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ある女性評論家のホフマン@ローエングリン論あるいは讃(4) [PH]

この夏、1982年バイロイト音楽祭の「ローエングリン」がDVDで発売される予定です。興味のある方は、こちらへどうぞ..... 外国版も秋に発売になるらしいです。関連記事
また、すでに内外のDVDが出ている1986年メトロポリタン歌劇場のものも、こちらは日本語字幕無しですが、ドイツ・グラモフォンから再発売予定だそうです。こちらをご覧下さい。

さて、マリア女史のホフマン@ローエングリン論あるいは讃、第三幕前半。三幕は前奏に続いて、誰でも知っている「結婚行進曲」で始まります。花嫁の寝室の場、エルザは我慢できず禁じられた問いを発してしまいます。


 三幕、花嫁の部屋の場は、まさにホフマンの傑作、彼の名人芸が見られる。ワーグナーの有名な結婚行進曲のメロディーが始まると、彼が登場する。輝くばかりにゆったりとした気楽さを備えた人間らしい生き生きとした雰囲気をまとっている。

ホフマンは、エルザに対する徹底的な集中状態とその魅惑的な身体によって、抑制された性欲の持つ刺激的な感覚を生じさせる。純潔によって抑えられている情熱と粗野な本質が新たに見えてくる。彼は、Das suesse Lied verhalt; wie sind allein(甘い調べも消えて、私たちは二人きりだ)を、抒情的に愛情いっぱいに始める。優しく、彼女の瞳、彼女の顔、髪、全身を、突き刺すような憧れの眼差しで探っている。ホフマンは、恍惚感を含むフレーズで、様々のレベルの弱音を多用する。エルザが禁じられた問いを発する前、あふれるような詩情をたたえて歌われるAtmest du nicht mit mir die suessen Dufte?(甘くかぐわしい香りを感じないのか)において、ありったけの愛を、喜びの気持ち全開で、高らかに宣言する。

怒りと悲しみに打ちひしがれて膝をついてくずおれる前の崇高な瞬間、彼は、彼女の口を閉じようとして手を伸ばす。それは、愛を守ろうとする死に物狂いの行動だ。すべてが失われた苦痛を感じつつ、両手で頭を抱え込むが、猛烈な苦しみを抑えることはできない。目には涙があふれる。

彼のHoechstes Vertrau'n(私は深く信頼した)は暗く、困惑に満ちて、とても説得力がある。激しい非難としては、愛情に欠けていないし、理解さえ示している。しかし、痛みを和らげることはできない。

エルザが差し出した剣を受けとるために機械的に振り向いたとたん、感情の失せた自動的な動作で押し入ったテルラムントを切り捨てる。そして、力なく立ち尽くす様子は、内面的な崩壊をまざまざと表わし、Weh' nun ist all unser Glueck dahin(ああ、今や私たちの幸福はすべて失われてしまった)で、彼の英雄的な声は悲しげなつぶやきに変わる。

 ホフマンの演奏では、この瞬間から、ローエングリンは、人間と愛し合いたいという激しい欲求故の永遠の悲しみを知ってしまったにもかかわらず、その人間的な愛の喜びを、彼は得ることができないことを知っている。心をかき乱され、空虚な気持ちを抱えつつも、はるか彼方からもたらされる墓場のように陰気な落ち着きが彼を支配する。

彼はブラバントの貴族たちにテルラムントの亡骸を運び出すよう威丈高に命令し、寛大な態度で、エルザの侍女たちを呼ぶ。そして、これが最後とばかり花嫁を振り返って、限りなく穏やかに立ち去る。(つづく)


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