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クラシック音楽vs・・・ [PH]

前にも引用しましたが、ヴォルフガング・ワーグナーは、歌手のクラシック音楽以外の分野での仕事についてこう述べています。

 「1983年にペーター・ホフマンのレコード「ロック・クラシック」が発売されたとき、当然議論がまき起った。それはオペラ界に限ったことではなかった。私は個人的に、ホフマンに、クラシック以外の音楽とのかかわりに対して警告したことも忠告したこともない。常に陰から、彼のポップスへの寄り道を擁護していた。

このレコードの成功の波は、ホフマンを突然、3分の2のポップス活動へとひっさらっていき、専門分野であるクラシック活動は3分の1になったが、時期的にうまく配分すれば、問題はなかった。オペラ歌手がポップスを歌うことは、当時はセンセーショナルなことだった。

確かに彼は、ポップスを歌うための前提条件を充たしていた。彼のポップスは、非常に優れた歌唱による高尚なものだった。しかし、このようなポップスは、いわゆる娯楽音楽界では、それほどまじめに受け止められなかったし、注目もされなかった。それは、まさに歌唱の質の高さが原因だ。その仲間と言えば、ヴェスターハーゲンなどが思い浮かぶ。

他方、クラシック界は、ポップスを「どうしようもない息子」と見なしており、トリスタンを歌えるほどの者ならば、まさかポップスなどやるはずもないとの意見で一致していた。

ところが、ホフマンはそれをやり、音楽的に人々を魅了し、両分野で著しい成功をおさめた。」
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両分野の純粋主義者たちはもちろん、マスコミの反応も、概して批判的だったようです。何故、「オペラというオリンポス山の頂き」から、「ポップスという低地」におりるのかと問う者、そうまでして多少の金を余分に稼ぎたいのかと非難する者など。

これに対して、歌手は「オリンポス山の頂きから転落した」とは感じていないし、同時に「オペラのテノールとロックシンガー」であることが矛盾しているとは思わないこと、また、「楽しいからこの音楽をしている」のであって、だれもこのような成功をもたらすことなど予想できなかったと、繰り返し説明。計画中のロックの演奏旅行に関しては、「突然二つになった仕事は、厳密に区別するべきだ」という立場を堅持します。

「私としてはこれまで同様、絶対的に大きな情熱は、ポピュラー音楽ではなく、オペラに対して持っているのだから、オペラの舞台で、声に関しても、演技に関しても、今以上に、更に良い状態を示したいと望んでいた。私はオペラが今までと同様大好きだが、ロック・ミュージックは楽しい。

私は演出家や指揮者に指示されることなく、創造的になれるし、歌いたいように歌うことができるし、思いのままにリズムに身を任せる喜びを味わうことができた。

それに今はもうロックなしで済ませたくはない。クラシック音楽とポピュラー音楽の両方をこれからも続けていきたいなら、両者を厳格に区別するべきことは明白である。つまり、一定期間は、演奏旅行にしろレコード録音にしろ、オペラのような響きにならないように、前もって声をその音楽に合わせておかなければならないから、そのための準備期間も含めて、ポピュラー音楽だけをする。その後は再び切り替え期間だ。ここでは、オペラの舞台でベストを尽くすために、クラシックの歌唱に集中する。

二種類の音楽を混ぜ合わせたいとは思わない。私はそのときどきの『二つの仕事』に、つまり、そのときにたずさわっている方にいつも完全に没頭している。『ロック・クラシック』のレコードのあとで、バイロイトでのパルジファルに対する批評がすばらしい結果になって、いままでよりもよいとさえ言われたとき、私にとって、それはいわば御墨付きであった。

 しかし、それ以上に、頭を横に振ってあきれるしかないような状況もあった。例えば、ある評論家は、カラヤンとのレコード録音の『パルジファル』について、私の歌唱には声に関する問題がききとれるが、それは『ロックの叫び声』に起因することは疑う余地がないと書いた。もっともこの評論家は、この録音は確かに『ロック・クラシック』のあと、発売されたのだが、そのずっと前に録音されており、しかもその時期に私は、ロックミュージックのことを考えることさえもまったくなかったし、ましてや歌うなどはとんでもないことだったということに気がついていなかったようだ」(ペーター・ホフマン)
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 「クラシック」関係者からはペーター・ホフマンのダブルキャリアに対する批判は全くきかれなかったと言います。1983年にバイロイトで指揮したジェームズ・レヴァインは、ポップスを歌ったパルジファルの声に関してこのように述べたそうです。

