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役についての歌手のコメント集 [PH]

ペーター・ホフマンの伝記を読むと、様々なオペラの役に対する歌手の考えがわかります。キャリアの初期に演じたものを、まとめてみます。

「何を歌うか」は、歌手が歌いたいかどうかだけで決まらないにしても、事の性質上、いやいやしてもうまくいかないでしょう。「幸福感」あるいは「歌う喜び」が不可欠だと、歌手は繰り返し言っています。

「今、私は歌っている。それは、喜びが失われていないからだ。喜びなしで歌うことは、この仕事に必要な才能がないということを認めるということだ。喜びを持たず歌う、あるいは、積極的に取り組まないなら、能力は無意味である。喜びに裏打ちされなければ、前に進むことはできない。そして、観客はそういうことを見抜くものなのだ。」(ペーター・ホフマン)
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タミーノ:モーツァルト「魔笛」

私は、初仕事が、テノール、しかも、やすやすと高音を出す本物のリリック・テノール、とりあえず申し分のないタミーノだったことに、驚いている。タミーノは高いドを朗々と歌うことができたし、よさそうに見えた、そして・・・・が、しかし、成功は収められなかった。私はなぜだろうと自問した。ひとつ気がついたことは、彼は常に悲し気で、陰鬱で、意気消沈しているので、弱々しい人物というイメージで描かれることが多いということだ。

そして、タミーノ役に対しては、居心地がよくて特に好きだという気持ちを持ち続けている。『その通りです。タミーノは、また歌いたいと思っています。タミーノは声のためにいいのです』
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ファウスト:グノー「ファウスト」

何はともあれ、気楽で、楽しい時代だった。だが、果たせるかな、すぐに「ファウスト」の番がきた。アリアの中に高いドの音があるのだ。この音は、一度しかうまくいかなかったと思う。私はこの音に対して物凄く神経質だったからだ。しかも、このアリアは、「私はめったにないような不安を感じている」と、始まるのだ。まさにその通りではないか。残念なことに、まさにその不安を演じるべきだったところで、その不安はおのずと明らかになった。その時、舞台で本気になることがいかに害になるかということに気がついた。
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鼓手長:ベルク「ヴォツェエク」

バーゼルではヴォツェックに客演した。私は粗暴な人間である鼓手長を歌った。彼は肉体的魅力でマリーを意のままにしており、ひどく冷酷に扱うのだ。この人物に対しては、おそらく十分な距離を保って、その人物像を投影したのだが、私の演技に対してよい批評を得た。演技と同様に音楽的にもまさに挑戦だった。

この時のことは、いまでもはっきり思い出せるが、この役は粗暴な人物だから、私は当然ながらマリー役を乱暴に扱うべきだった。マリーというのは、舞台では、私が肉体的魅力で、意のままにしていなければならない女で、彼女の胸ぐらをつかんだりして、ひどく残酷に扱うように求められた。そんなことをするのは、あのころの私にとって、難しかった。人々の前でおおっぴらにそんなことをするのは、奇妙な感じがしたが、最終的には、完全に納得して、やり遂げることができた。

鼓手長は戦闘的なロンドに伴われて登場する。これはこの男の性的能力の強さを現すので、彼は音楽のためにのみ舞台にいる必要があり、少ししか歌わない。『俺は男だ。俺は女をものにしたぞ。あの女は鼓手長様のものだ。胸も肩も身体は固太り』歌は全然すばらしくない。

この役の表現方法を勉強する為に、ビュヒナーの芝居『ヴォイツェック』を見に行ったことがある。だが、実際何も学べなかった。本当に何ひとつ。シュトルツィングのアリアのあとで、ベックメッサーが『まるで言葉の濁流でしたが、何か聞き取れましたか』と歌う。そんな風に感じた。鼓手長は演劇ではたいして重要ではないように思えた。

オペラでは、音楽が彼に重要性を付与している。彼の行為は正当性をもつようになる。彼は肉体的に非常に強い男だ。彼はマリーに荒々しく、女と呼びかける。女というものは、絶望的な状況で、世の中を恨みながら、耳を垂らしてこそこそとうろつきまわっているヴォイツェックのような男といっしょに落ち着かない生活をするよりは、まさしく襲われるほうを好むのだ。
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アルフレート:ヨハン・シュトラウス「こうもり」

 全く違うタイプもある。やはり同様に肉体的魅力を振り回しているのだが、気楽な、遊び感覚の人物だ。たとえば、「こうもり」でのアルフレート役は、鼓手長役とは正反対の愉快な仕事だ。この役はその後六年やらなかった。この役を再び演じることになったとき、私は本当に驚いた。ロンドンのコヴェントガーデン、ズービン・メータの下でのある午後の舞台稽古だった。その時、私はもうこの役について「どうしようもないことは全て、忘れられる人は幸せ」というところしか覚えていなかったのだ。

(後にアイゼンシュタイン役も演じました。二番目の奥さんデボラ・サッソンがアデーレ役です)
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ラダメス:ヴェルディ「アイーダ」

そして、常に大役担当だった。(「アイーダ」では、舞台上で、トレーを捧げ持ったこともなければ、報告書を手渡したこともない、ということは、たった一言、歌うだけで、ラダメス役としての出番が回ってくるのをじりじりしながら待っている伝令役ではなかった。はっきりしているのは、この一言が存在しなければ、ラダメスはミスの埋め合わせをするための時間的余裕を、全公演期間中ずっと持てるということだ)
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アルフレート:ヴェルディ「椿姫」

これは見るたびに眠気との戦いにならざるを得ず、私にとっては拷問だ。対して、音楽は、レコード、ヘッドホンで、耽溺に至る。オペレッタの分野では、絶対にこうはならない。つまらなさの秘密を明かそうとするのは無意味だと思う。アルフレート役はもちろん喜んで引き受けている。だが、実際のところ、リハーサルのあとには、もうこの人物に本当にうんざりしてしまう。.......
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