍規の厳正化を誓い、1938、9年には軍規違反は減少します。
 現地にいた作家石川達三は南京事件を『生きている兵隊』に書いています。彼は処罰されました。しかし、事実は帰還兵によって本国に知られてゆき、小学生だった私も軍人が祖父に語っているのを直接聴いています
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p31
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また、戦後五十年、「戦友会」がさかんに催されましたが、中国戦線参加兵士の戦友会は、しばしば口論、喧嘩、乱闘に終わったそうです。この集団の葛藤と外傷の深さを示唆する事態です。
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p36
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日本の古くからの伝統に、「清め」と「鎮魂(魂しずめ)」があります。
(略)
「魂しずめ」は、自分に対して怨恨を持っている魂を鎮めて、自分に「祟り」を起こさせないようにすることで、エゴイスティックな動機によるものです。それは「他者の行う清め」です。
 しかし、「祟り」を恐れることは、伝統的な日本人の道徳的抑止力となっていました。「清め」の重視は太古における先住民族の殺戮と関係していたのかもしれません。たしかに殺害され集団的に埋葬された縄文人の骨が山陰地方で発掘されていますが、その規模は明らかではありません。弥生人と縄文人の混血が広く行われたのはまず間違いないでしょう。天皇に対する反逆者さえも祭られるのです。靖国神社も戦死者の怨みを鎮めるために生まれたのでしょう。私は戦時中の靖国神社の大祭のラジオ放送の記憶がありますが、まったく勇壮さから遠い、悲哀にみちたものでありました。
 A級戦犯の靖国神社への合祀が問題になっています。当時の日本国民は彼らを支持し、そしてその後見捨てました。そのことも一種の疚(やま)しさをうんでいるのかもしれません。。。
(以下、省略。貴重な講演につき、是非、原文に当たって欲しい)
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著者は地元で発生した大災害、1995年の阪神・淡路大震災の被害者ケアに係わった。救援活動に関する興味深い記述がある:

p20
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 すべては強い共同体感情の下に行われました。ある米国の医療人類学者は、悲惨さとお祭りの雰囲気とが同居していると指摘しました。この自発的救援の実行によって、戦後初めて日本人は自尊心を取り戻しました。
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さて。。本書中、わたしが最初に注目し、読んだ記事は本書末尾に収録されている書評、
  石川九楊『日本書史』を読む
である。初出、2004年11月。

石川九楊は書家。NHK ETVの番組で書の初歩を指導したこともある。
筆触、や、日本語の特徴に数々の著作があるがそのなかで、10年前に著した『中国書史』と本書は別格であろう。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4876980306/sr=11-1/qid=1163041222/ref=sr_11_1/250-4394691-2059415
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4815804052/ref=pd_sim_b_1/250-4394691-2059415

p304
中井は言う:
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 私が本書を読んで、まず得たものは、個々の歴史的人物を書によって切る面白さであった。
(略)
 私の感触では、著者による筆触分析の方法は深層心理の分析法に近い。深層心理の分析は何も心の奥に隠れているものを引っ張りだすのではない。それは、些細なしぐさや言葉づかいのはしばしから出発する。著者の分析も筆触から出発する。書家はそれを偽ることができない。筆触は文字の無意識面である。ある人の文字言語的無意識、さらにその人まるごとの無意識である。
 それだけではない。本書の究極の見どころは、この孤島文化の集合的無意識、歴史的無意識を洗いだすところにある。これはひょっとすると他の方法では容易に到達し得ない面ではないか。
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。。として、石川による聖徳太子、聖武天皇/光明皇后の書への言及にコメントしているが、。。

##p310以降

 もっとも衝撃的なのは、空海の書についての判断である。。
(略)
。。 空海は卓越した学僧で、見事に中国の書をマスターしているが、「ぶ厚い中国の知識を背景としながら和様のはしりをみせる空海は、知識に飢えた日本の、権力と、地域に無縁の大衆の両者を翻弄する怪物僧であったように、書からは思える。空海を神秘化する空海論は一度冷静に再検討いされるべきではないだろうか」と著者(石川)は結んでいる。
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さらに、著者中井は、中国人留学生の興味深いエピソードを載せている。

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。。彼ら留学生には 平かなはごく覚えやすいという。彼らの文字意識には原漢字とのつながりがなお見えるらしい。「カタカナ」に閉口し、これを嫌うのは、別の漢字あるいは無意味な記号に見えるからであろう。
  中国は現在も営々としてすべての文物を中国語に置き換えつつある。元素の名ばかりでなく、すべての化学基(radical)に固有名を与え、これを以て、すべての薬品を漢字で表現する。。。。漢語化していない文物に「いまだ名あらず」と注記してあるとき、「まだ中国世界に市民権を与えていないぞ」という気迫を感じてしまう。日本語が全面的にカタカナ語を使っているIT用語にも断固、漢字で対応している。そちらをみて「ああそういうものか」とヒザを打ったこともある巧みさである。
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何も考えずにカタカナに置き直すのは、確かに外国語を<日本語化>するのに手っ取り早い方法ではある。しかし、辞書上の語彙数の豊富は智慧の豊かさを保証はしまい。

http://www.yorozubp.com/0203/020322.htm
http://www.ncs.co.jp/china/chinese_it_words.html

日本書史、目次:
http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN4-8158-0405-2.html

石川九楊は故白川静を私淑していた。石川が近代日本第一の書家、とするのは明治の民権家副島種臣である。
http://www.keibunsha.jp/soejima-1.htm
http://www.city.saga.lg.jp/up_images/s3491_20060317034259.jpg


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コメント 2

cyanic

トラックバックをいただきましてどうもありがとうございました。
こちらの雰囲気とは違って,気楽なものばかり日記にしていたので,
少し面映いような感じです。
「清め」,「魂鎮め」の件と,空海のことは面白そうですね。
探して読んでみたいと思います。

by cyanic (2008-05-11 18:52) 

古井戸

数冊買いだめてあるのでもう一度読みたいと思います。
話題が多岐であるし。
高校生などにも買える、。。。値段にしてほしいね、みすずさん。

by 古井戸 (2008-05-15 11:37) 

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