 「ペーターがロックンロールを歌うことに関して言えば、彼の声楽テクニックはすでに成熟しているので、声が損なわれるということはまずありえないと思う。疲れたら、マイクを使って歌えるし、拒否することもできる。......目下のところペーターはどこから見ても好ましい状況にあると断言できる。声は成長する。芸術家としての能力も知性も成長する。............ 彼が何を歌うかはどうでもよいことだ」
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伝記(2003年刊)の著者は、この間のことをこう分析します。

「1980年代末以降のマスコミの論調を概観すれば、相変わらず、ペーター・ホフマンという現象が世間を怒らせていたのがよくわかる。ホフマンが娯楽音楽とクラシック音楽を区別する一般的な図式、そして、それと結びついている『高級な文化』対『大衆文化』という価値づけを拒絶したことが許せなかったのだ。

ポピュラー音楽の分野におけるレコード発売とライブ演奏の成功、魅力的な外見、俳優としてのマスメディアへの出演などは、現代的なポップ・スターとしてのすべての基準を満たしていた。こういう点で、他のどのポップ・スターにも先んじていたのはもちろん、同時にすばらしいオペラ歌手だったことも事実である。彼の場合、オペラの勉強に挫折して、ポピュラー音楽に転向した歌手と違って、両分野を互いに侵害することなく、むしろ互いに関連を持たせたつつ、プロとして、二つの道を突き進んだ。.......

........クラッシク音楽評論家の中の純粋主義者を怒らせたのは、彼らが言い立てる何らかの声に関する欠点などではなく、むしろ、自分の微妙な立場を気にかけるどころか楽しんでいた、彼の無頓着さのほうだったのではないだろうか。彼のオペラ歌手としての業績を批判した人は、もっぱら誤った思い込みによる『劣悪な』大衆文化に対する憤りだけに導かれていたことが極端に多く、彼らの目にはペーター・ホフマンこそが、その代表者として映っていた可能性があるのではないかという疑惑が当然生じる。

もう一方の陣営の『狂信的な』評論家もやはり、ホフマンは、反逆的かつ非協調主義者的ロックミュージックの『純粋な教義』を信奉していないとして、彼を非難した。彼らに言わせれば、ホフマンは商業主義が生んだまがいものだった。このように、彼はどこにも居場所がなかった。そして、それにもかかわらずか、あるいは、まさにそれ故にか、成功したのだった」
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コメント 4

森の妖精

今年、バイロイト音楽祭に行ってまいります。猫に小判、豚に真珠ですが、雰囲気を味わってまいります。
by 森の妖精 (2008-01-20 17:35) 

euridice

森の妖精さん
チケットを取るのとても難しいそうですから・・
何度も申し込まれたのでしょうね。
夏が楽しみですね。

私は申し込んだこともないですけど...
もうずいぶん前に親戚の人が家族で行って、
公演を分けて観たという話で、
へぇ〜ワグナーファンだったんだ〜〜なんて
びっくりしたことがあります。
娘の一人はプロのコントラバス奏者ですけど、
父親にクラシックの趣味があったとは、
しかもワーグナーとは、全然知りませんでした。
by euridice (2008-01-21 10:47) 

Rosina

クラシックから始まって、一時ロックに傾倒し、今はまたクラシック、それもオペラに傾倒している鑑賞者としては、クラシックもポップスやロックも、楽しみと言う点では同次元にあります。だから、至上主義者(?)の方々の意見には時々、カルチャーショックを受けますね。

ワーグナーはその昔ジェームス・キングが出ていて、カール・ベームが指揮をした『ワルキューレ』しか全幕盤で持っておらず、不案内なのですが、同時に『アーサー王伝説』等には興味があって、一時は大学の卒業論文に取り上げようと思っていた程でした。
by Rosina (2008-07-12 02:13) 

euridice

Rosinaさん
>至上主義者(?)の方々の意見
なんだかことさらに物事を難しくしている感あり・・だと思います。

>『ワルキューレ』
シェロー演出のバイロイト音楽祭(1980年)の映像が、
数少ない視聴可能なホフマンのなかで、最高だと思います。
by euridice (2008-07-13 07:26) 

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